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412 経験から生まれる境地


はじめに

人は様々な経験をします。その経験から思想や信念を形成していくことがあります。と言いますか、およそ多くの場合、様々な経験の中で幸せであるとか不幸であるとかを感じていくはずです。
「反出生主義」という言葉は昔から耳にしていましたが、最近SNSなどでも時々この思想に関する議論を目にするようになりました。
私は、この哲学的な思想にも近い議論にある種の共感と危険性を同時に感じるのです。まさに、経験から生まれる境地がこの「反出生主義」につながる部分が大きいのではないかと感じるのです。
今日の教育コラムでは、「反出生主義」とはどのような思想でその思想から見えてくるものについて少し考えてみたいと思います。

反出生主義とは

この考え方は、これから生まれてくる命、つまり生が害悪である、または、不幸を体験するものとしていますので、今存在している命はそのままでかまわないが、これから誕生する新たな生をこの世に生みだすべきではないという思想です。また、人類が環境破壊や戦争などを起こす原因なのであるとすれば、人類こそが絶滅した方が良いという主張を道徳原理として掲げる思想でもあります。

無責任ではないのか?

反出生主義を唱えることは、ある意味で無責任ではないかという心配が生じます。生まれてくる命が不幸になることも、幸せになることもあるだろうし、先に生まれたものが全ての子どもたちが幸せになれるような社会や世の中を作っていこうとする努力をし続ける責任から逃げようとしているのではないかという見方ができます。
しかし、一方で高い責任感を持っているようにも感じることができます。環境問題や平和問題、格差問題など様々な問題に真剣に向き合っているからこそ、その問題の本質的な解決がいかに非現実的かを感じてしまうのではないでしょうか。
すると、これから生まれてくる命にそれらの負の側面を与えてしまうことに責任を感じるため、反出生主義者になるという考え方も成り立つように思います。
何も人間を憎んでいるとか、嫌いであるから反出生主義者になるのではなく、もしかすると大変に高い理想があるのだけれど、その理想に新たな命をふれさせることができないという現実社会での経験が、こうした思想に結びつくのではないでしょうか。

理想の世界と現実

不幸や幸せは誰かから与えられるものであるという考え方は果たして正しいのでしょうか。不幸かどうかはだれが決めるのでしょうか。困難を乗り越える経験はつらい感情だけを生むのでしょうか。
私は、達成感や充実感は時に苦境を経験することもありますが、その中で生きている実感や充実感を同時に感じさせてくれることもあるように思うのです。
温暖化の影響や大災害などに遭遇することで、すべてを失う心配は、新たな技術や生活様式を生み出すきっかけかもしれません。犠牲の上に成り立つものかもしれませんが、私たちはそうした犠牲というか命をつなげて現在の社会をつくってきているのではないでしょうか。私個人としては、命をつなげる中で生きることを考えてきた人類の過程は、決して無駄ではなかったと考えたいと感じています。

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