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紡ぐ鬼 -結局こいつはなんなのか-

※画像自体に記載される著作権表記を含め特別の記載無い限り、添付写真は汚了雪玉自身の撮影したものになります。諸権利は手放しておりませんので無断転載はお控えください。一言いただければ基本的に喜んでご対応いたします。




1. 散歩のかえりにいたあいつ


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 今日も今日とて炎天下、散歩に行っていました。田園地帯に東西へぐんと伸びていく堤防を行儀よく歩いて行く片道8kmの道のり。正午過ぎを狙って行ったのでそれほど陽射しに中てられることもなく、風の優しいのも手伝って快適な時間でした。

 上の写真については晩稲の田んぼだったからかまだ青々としていましたがほとんどの田は既に穂をつけはじめて、まだ少し先の秋の訪れを今か今かと待っているような状況。少しすれば一面金色の景色が見られると思うと密かに楽しみです。

 本日のコースは先にも書いた通り、全行程16kmの道のり。A市とK市の境の辺りにあるAY水門が折り返し地点になっているルート。少し前に親しい友人を連れて24kmコースを歩いたときに水分補給の出来るポイントを用意していなくて迷惑かけてしまったので、今回は自販機やコンビニを見付けておこうという算段も立てていました。結果としては折り返し地点でうまいこと自販機を発見。今後の水分補給には問題なさそうです。

 帰りしな、同じルートを通って歩いていた時、ふと道端、雑草の一群に目が留まりました。


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こいつら


 散歩を家業にして6年ほど経ちますが、実はこいつら結構な頻度で会ったことがある。でも、なんだかわからんけどよく見るやつという認識でしかありませんでした。一時期、熱心に雑草を調べて摘んできては押し花を作り、栞に加工して「うふふ」と楽しんでいたこともあったのですが、こいつはノーマーク。記憶が正しければ花は付けるがあんまり綺麗じゃない、というのが私のイメージで、押し花の対象にはならなかった。そのために調べていないのだなと思い至りました。


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 かわいいでしょ(23歳男子お手製のロークオリティ押し花の栞)

 

 無学浅才のくせして言うことは一丁前の頭でっかち(私が)なので、「たぶん、なんか葉っぱ似てるしアジサイの仲間かなんかだろう」と決めつけていた時期はあったのですが、それでは色々と具合が悪い。


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アジサイの葉っぱ(http://www.jugemusha.com/jumoku-zz-ajisai.htm より)

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問題の植物(汚了雪玉 撮影)


 いやもう全然違うやん

 ここで並べたら全然違うのでびっくりしちゃいました。もともと「問題の植物」は葉の裏が白いのがネックではあったのですが、ずっと葉の縁がギザギザしているのと、草丈がなんかちょっと高いので「これはアジサイです」と乗り切っていたのですが、年貢の納め時のようです。

 葉脈の広がり方は違うし

 新芽の芽吹き方も違うし

 アジサイの葉は光沢があって撥水するけど、こいつはなんか繊毛が生えてる気がする

 いやもう全然違うやん。

 じゃあいったい何なんでしょうか。せっかくなので調べてみました。

 最近は便利なもので、googleでは画像検索ができる、と。雑草を調べ始める前は意地でも葉っぱや茎、葉脈のつくりや上下の枝同士の伸び方の相関性などから図鑑で以て同定をしていたのですが、あたし散歩中だし図鑑無いし、今日はズルしちゃお!と、すぐにスマホでアプリを開く。

 真面目な話、今の時代いろいろのアプリケーションを含めた人類の英知は存在しているので、そういうのはふんだんに活用していくべきだと思うのです。もちろん、書籍から答えを導き出せる能力は研究者なら必要だけれども、検索技術も技量が求められますので、便利アイテムで垣根を低くしておくのはその分野の新規参入者を呼び込み、発展に繋がること間違いなし。「なんか難しそう」「めんどくさそう」、そういう感情が人間の興味や関心を削いでいく一番の多く、且つ悲しい理由のはずなので、そこをこそ技術の発展でカバーしていきましょうよ。


 というわけで、私は楽をしたかったから画像検索してみました。その結果がこちら。


スクリーンショット (202)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B7


カラムシ」。

 いや、知らんなあ...。確かにこれだけど。


カラムシ(苧、枲、苎、学名:Boehmeria nivea var. nipononivea)は、イラクサ目イラクサ科の多年生植物。

 

 はあ、イラクサ。聞いたことあるなあ。

 なんか本当にあほなこと言うようで申し訳ないんですけど、イラクサと言ったら雑草で結構嫌がられるタイプだったような。それと名前のイラクサが「イライラする草」っぽくてムカチュキーーー!!(腹が立った時の”かわ余”風表現。”かわ余”とは何かは自分で調べてください。)というイメージ。それ以上でも以下でもないなあ...

 しかし私は続く説明文で閃いたのです。

南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古くから植物繊維をとるために栽培されたため、文献上の別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)などがある。



「お」


お...?

お.........?! 

お、お、おおおおおお!!!!!!????

お前が「苧(お)」だったのか..........!!!!!!!

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これにはシライシもびっくり


 真夏の快晴、青天下の土手に一条の霹靂。私の脳天から足先まで衝撃が走りました。

 そう。

 私は、「問題の植物」が「苧(お)」だとは知らなかったのですが「苧(お)」を知っていたのです

 果たしてそれはどういう意味なのか。

 全ては、本記事のトップにあった「謎の鬼の絵」に繋がります。


2. 「お」の鬼

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 こちらの絵をご覧ください。こちらは版画で、作者は「鳥山石燕(とりやませきえん)」。その筋の人間ならだれでも知っている江戸時代の画工です。昔、結構調べてたのでつらつら書こうと思えば書けるのですが、長いので省きます。本稿末にまとめておきますので興味のある方は、読んでみてね。別に面白く無いよ。


 さてみなさんもご存知、「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である水木しげる氏は、げんざい我々が「妖怪」という言葉を聞いたときにイメージするポップだけれどちょっぴり怖いばけものたちの、原型を作った人物と評価されています。

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ちょっとこわいのもってきちゃった(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000005250.000007006.html より)


 妖怪というのは元来、人が誰かに語って聞かせるものでありそれぞれの人の中で妖怪の姿かたちというがイメージされるものでした。そのため、誰かにとっての「ぬりかべ」は必ずしも別な誰かにとっての「ぬりかべ」と同じ容姿をしていたわけでは無いのです(特にぬりかべは触れると大火傷するくらい界隈では扱いがデリケートなのであまり言及しません。河童も同様)。

 それに対して、水木しげる氏は自身の作品の中で多くの妖怪をとりあげて、妖怪たちに魅力的な外形を与えました。これはしばしばキャラクター化と指摘されるものでもあります。敢えて「指摘」というちょっと棘のある言い方をしたのは、水木氏の活動とその反響が妖怪というものを括弧つきの「妖怪」――つまり固定化してしまったという弊害があったことが否めなかったからです。誰もがぬりかべのお話を聞いたとき、「ぬりかべ」(垂れ目が付いた、あるいは一つ目のこんにゃくのでかいやつみたいな)をイメージしちゃうのは、なんか人が語って聞かせることで伝えられてきた妖怪とは別物になっちゃうんじゃないかという。日常生活でこの点で困ることは無いんですが、妖怪を研究対象にする人からすると困る点です。もっとも、それさえ面白くとらえようとすれば、可能なのが民俗学とか口承文芸学とか学問の面白いところなんですけどね!!未来は明るい!!

 さてちょっと話が逸れましたが、実はこの妖怪のキャラクター化というのは、現代に入ってからじゃないんですね。実は脈々と遡ることができて、けっこう残ってます。

 湯本豪一という民俗学者の方がいて、この方は多くの妖怪絵巻と呼べるような代物を多数所持していらっしゃいますが、なかには室町時代のものも!...そのころから、妖怪やばけものというのは絵になってきたわけです(「絵になってきた」としたのはキャラクター化とは別にしたいから。室町時代の妖怪画については、印刷技術の未熟さなどの理由でその作品を目にする人々が限られていたことが考えられるので、人口に膾炙する意味を有するキャラクター化とは分けて考えるべきでしょう)。

 鳥山石燕は、そんな妖怪画を描く絵師のひとりでした。そして彼の作品は、水木しげる氏に先立って江戸時代に、「妖怪のキャラクター化」を推進したのです。それが彼の世に知られる代表作『画図百鬼夜行』シリーズ。水木しげる氏は日本の様々な民俗行事の写真などから着想を得て妖怪を「妖怪」にしてきましたが、その活動に一役も二役も買ったのが鳥山石燕。彼の作品を見ると、その中に「あれ?見たことあるぞ?」というデザインがたくさんあるはずです。

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鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』角川ソフィア文庫
なんとシリーズ四作が文庫本一冊になってるんだ


 彼は版画でもって妖怪たちを描き、それを刷って大量に世に送り出しました。そのため当時の人々の目に触れる機会が多く、この江戸時代の段階で妖怪の「妖怪」化、つまりキャラクター化が進んでいたのです。江戸時代の中~後期、また水木氏が活動を始めるまでの間にも、妖怪が一定のデザインを踏襲されて、玩具などに登場するのは容易に確認ができます。妖怪は印刷技術の発展により「妖怪」になっていった――おもしろいですよね。このあたりのことは、香川雅信さん『江戸の妖怪革命』(角川ソフィア文庫)に詳しくあったと思います。概ねここまでの解説はここからの受け売り、だったと思う(随分前に読んだので忘れた)。

 鳥山石燕は

『画図百鬼夜行』

『今昔画図続百鬼』

『今昔百鬼拾遺』

『百鬼徒然袋』の四作をシリーズで残しているのですが、

 このうち最も古い『画図百鬼夜行』の「風」の段(『画図百鬼夜行』は陰、陽、風の三段に分かれています)に例の鬼がいます

 それが「苧うに」です。

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もう一枚載せておきますね


 怒涛の急流、岩の瀬に低い松が生えており、その背後にはすっくと檜か何かが立ち並んでいます。

 その景色の境に、全身を長い毛が覆った面長のなにか。石燕の描画・版画の法の観点から見て、このバケモノの毛は白い毛と見て良いと思います(同作品内の他の妖怪画の中の白髪と思しきものと比べると、苧うにの体毛も白いものを表現していると見るのが妥当)。

 鉄漿(おはぐろ)を付けているので婚姻後の女性を思わせますがその歯は鋭く尖っているのでやはり人ではありません。鼻は高く、目はギラギラと輝いており、その様は異様です。

 私は道端の草の名前を調べ、そこで「苧(お)」という字を見た瞬間、この怪物の絵を思い出しました。「進研ゼミでやったやつ!!」のニュアンスで。



3. ところでなんですかこの化け物は
-答えの出ない問い-


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石燕と同時期の画工:佐脇嵩之(さわきすうし)の『百怪図巻』より
ここでの名前は「わうわう」。月額見放題にはならない


 みんな知りたいよね。こいついったいなんなのか。それでは、Wikipediaを参照してみましょう。え?そんな怪しげなものひいてきて大丈夫かだって?大丈夫、あとで説明しますね。

【平成以降の解説】
苧うに(あるいは石燕が原型とした「わうわう」)については内容を示した記録や言い伝えが明確に存在していないため、現段階ではどのような意図で描かれた妖怪であるかははっきりしないが、平成以降は前述の「苧」と山姥の関連性の高い昔話があることからの推測として、各地に伝承されている糸つむぎを手伝った山姥などを取り込んで「苧うに」という名称がつけられたのではないかとも考えられており、苧うにを山姥の一種と解説する図鑑や書籍も存在する
山姥が苧から糸をつむぐ作業をする昔話は各地にあるが、例として越後国西頸城郡小滝村(現・新潟県糸魚川市)のものを挙げる。女たちが集まり、麻で苧を績(う)んでいると、山姥が現われ「俺も績んでやる」と言って手伝いを始めた。山姥は麻を噛んでは糸を引き出し、人間には考えられない速さで大量の苧を績んでみせた。手伝いを終えた山姥は家を出た。女たちが後を追ってみたが、姿は忽然と消えていた。
山姥との関連性を持たせた考察が増える以前は、山間の谷川で水を飲みにやって来た人を襲って食べると解説されていた。これは石燕の描いた絵からの連想に拠るといえる。


 はい。読んでくださった方にはわかると思います。なんで大丈夫なのか。

 要するに「誰にもわからん」からです。

 Wikipediaはあんまり信用ならんサイトで有名ではありますが、この「苧うに」については【平成以降の解説】とわざわざ区切っているように

いや正直なところこいつがなんなのかよくわかんないんだけどね

という諦めオーラがページ全体から発されているため、潔ささえ感じます。というか名称と現象がイコールになっている妖怪って実はそんなに多くないんです(というか名称と現象を分割することのナンセンスさもあって、ちょっと厄介)。

 そういうこと(結局妄想だよということ)を踏まえて、ちょっと「苧うに」について考えて見ましょう。順序として考えられるのは

➀「わうわう」を代表する「苧うに」の原型になるバケモノのデザインがあった

②石燕が「苧」にまつわるお話を聞いて、「わうわう」の絵にストーリーを絡ませた(体毛の表現が黒から白へ変わっているのは、「苧」が繊維加工をした結果に白く美しい状態になることからじゃないかな。苧を績(う)む怪物として、その山姥という老婆という性質もそうだが、頭髪を含む体毛に苧の白く美しい様を重ねてリデザインしてもおかしくないよね)

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加工された苧。青苧(あおそ)というらしい。引用元で苧の加工について越後上布・小千谷縮布技術保存協会が解説しているのでぜひ見てみてね
http://www.johfu-chijimi.jp/process.html ) 

③結果、苧にまつわるお話が「わうわう」という謎のばけものと合体して(ある種のキャラクタライズ)、「苧うに」という「妖怪」が誕生した。


 ということになりますね。そうなってくると「苧うに」を考えるのには

・「苧」を績むのを手伝ってくれる異形の存在

・「わうわう」というなんかよくわからないバケモノの存在

 の両者について考えなければならないということになります。

 後者について考えるのはもはや、虚無的所業です。ひらがなだけで構築される名称を持つ「妖怪」を考察するのは、本当にもう想像の域を出ないものになってしまう。「うわん」という「妖怪」がいますが、これだって「驚かすときの掛け声だよね」という発想以来、あんまり有効な議論がなされていないと把握していますし、「わいら」という有名な奴もいますが結局あれもよくわからん。デザインが最高なので僕は好きなんですが「じゃああれってなんなの?」と聞かれる「全然わからん」としか返せないのです。「うわん」のほうは現象=名称で説明できなくもない。ただし「わいら」、テメーは駄目だ。

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「うわん」。説明を求められるこっちは「ぴえん」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8F%E3%82%93 )

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「わいら」。ちょっと見ずらいかもだから引用元見てみて。( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%84%E3%82%89 )


 じゃあ前者についてはなんか考えられるのかと言う話ですが、重ねて言うと以下は妄想になりますんで、本気にしないでください。



4. 私的考察


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此の度の元凶。でもあたし、きみのこと知れて良かった...

 思うに、苧を績むのを手伝ってくれる存在としての「苧うに」は山の民なんじゃないでしょうか

 俗に「山臥(サンガ)」と呼ばれた人々がいた、というのは、民俗学では一時期ブームになった言説です。ちょっと白熱し過ぎて暴走した「サンガ」論ですが、山の民の存在そのものを否定することはできないでしょう。「蝦夷(えみし)」「土蜘蛛(つちぐも)」を代表する東北地方にかつて存在したとされる慮外、まつろわぬ民。なんかかっこつけた言い回ししてわかりにくいと思うのでざっくり言うと

「田んぼを持たないからヤマト朝廷に税払う気無いし山の中を移動して山で暮らすことにしてます!関わらないで!あ、山裾の集落とはたまに付き合うよ」

という感じの人々のこと。「蟲師」という作品をご存知の方がいらしたら、イサザを代表する「ワタリ」の人々を思い出していただけると良いかも。

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こんな感じ。特別編「日蝕む翳」のワンシーンですね。懐かしい。続編来ないかな( https://nelog.jp/musisi-anohitoha-ima )


 ウィキで引用されるような「苧の超絶的な速さの加工技術」は里の民では無く山の民(ここでは山姥で代替されている)の中で育まれた、里の者にとって未知の、山の民独自の技術を指していたとも考えられます。

山姥が現われ「俺も績んでやる」と言って手伝いを始めた。山姥は麻を噛んでは糸を引き出し、人間には考えられない速さで大量の苧を績んでみせた。手伝いを終えた山姥は家を出た。女たちが後を追ってみたが、姿は忽然と消えていた。

 山男や天狗といった、山という異界に住む存在が結局何なのかというのを考えるとき、最終的な結論にしばしば「山の民」という存在が引き合いに出され、その論にも一定の納得が得られるケースが多いことからしても、山中の異形が里の民(つまり我々)にとっての異なる存在として表象されるのは無根拠ではないように思います。山の中にいたら髪の毛伸ばしっぱなしでも違和感ないしね。加えて、姥捨てなどの老人を口減らしするために山中に追いやるようなお話と結びつけて考えると、この山姥が通常の里の生活圏から追放された生活経験豊富な老婆で、里の若輩に経験が培った苧を績む最高の技術でもって助けたみたいなストーリーも考えられ無くない。

 新たな技術を運んでくるのは、常に外側の人間。それゆえに境界を越えてもたらされる富を独占するような「六部殺し」(調べてね!ここでは説明しないよ!いずれするかも!)の伝承があるわけで。この「苧」を績む山姥のお話は、里の向こう側、山という異界にあって独自の技術を編み出した山人の業から来ているんじゃないか、そう考える(妄想する)次第であります。



 結構いい線行ってないかしら?


5. おわりに

 

 まあ、と、いうわけでした。道端で見つけた雑草からよくまあここまで喋れたもんです。読んでくださってありがとうございました。

 以下に、補遺として「鳥山石燕」についての情報を載せておきます。2015年にまとめたものなので古いですが、何かの参考になれば。

 それでは、またね。




補遺「鳥山石燕とその作品について」


<鳥山石燕とその作品についての解説>

はじめに
 
江戸後期という時代は数々の画家が己の技術を大成し、ある者は諸派に囚われない画風、またある者は伝統を受け継ぎながらも現行の文化を組み込んで昇華した作風を立ち上げ、後世に残している。例えば室町幕府において御用絵師に上り詰めた系譜「狩野派」は時の権力者との癒着をことごとく達成し、安土桃山時代はおろか江戸末期までその威光を掲げることとなった。
そんな中でも妖怪研究及び妖怪画研究において重要な立ち位置を示す狩野派の二人の絵師として、狩野派の始祖にして妖怪画の始祖とされる狩野元信それに加えて佐野豊房(鳥山石燕)が挙げられる。
石燕については資料の乏しさから研究もそれほど盛んには行われず、判明していないことがほとんどで、世間は愚か芸術界隈にあってもその名は広まっていない。よって彼の作品を深く知るため、先行研究に依拠し、「門人」「師・画系」「功績」「生没」の四つについて触れていきたいと思う

1 石燕と門人

鳥山石燕については妖怪研究に興味を持つ人間にとっても、狩野派の町絵師であること、俳人版の『諸国人名牒』に名が載るほどに俳諧と深い関わりを持っていること、『鳥山彦』などの画譜等の版本を出版しており優れた門徒を輩出している絵師である、というような認識でしかない。先述の通り、鳥山石燕という人物についての情報は、非常に乏しい。昨今の「妖怪ブーム」や角川文庫の出版した『鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集』の影響で僅かに知名度が上がったとも言えなくはないが、それでもやはり彼の弟子と比べると、そこには天と地ほどの差がある。しかし良い弟子を育てられるのは、彼が良い師匠であったことに他ならない。ここではまず、彼が育ててきた弟子たちの中で特に高名な二人を紹介する。

・喜多川歌麿
  浮世絵の黄金期と言える時代に「陸続」や「美人図」を発表し、一躍脚光を浴びた絵師であり、この後の美人画に大きな影響を与えた。古くは明和七年の江戸座俳匠「東燕志」による歳旦帳『ちよのはる』に茄子の図の挿絵を寄せて「少年石要画」という落款を残していることが確認されている。石燕門下へと参加した年齢は定かではないが、「少年」と銘打っているだけあって15、6歳ほどで入門していたことがそれとなく窺え、さらに天明八年に上梓された、歌麿が挿絵を担当した狂歌絵本『画本虫撰』の「心に生をうつし…」から始まる石燕の跋文において、歌麿がかなり幼い段階から石燕の教えを受けていたことが窺える。彼の号は「石要」の他に「豊章」・「木燕」・「燕岱舎」などという石燕(豊房)に関連するものが確認されており、その数の多さは石燕との親密さを物語るとされる。

・恋川春町
 駿河小島候松平家の用人。安永初年ごろに石燕門下に入ったようである。浮世絵作品はほとんど知られていないものの、浮世絵師に限らず戯作者、狂歌師としても活動し、最終的には黄表紙というジャンルの開拓を達成した。久保田藩江戸留守居にして狂歌・戯作者の朋誠堂喜三二と親交が篤かった。

以上の二名は山川出版の『詳説 日本史』にその名が載っているが、その他にも志水燕十、東燕斎寛志、歌川豊春(西村重長、石川豊信の門人とも)などの著名な絵師、さらに東燕志との歳旦帳を覗けば夥しい数にのぼり、最低でも四十名以上の弟子の名が挙げられ、石燕門下はなかなかの規模であったようだ。それについては、その「弟子たち」が圧倒的に10~15歳の子どもや女性の占める割合が多いことから、画塾を開いていたのではないかという説が有力視され、加えて、喜多川歌麿のように幼く未だ一人前には遠いながらも歳旦帳に挿絵を載せさせていたのは、一種「名広め」としての目的があったのではないかと考えられている。「町狩野」としての石燕は、かなりの大所帯だったようである。

2 師と画系
 
次いで石燕の師匠及び画系についてだが、画系は紛れもなく狩野派であるものの、師匠については現在3つの説があがっている。それは「狩野玉燕」・「狩野養川院惟信」・「狩野周信」の三名である。これについて浮世絵研究家の永田生慈氏は、年齢の大きな隔たりや南青山氏の論文以前に石燕との関係が見いだせないことから、狩野養川院惟信を師とする説は無理があると主張した。そして安永三年に刊行された石燕の画譜『鳥山彦』の序文における「初受業於狩野周信往年研精上達」という記述と年齢算出及び比較による裏付けによって、現在は「狩野周信」が師であるという路線が最有力になっている。因みに先ほどの序文だが、「はじめ狩野周信に師事していたが後に研精して上達した」というようなことが書かれており、石燕が並々ならぬ努力家であることを物語っている。

3 浮世絵界における功績
  
石燕が隠居仕事の妖怪絵師、そして自己表現の手段の一環として活動をしたのは現在の東京都文京区に編まれていた庵であったという。彼はそこで『画図百鬼夜行』に始まる四作を生み出すわけだが、それについては次の⑵で触れることとして、ここでは浮世絵界という範囲での石燕の功績を紹介したい。
まずは「フキボカシ」という技法の出案と、自作品における使用であろう。
「フキボカシ」とは水を含んだ布で版木を拭いて版面を湿らせ、その上に絵の具をのせて摺り、水で薄く滲ませて階調を浮かび上がらせる木版画の技法である。これは『画図百鬼夜行』などにも使用されており、これによって生み出される微かな光の具合や幽玄さを伴うグラデーションというのは、葛飾北斎などの巨匠にも引き継がれていくものとなる。
それに加えてあまり知られていないことであるが、実は鳥山石燕は役者似顔絵を始めて描いた人物であるとされる記述が、小川顕道の『塵塚談』「役者似顔絵の事」に残されている。

歌舞伎役者写真画の事宝暦の始頃画工鳥山石燕なる者白木の麁末なる長サ二尺四十五寸の額に女形中村喜代三郎が狂言の似顔を画して浅草観音堂の中常香爐の脇なる柱へ掛たり諸人珍しき事にて沙汰に及びしなり是江戸にて似顔画の濫觴なるべし

濫觴というのは『荀子』子道における「たとえ下流では大河の揚子江であっても、上流に行けば觴(盃の意)を濫べる(浮かべる)ほどの細流に過ぎない」という孔子の言葉からできた熟語で、「物事の起源・源流」を意味する。つまり『塵塚談』が言うには、少なくとも「江戸」に於いて役者似顔絵の源流というのは鳥山石燕にあるというわけである。しかしながら残念なことに彼の描いた役者似顔絵(そもそも通常の浮世絵版画自体)というのは未だ確認されず、天明七年の歳旦集『ひつじのわら』における石燕の挿絵、力士「谷風」が似顔になっていることが永田生慈氏によって指摘されているだけである。ただ、彼の挙げた新しいジャンルと言うのは「一筆斎文調」や「勝川春章」、「東洲斎写楽」といった人物を生み出し、さらにはその後浮世絵界を席巻することとなる。それを加味して考えてみると、鳥山石燕という画工は妖怪絵師という面で研究されるだけでなく、最早芸術の分野において今一度取り沙汰されるべき人物であると私は思う。

4 生没

下の写真は東京都台東区元浅草にある「光明寺」墓所の一角、そして中央で線香の白煙を足元から漂わせているのが鳥山石燕の墓である。私は2015年の一月二日に初詣がてら石燕の菩提寺へと足を延ばした(撮影に関しては御住職に確認済み)。小ぢんまりとした寺の狭い墓所の中、彼の墓は至って控えめにそこにあった。なんでも江戸城本丸から見て正確な鬼門の位置にこの寺院は存在するらしく、そのあたり石燕という男の洒落好きが垣間見える。
 石燕は未だその生年と享年において、研究者の間で物議を醸すような状態にある。例えば、平成十七年に出版された『鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集(:角川文庫)』の作者要項には生年について正徳二年(1712年)と記されている。しかし、いくつかの事典で彼の名を引いてみると、正徳三年・正徳四年などという記載の齟齬が見受けられるのだ。調べてみると、これについてはどうやら光明寺所蔵の過去帳『命忌録』巻三に遺された「法名画照院月窓石燕居士 天明八戊申年八月三日」という記録が絡んでいるようである。今回は主題が異なるため具体的なことについては省略するが、現在挙げられている説の中で最も有力なものは楢崎宗重氏の提唱する「出生 正徳二年・享年 七十七歳」ということになるようだ。前項で触れたような偉大な功績を遺しながらも、その実謎多き浮世絵・妖怪絵師鳥山石燕はその実態があやふやなところを見ると、まるで彼自身が妖怪のように思えてくる。
 
5 作品

鳥山石燕の手がけた作品の中で最も有名なのが「画図百鬼」シリーズである。『画図百鬼夜行』に始まり、『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』『百器徒然袋』の四作、総勢208体の妖怪変化魑魅魍魎を図鑑形式にまとめ上げられたこれらは出版から二世紀以上が経った現代にあっても、その滑稽さと不気味さを両立させる巧みな図像は人々を魅了してやまない。
そして二十一世紀に入って、この四作の研究は一層盛んになっている。
 特に注目されるのがその構成である。中でも北城伸子氏は『画図百鬼夜行』の構成について数々の見解を発表しており、特にすべての始まりとなる「木魅」の役割について非常に深く掘り下げ、「山姥」に関しても片膝立てのポーズから、江戸期に人口に膾炙した奪衣婆との共通点と奪衣婆信仰の「サイノカミ」としての性質と、『画図百鬼夜行』という作品構成上の「山」から「人里」という妖怪の出没地の移行の中間地点に位置するという共通項より、『画図百鬼夜行』が妖怪の分類を主軸に置いた図鑑という性質だけでなく、一種の芸術・文学作品であるという主張を展開している。さらに調べてみると、学生の卒業論文においても「画図百鬼」シリーズは割と頻繁に取り上げられており、それらを数に入れ実際に手に取って読んでみると、シリーズ四作の研究については若輩の手を出す余地が非常に限られるほど進行した状態になっていることがわかる。
 
そして当然、研究が進んでいるのは構成だけでは無い。描かれている妖怪そのものについても、既に多様な見解が為されている。例えば、詞書が添えられていながらも同一の伝承が確認されず、石燕の創作であることが指摘されていた『今昔百鬼拾遺』の妖怪「泥田坊」は一時期、狂歌師「泥田坊夢成」こと品川玄瑚をモデルにしたものとみなされていた。しかし近年、妖怪を主題において人気を博している小説家京極夏彦氏が「泥田坊」について「滅茶苦茶なこと・無益なこと、転じてぐうたらなことの喩え」の意である諺「泥田を棒で打つ」との関連性について言及しており、石燕妖怪画についての研究にもあたっている首都大学東京の准教授である近藤瑞木氏もこの説を支持している。私もそれを受けて考えてみたが、詞書にある物語の「子孫のためにと翁が耕した田を酒にふけった息子が売り飛ばしてしまい、その田地に残った翁の執念(あるいは翁の霊)が形を成して「田を返せ」と夜な夜な現れる」といった内容から酒に毒された「ぐうたら」な息子の行動とともに、その息子のもとにでは無く買い受けた他人のもとに「田を返せ」と迫る理不尽、転じて「無茶苦茶」なことの顛末がかの諺と対応しているように思われる。
 その他「古庫裏婆(:同書)」や「百々目鬼(:今昔図画続百鬼)」など、シリーズ四作の計208体のうちおよそ三分の一が石燕の創作であるとされ、能・浄瑠璃・歌舞伎・諺などの数々の要素が複雑に絡まり合って創られた妖怪たちの研究が進むたびに彼自身の博学者ぶりが一層際立ち、結果的に絵解きや詞書解釈も難航しつつ漸進しているのが石燕妖怪画研究の昨今と言える。

(参照・参考)
・『歌暦と北斎 その芸術を支えた琳派・漢画派の絵師』
(永田生慈:『太田記念美術館』図版105号(2001))
・『石燕妖怪画の風趣――『今昔百鬼拾遺』私注』(近藤瑞木:『妖怪文化の伝統と創造』)
・『異界のイメージと廃墟―― 一八世紀のピクチャレスクから現代映画までの表象風景』(佐々木高弘:『妖怪文化研究の最前線』)
・『明けなき夜の百鬼夜行――鳥山石燕『画図百鬼夜行』の構成方法』
(北城伸子:『国文学』52-11)
・『鳥山石燕とその一門について』(永田生慈:『宗教社会史研究3』)
・『「怪異」の表象――『画図百鬼夜行』のイメージを読む』(北城伸子:『論集仏教土着』)
・『蔦屋重三郎版絵入本』(鈴木俊幸:『解釈と鑑賞』)
・『浮世絵師墓所志(一)』(原比露志)
・『謎解き『画図百鬼夜行』――鳥山石燕の構成方法をめぐって』
(北城伸子:『京都精華大学紀要』2002年)
・『鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集』(鳥山石燕:角川文庫)

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