映像監督の末吉ノブと申します(2)〜大阪プロマネ時代〜
前回は自己紹介がてら生い立ち的な事を書かせて頂きましたが、続きになります。
ここからは何回かに分けて書こうと思います。というのも、、社会人になってからがだいぶ濃厚でして…笑
2回目は大阪でのCM制作(プロダクションマネージャー時代)の3年間のお話です。
ちなみに、これは20年以上前のお話なので、今は業界自体だいぶ変わってます!もちろん変わってないところのが多いですが。
大阪の老舗CM制作会社。
1997年に入社しました。
就活で東京の映像系映画系が全滅したので大阪のCMの会社に入りました。
ちなみに、就活で強烈に覚えてるのは、当時は新興だった映画配給会社のG◯◯Aの面接官に「自主制作くんはいらないんだよねー。」て言われたり笑
某放送局の最終面接で「コネもないのによくここまできたねー」とか言われたり笑
某巨大映画会社の面接で社長に時代劇を語ったら、「オメーになに分かんだよ」て怒られたり笑
ほんまに東京は厳しい世界やなーと実感したのは忘れません。
で、地元大阪の会社に入るんですが、大阪でも結構古い制作会社でCM専門の会社ではなくどちらかというとメインはTV番組の制作や、撮影などの技術会社のイメージの方が強い会社です。
面接で社長に、「何やりたい?」って聞かれて、
CMの監督しか興味ありません。番組は嫌です。て言ったら、「そんな甘ないねん。」と一括されながらも、無事にCMの部署に配属。CMの制作とは言いつつも、大阪の広告業界なので、そこはやはりほとんどが関西ローカルの仕事ばかり。
さらに、最初はプロダクションマネージャーからやれと。プロダクションマネージャーって何やねん。と。監督とか助監督とか、ADとかカメアシとかならまだ分かるが、プロダクションマネージャーって…て当時は思いました笑
当時の大阪のCM制作会社は、企画演出部を設けているところがゼロだったので、プランナーとか監督になるにはプロダクションマネージャーを一度経験するしかなかったんです。(プランナーなら代理店行けよて話ですが、代理店も全滅だったので。)
プロダクションマネージャーとは
まあ、ご多分に漏れず、ドのつく体育会系な業界でした笑
これは、映画だろうがTVだろうがどこも同じだと思ってたんで諦めてました。
どれだけブラックかはここで書いても仕方がないし、当時はそれが普通だったってだけ書いておきます。手も足もパン棒も出るし笑、陰湿な先輩に机蹴られるし笑、わらび餅(移動販売の)を買いに走らされるし笑、、
まあ、色々ありましたね。
いや、違うんです笑
プロダクションマネージャーの話です。
プロダクションマネージャーとは
以下CMPROさんのホームページからの引用です。
ざっくりこんな感じです。
マネージャーさんですね。そのプロジェクトを進行する上でのサポート、スタッフへのサポート、現場が円滑に進ように進行する人。です。
ぶっちゃけこれを入社したばかりの若手にさせるんです。もちろん最初はできないんで、入社3年目のプロダクションマネージャーのアシスタントをするわけですが、、
「いやいやちゃうねん。俺映像撮りたいねん。こんなクライアントとかタレントのつまむお菓子並べるためにこの会社入ったんとちゃうねん。」
て、思いました。多分ほとんどの人が一度は思ってると思います笑
実際、プロダクションマネージャーは技術的なこととか、演出的なことは全く実務としてはありません。とにかく、気を利かす。人の思ってることを汲もうとする。先読みで常に動く。とにかく人と話す。が求められる仕事です。
前回も書きましたが、僕はめちゃくちゃ人見知りでしたが、この大阪でのプロマネ三年間でそれは矯正されました。
さらにプロダクションマネージャーが特殊なのは、アシスタントディレクター(助監督含む)とアシスタントプロデューサーのハイブリッドなところです。監督が助手をつけていれば、助監督的なことはやりませんが、大阪の広告業界なので助手つきの監督なんてほぼいません。なので監督の助手もプロマネがやります。
もちろん一人で全てをやるのは無理なので、2〜3人くらいのプロダクションマネージャーが一つのプロジェクトを進行するわけですが、
例えば撮影現場だと、スタンドインしながら(大阪ではスタンドインの為にわざわざ役者呼びません!もちろんMVでも!笑 東京の現場でスタンドインで役者呼ぶのを知ってカルチャーショックでした笑)、タレントさんが入ってきたら立ち位置と内容の説明して、発注した弁当を弁当屋から受け取って、スクリプトとって、商品メイクもして、次のカットを撮る準備して、、飯の時間のアナウンスをでかい声出してして、たまにコンビニ走って、、、みたいな感じ何ですが、もう雑用ですね。
一年目は本当に訳もわからずだったので死んでました。
ただ、まあそのうち俺も監督になって…。みたいに思ってたので、モチベーションはありました。
師匠と呼べる人と出会う。
2年目に差し掛かると、社内外の人脈が異常に増えます。これは社会人みんなそうだと思うんですが、最初は名刺だけ渡すので精一杯なんですが、慣れてくると仕事以外の話をするようになって、いろんな人と仲良くなっていきます。
僕は、映画と音楽の話が合う人が周りにいっぱいいたのが大きかったです。
特に、最初の引用で書いた大阪CM界の巨匠カメラマンに気に入られ、めちゃくちゃ面倒見てもらいました。(まあ一番最初の現場で蹴られてるんすけどね笑)
映画を撮りたい。フィルムで撮影したい(当時のCM、映画はほぼフィルム)。て言ったら、会社に転がってたボロボロの16ミリのカメラ(ARRI ST)と余ったフィルムでカメラ(マガジン)にフィルムを装填する方法を教えてくれたり、
香盤表(撮影の順番をカット毎に決めて、時間に当てはめていくスケジュール表的なもの)の作り方のコツを教わったり(そもそも先輩のプロマネが教えてくれなかった…笑)。漫画の1ページを開いて、まずは引き絵から順番に…みたいなことを聞いて、ちゃんと引きから撮る理由も聞いたりとか…。
あと、優しい照明助手の人がたまにいたりとかで、そんな人たちに可愛がられ…でした。(基本的に照明部と美術部は恐い。撮影部はねちっこいが通説。もちろん今はそう思ってません!笑)
で、僕の一人目の師匠とも呼べるプロデューサーと出会います。
当時で30前半の女性のプロデューサーで、会社では一番大きな仕事をしてるプロデューサー。関西ローカルじゃなく全国で流れるCMをバンバン撮ってて、入社一年目は、いいなーって指咥えて見てた人でした。
2年目の時に、「東京で撮影するCMがあるんやけど、現場人足らんから、すえ、来てくれへん?」と言われ、即行くことに。
ぶっちゃけその現場で、ちゃんとCMの仕事してるな!って思うくらい本格的にでかい現場で、、それこそスタンドインで役者さんお願いしたりとか笑 ちゃんとキャスティングさんもいて、タレントさんも「マジすか!?」くらいな方で…。
そこから、だいぶ東京を意識するようになりました。
結局、大阪でプロマネやっててもしゃあないなと。
高校、大学で世界が広がって、社会人になってもっと広がるはずが、
大阪にいても意味ないやん。て思い始めました。
同じ環境は3年区切り。
3年目。師匠のプロデューサーの元で、ナショナルクライアントの数千万規模の仕事を一人で全部仕切れるようになってました。
基本的に撮影は全部東京なので、大阪東京を行ったり来たりな生活。で、一緒に現場にいるスタッフもすげー人ばかりで…あの映画の照明技師さん!とか、あのMVのカメラマン!!とか…。
でもやっぱり東京のスタッフ(助手含め)はいやーな感じの人が多かったっすね。もちろん全員ではないですが…。売れっ子監督とかカメラマンが所属してた某会社のマネージャーとかめちゃくちゃ感じ悪かったですしね笑 大阪の小さいプロダクションの一プロマネやから仕方ない。と我慢してました。
で、あるCMの現場でカメラマンと照明技師が、宇多田ヒカルの「First love」のMVを撮ったチーム。という現場がありまして。その現場でさらにカルチャーショックを受け(まずカメラマンが超イケメンwで上手い、で照明が虹色に塗られてて…-キノフロに一本一本色違いのフィルターつけてるやつ- みたいな、なんかすげー!!!ていうw)、もう一本立ちしたし、一つの会社に三年以上いるつもりもなかったので、、
その現場終わりに、師匠のプロデューサーに、
「中野さん、すいません。俺、やっぱり東京でますわ。」
て言いました。
忘れもしない、夕方の渋谷は宮益坂の交差点…。
「まあ、いつかはそうなるやろなって思ってたわ。」
飛び込みで、SEPというMVをやたらと作ってる会社に履歴書を送りつけ、
あれよあれよと採用が決まり、
会社が六本木!ということもあり、東横沿線で探すも家賃の高さに愕然とし笑
ちょっと外れて大岡山というところに安いアパートを見つけて…
そして2000年の6月、
25歳で東京に出ました。
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