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【おすすめ本】本はゆっくり読むほどにいいのだ(レサマ=リマ/パラディーソ)
今週もこんにちは。関東は朝から久しぶりの大雨です。
今回紹介する本、じつは読んだと胸を張って言えないのです。もちろん読んだんですけど、中身を理解するのがすごく難しい。読めば読むほどわからなくなって、拒まれて、でも、そこにこそ魅力がある。そんな本です。
▼▼今回の本▼▼
キューバの代表的詩人ホセ・レサマ=リマ(1910-1976)が唯一残した長編小説、それが「パラディーソ」です。大佐の家に生まれた少年ホセ・セミーの生涯を描いた小説でもあり、その家族や級友の人生を描いた小説でもある。
600ページあって、分厚いです。わざわざ重さを測った人がいて、962gだったそうです。しかも一文一文がこんな感じ。
彼は知への渇望が沸きたっているふりをしてよその机のところに行き、その学徒の書見台にことさら近づかなければならないそぶりを強調してみせ、そして、その前列の勉強机の椅子の隙間に例の地獄のキヌバネドリのペン先を埋めていき、ブドウの色をした天使のエネルギーに浸されたその尖端の侵入によって尻に電撃を走らせた。
要は「友達のお尻にペンでカンチョーをした」だけなのに、この回りくどさ。その後も「床屋の標識の色彩で飾られたこの破城槌」とか「虹色の棒へのエネルゲイアの放出」とか「性悪なサルのようなこの聖ホルヘへの槍の攻撃」とか「マレー式短剣の攻撃」とか、言いたい放題です。いったい槌なのか槍なのか剣なのか。
でも、それって、言葉の面白さだとも思います。比喩が変われば、私たちの中でそれがどんな情景だったのか、槌→槍→剣とイメージが塗り替えられていく。カンチョーという行為はたった一度でも、その塗り替えの可能性は無限です。
友達との思い出話でもそういうときってありませんか。何度も何度も同じ昔の話を会うたびにしているうちに、イメージがずれて、ゆがんで、みんなの話が混ざっていつの間にか最大公約数的な記憶がみんなの間で共有されていく。
この本の比喩のオンパレードにはそんな面白さもあるように思います。もちろん素敵な文章もたくさん。例えば、病室の母を息子が見舞いに行くシーン。
母親たちだけが見るということを知っていて、視線の英知を持っていて、時間の中での一人の人物の浮き沈みや、運動の航跡の中での動体の遷移を追うために見るのではなく、誕生と死を見るために見ている。大きな苦しみと生まれることの歓喜との合体であるものを見るために。
主人公セミーが友人フロネーシスに詩をプレゼントしてもらったときの描写も。
フロネーシスの顔は、セミーの内なる水面に、彼の生涯消えることなく刻みつけられた。詩を差し出したときのその微笑み、ほとんど逃げるようにしたそのはにかみ、官能的であり、かつ人を騙すことのある青春のエゴイズムの中において、「他者」に接近しながら彼が明らかに示した充溢。
訳者の旦さんの訳も解説もものすごく良くて(本作を二十年かけて翻訳されたことにほんとうに敬意を評します)、僕がとても勇気づけられた解説の一文を最後に置いておきます。
文学というのは言ってみれば、遅く読めば読むほどいいという面がある。それだけ長く、深く、味わい続けることができるからだ。(本を読み返すと)もう一度同じ歓びを味わうことができるのだから、かえって豊かなことであり、得をしたことになるとすらいえる。これがレサマの言う「ゆっくりさ」の豊かさなのではないだろうか。
ゆっくり歩いていきたいと思います。その歩みそのものを味わいながら。
(おわり)
▼▼前回の本▼▼
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