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十一月に 5

十一月に 4


 展示室の中で鳴り響く玄関先のベルの音は、工房まで聞こえる。わざとそれくらい大きな音にしているのだが、この日来客の予定がないヴォイチェフはベルの音を聞いても、片眉を上げて横目で壁の柱時計を確かめただけで、作業する手は休めなかった。もう一度、ベルが鳴った。しかしヴォイチェフは仕事を続けた。時間は午後四時を回ったところで、普段からこの時間帯は一番仕事に集中できることもあり、接客の予定は入れないようにしている。予期せぬ訪問など、相手にする理由はない。しかし一分ほどの間を置いて、今度は展示室のデスクの上の電話が鳴りだした。
 ヴォイチェフは「一体何なんだ」と声に出してつぶやくと、重い腰を上げて工房を出て、ドアの鍵をかけることなく展示室に入った。デスクの上の固定電話は鳴り続けている。受話器を取ろうと手を伸ばしたところで人の気配を感じ、展示室の車道に面したガラス窓のほうへ顔を上げた。ガラス窓の外に五十がらみの小太りの男が一人、耳に携帯電話を押し当てて展示室内を覗き込むようにして立っていて、ヴォイチェフが男に気が付くと同時に、男は空いているほうの手を上げた。そして男が携帯電話を耳から離して電話のボタンの一つを押すと、デスクの上の電話も鳴りやんだ。男はコートの胸元から内側に滑り込ませるように電話をしまうと、店の出入口のほうを指差した。
 ヴォイチェフは「信じ難い非常識だな」とぼやきながら出入口に近づき、開錠してドアを開けた。既にドアの外側に移動していた男は
「シモン・ストラカ、刑事警察の者です」
と言いながら革のカードケース状の物をひらりと開いてヴォイチェフに金属製の分厚いバッジを見せた。確かにそのバッジには「KRIMINÁLNÍ POLICIE」とこれ見よがしに大文字で彫り込まれているが、これが本物かどうか、一般庶民に判断する基準はあるのだろうか。そんなことを考えながらヴォイチェフはじろりと刑事の顔を見据えた。
「うちの商売に、何か間違いでも見つかりましたか」
「今日はお宅のビジネスに文句を付けに来たんじゃありません。こちらに来店した客に関して、少々お聞きしたいことがある。入れてもらえますかね?」
 こんなに寒くなければ外で立ち話で終わらせたいところだ、と思いながらヴォイチェフはストラカを展示室の中へ促した。
 ストラカは展示室の中央まで進むと、二台のスタインウェイの側で立ち止まった。そして、そのうちの一台を暫く見つめた後
「見事なコンサートグランドですね」
と言った。この男はどうせ音楽やピアノのことなどまるで分からない門外漢だろうと高をくくっていたヴォイチェフは少なからず驚いたが
「ありがとうございます」
とだけ返した。ストラカはヴォイチェフのほうを振り返ると
「スラーンスキーさん、二日前のことになりますが、四十歳くらいの男性客がこちらにいらっしゃいませんでしたか。背が高めでブロンドの。出版社に勤めている方ですが」
と、少し探るような目つきで言った。
「ええ、午前中に、おっしゃる通りのお客さんがいらっしゃいました」
「何時に来て、何時に出ていかれましたか」
「約束は十時で、時間通りにいらっしゃいました。ここを出られた時間は正確には言えませんが、三十分程度、ここにいらっしゃたのではないでしょうか」
「彼は自分の車で、こちらまで?」
「そうおっしゃっていましたが、店の前には駐車されず……一体、こんなことを聞いて、何になるのです?刑事さん、私は今、仕事中なのです。これは、大変集中力を要する仕事で」
 ヴォイチェフが苛ついた口調でそう言うのを遮るように、ストラカは
「申し訳ない。しかし、あなたのお店を出てから、この客は行方が分からなくなってしまいましてね。あなたがたぶん、彼を見た最後の人だと思うのですよ」
と言ってヴォイチェフの目を見据えた。ヴォイチェフも不機嫌な顔のままストラカの目を見返したが、内心「面倒くさいことになったな」と思った。
 ストラカはヴォイチェフの目を見つめたまま、話を続けた。
「お時間は取りません。もう少し質問させてください。彼の失踪に関してはまだ事件かどうかも分からない。自分の意思でどこかへ出かけて、連絡を怠っていた、それだけのことかもしれません。今のところあまり重く考えないでください。ただ、もし何らかの形で彼が被害に遭っているとしたら、手遅れになるのは避けたい」
「いいでしょう、何をお聞きになりたいのです?」
「彼と、何の話をしましたか?覚えている限り、教えていただけますか?」
「グランドピアノの購入を考えていらっしゃいました。奥様へのプレゼントだと言って。それだけです」
「三十分もここにおられたのなら、他にも何か話されたのでは?」
「当店での購入の手順を説明させていただきました」
「どのような、手順ですか」
 ストラカの質問に、ヴォイチェフは口の端を歪めるような笑いを作って
「刑事さん、私のやっているような店がどのような取引手段を用いているのか、想像がつかないわけじゃないでしょう?ご同僚たちにも、いろいろ目を瞑ってもらっているところがありましてね」
と答えた。ストラカはヴォイチェフの返事を聞いて、心底気分が悪そうな顔をした。ヴォイチェフは更に
「今日は私の商売にケチを付けに来たわけではない、とおっしゃっていましたね?あなたがどこまでご自身の職業を正義だと思っているのかは知らないが、世界は白と黒だけで出来ているわけではないのです」
と続けた。
 ストラカは鼻から大きく息を吐き出すと
「話が脱線しましたね。では、最後の質問です。その客は、あなたの商品の中から購入するピアノを選びましたか?」
と尋ねた。ヴォイチェフは
「ええ、迷うことなく決断されました」
と答え、出入口のほうへ視線を移した。ストラカは
「お邪魔しました。再びご迷惑をおかけすることがないといいのですが」
と言って踵を返し、出入口のドアへ向かった。
 ヴォイチェフはストラカの後に続き、ストラカの脇をすり抜けると前に出てドアを開け、ストラカを通した。そしてストラカが店の前に駐車していた車に乗り込み発進するまで出入口に立ってストラカの様子を見守っていた。
 ストラカの車が見えなくなると同時にヴォイチェフは店の中に戻ろうとしたが、ドアが何者かの手で押さえられ、ドアを閉めるのを遮った。そんなに近くに誰かがいることに全く気が付いていなかったヴォイチェフは呆然と外側からドアを押さえている手を見つめた。それからゆっくりと、その手の主がドアの後ろから顔を出した。
「すみません、少しお話を聞かせていただけますか」
と少年はドアを押さえていないほうの手で鼻の上の眼鏡を押し上げながら遠慮がちに言った。背の高さはちょうど二日前に来た行方不明だという客と同じくらい、髪の色もあの客と同じで、髪型もやはり同じように刈り上げた短髪だ。顔はあまり似ていなかったが、ヴォイチェフはすぐに「あの男の倅だ」と思った。そして、今日はもう仕事はできんな、と心の中でため息をつき、
「さっさと閉めなさい。湿度が下がりすぎるとピアノがダメージを受ける」
と言うと、先に立って展示室に入った。
 ヴォイチェフは展示室のデスクの側まで近づいて、少年のほうを振り返った。少年は二台のスタインウェイと少し距離を取って立ち止まり、室内を素早く見回すと
「お一人ですか?」
と尋ねた。少年の質問を聞いて、ヴォイチェフは「そん所そこらの大人よりずっと警戒心が強いではないか」と吹き出しそうになった。ベテランらしき刑事さえも聞かなかった。
 ヴォイチェフは
「一人息子と共同経営なんだが、息子は調律で外を回っていることが多い」
と、つい一昨日少年の父親にした説明とほぼ同じ言葉を返した。
「修理販売だけでなく、調律もされているのですか?」
「うちで扱うものはかなり古い製造年のものも多くて、うちで修理されたピアノには歯が立たない調律師も結構いる。倅はそういったものもこなすから、いろいろなところで重宝がられている」
 そんな世間話をしている場合ではないだろう君は、と思いながらヴォイチェフは少年の顔を見つめた。少年もヴォイチェフの目を見返した。そして、ヴォイチェフは思わず舌打ちをしそうになった。
「どうやって、ここが分かった?君のお父さんはまだピアノを購入する話は家ではしていないようなことを言っていたが」
「あの刑事さんが、ここに来る前に僕たちの家に来たんです」
「まさか、付けてきたのか?君はまだ運転ができる年齢ではないだろう。タクシーか?」
「いえ、車に乗れなくても、タクシーを頼まなくても、手段はあります」
 ヴォイチェフは「ピアノがつまらないと言う天才少年に何の才能があるのかと思えば、なんと尾行に長けているとはね」と笑ってやろうかと思ったが、少年の「両親が失踪する」という尋常ではない現状を考えると、冗談は控えておいたほうが良さそうな気がした。
 ヴォイチェフは少年の瞳に見つめられ続けるのにだんだん落ち着かなくなってきている自分を感じながら、再び口を開いた。
「悪いが、君に話してあげられることは何もない。二日前、お父さんは確かにピアノを購入したいとこの店に相談に来たが、他の客と別段変わったことはなかった。気に入ったピアノが見つかったら購入までの流れを説明する、それだけだ。君のお父さんの場合はお母さんが本当にそのピアノでいいか決めなくてはいけないから、もう一度一緒に来るという約束をして、あの時は話が終わった」
「何か、母に関するピアノの話はしていましたか?」
「今はたまに触る程度だ、と言っていた」
「そうなんです、だから僕も驚いたんです、刑事さんから父がピアノを購入する計画をしていたらしいと聞いて」
 少年はそう言って一瞬黙り、また話を続けた。
「父は、母がピアノをほとんど弾かなくなった時の話も、していましたか?」
「子供が、きっと君のことだと思うが、五歳の時に誰に習うことなく両手の人差し指だけで見事な演奏を披露したものだから、弾く気をなくしたようだと」
「またその話をしたんですね。いい加減、恥ずかしくなってしまいます。もう十二年も前のことなのに」
 少年はうっすらと笑ってヴォイチェフから視線を動かした。ヴォイチェフはやっと少年の瞳から解放され、小さな吐息を漏らした。少年はそのまま視線を自分の周囲に巡らせ、少し考えるような顔をして
「ここに、もう一台グランドピアノが入りそうですね」
と言った。それから床に敷き詰めてある薄いフェルトの、長年様々な大きさのピアノを様々な角度で置かれて傷んだ赤い絨毯を見つめ、そして三ヶ所の直径十センチメートルほどの円形のほんのりくぼんだ跡に順番に目をやって
「最近まで、もう一台グランドピアノを置いていたのではないですか?」
と尋ねた。
 ヴォイチェフは少年の様子を観察しながら
「ああ。つい最近、売れたんだ」
と答え、更に
「さあ、もう外は暗い。早く帰らないと、家の人が心配するだろう」
と言った。
 少年は「家の人」という言葉に反応するかのように少し眉を寄せたが
「お邪魔しました。失礼します」
と言って出入り口のドアのほうへ向かった。その背中があまりにも寂しそうに見えて、ヴォイチェフは思わず
「心配することはない。君の両親はきっと無事だ」
と声をかけた。
 ヴォイチェフの言葉を聞いて、少年はもう一度立ち止まった。そして顔だけヴォイチェフのほうへ向けると
「貴方は、母もいなくなったことをご存じなのですか?こちらに伺ったのは父だけですから、刑事さんは父の話だけをしたのだと思っていました」
と言った。
 ヴォイチェフは静かな、感情を抑えた平坦な声で
「警察の人間でも、おしゃべりが過ぎるのがいるようだな」
と返した。
 少年はまだ何か言いたげだったが、再び出入口のほうへ顔を向けると、その場を後にした。
 少年が店を出た後も、ヴォイチェフは暫くそのままデスクの前に立ち尽くしていた。それから、ゆっくりと出入口に近づくと、ドアに鍵をかけた。


十一月に 6 へ続く


『Senti, per favore!』 21 x 29,7 cm ペン、墨汁


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