十一月に 4
「私服の警察の人なんて、本当にいるんですねえ。私、ドラマの作り話だと思ってたんですよお、そうやって私服の刑事さんが『警察の者だが』って言ってバッジ見せるの」
興奮気味にまくしたてる若い女に内心うんざりしながらも、シモン・ストラカは無表情のまま、女が話し終わるのを待った。女は肩まで伸ばした赤い髪を揺らしながら、更に
「でも、お一人なんですね。ほら、ドラマとか映画とかって、よくペア組んでるじゃないですか、刑事さんって」
と続けた。
昨日の午前中に届け出があった行方不明の夫婦に関しては、まだ事件として取り扱うかどうかも決まっておらず、夫のほうの職場での聞き込みなど一人で事足りる。相方には他を回ってもらうことにした。しかし、聴取する対象にそんな説明をする義務はない。行方不明の男の勤める出版社は巨大なオフィスビルに入っており、レセプションで男の作っている雑誌の管轄の事務所の場所を尋ねたところ、愛想の欠片もない守衛にフロアといくつかある事務室の中でも中枢となる編集室の番号を教えられただけで、一人でここまで来なければならなかった。受付の人間がシモンを案内してくれれば、こんな「私服の警察の人」を目にしただけで騒ぐ若い女に警察章など見せる必要などなかったのだ。
シモンは行方不明の男の部下だという女に
「編集長も、普段この編集室で仕事をされているのですか?」
と聞きながら十五人ほどの従業員がそれぞれのデスクでそれぞれの仕事に従事している室内を見渡した。編集長について話が聞きたい、と言ってシモンが顔を出した瞬間に飛びあがるように立ち上がってシモンが立つ入口に向かって走ってきた女は、シモンが「ドラマや映画で見るようにペアを組んでいない」ことに対して何の情報も提供しないことを気にかける様子もなく、
「違いますよお、もちろんボスはご自身の事務室を持ってらっしゃいます」
となぜか誇らしげに答えた。シモンが
「それでは、そちらに案内していただけますか」
と言うと、女は視線を宙に浮かせて少し不安そうな表情を見せた。
「やっぱり、お見せしなきゃいけないんですよねえ。あ、鍵はあるんですよ。ただ、ボスに無断で外部の人をお連れするって、抵抗あるなあ」
「事態をしっかり認識してください。貴女の上司が、行方不明なのです。貴女がたも、お困りなのではないですか。それとも彼は、不在であっても貴女の仕事に支障が出ないほどのお飾りなのですか」
シモンの言葉に、女は目を見開いて「何を失礼な」とでも言うような目つきでシモンに視線を戻した。女はシモンを見据えたまま、急に先ほどまでの舌足らずな話し方を引っ込め、顎を心持ち上へ向けるようにして
「ボスの采配なしに、この雑誌は成り立たないのです。彼のようなセンスの持ち主、彼のような着眼ができる人は、どこを探してもまず見つかりません」
と、言った。シモンは表情を一切動かさず
「ではその唯一無二の編集長を探すのに尽力しようという警察官に、ご協力願います」
と、有無を言わせぬ口調で返した。女は不満そうな表情のまま
「鍵を取ってきます」
と言って編集室の奥へ戻った。
行方不明の男が編集長を務める月刊誌は、興味のないシモンでも知っているくらい名の売れたビジネス専門誌だった。表紙はいつも何らかの分野で「金儲けに成功した人物」の写真で、一番の目玉はその表紙を飾る人物とのインタビュー記事だ。シモンはこういった「資本主義バンザイ」と声高に叫んでいるような売り物は敬遠していたが、半年前にチェコがEUに加盟したことで更にその「バンザイ」に拍車がかかるのだろうな、と考えを巡らせたところで、女が鍵を持って戻ってきた。そして歩を緩めることなく
「付いて来てください」
と言いながらシモンの前を通り過ぎると、先に立って編集室の外の廊下を左手に進んだ。
女は廊下を数メートル進み、更に左に曲がると、その角にある最初のドアの前で立ち止まり、
「こちらです」
と言いながらドアの鍵穴に鍵を差し込んだ。シモンは女が鍵を開けるのを見守りながら
「編集長が姿を消した一昨日は、普段通り出勤されていたのですか?」
と聞いた。
「ええ、でも朝少し顔を出しただけで、九時ごろ出られました」
「どちらへ向かわれたのかは、分かっていますか?」
シモンの問いに、女は振り返って
「ボスは仕事の関係で普段から席を外すことが多いのですけれど。一昨日はピアノを探しに行かれたんですよ、奥様のために」
と得意げな笑顔で言った。シモンが不審そうな顔で
「出勤中に?」
と更に尋ねると、女は
「ちょっと変わった人がやってるお店で、接客も時間指定なんですよ。私が紹介したんです、すごくいいものばかり揃えていそうですよって」
とやはり得意げな笑みを浮かべたまま答えた。
「しかし、戻る時間帯などは伝えていなかったのですか?さすがに一日中その店で過ごす予定ではなかったのでは?」
「あ、お昼には戻れると思うっておっしゃってましたね」
そう答えたところで、女の顔から笑いが消えた。
金儲けについてあることないこと書いていれば金回りが良くなるものなのかもしれない、と思いながらシモンは行方不明の届けが出された夫婦の持ち家である住居を眺め、それから門扉に設置してあるインターホンのボタンを押した。瞬時にインターホンから
「今行きます、少々お待ちください」
と言う少年の声が聞こえた。来訪の時間は伝えられていたはずだから、きっとすぐに外に出られるよう待ち構えていたのだろう。数秒の間を置いて玄関のドアが開いて、長身の高校生と思しき少年が姿を現し、足早にシモンの待つ門扉のほうへ近づいてきた。
「すみません、これ、自動では開かないんです。今のところ」
と言いながら少年は内側から門扉を開け、シモンを敷地の中へ促した。高校生が相手ではあの出版社の女以上におかしな騒ぎ方をするかもしれない、と思いながらもシモンは名乗り、警察章を提示したが、少年はシモンが私服であることにもバッジを見せたことにも相方を連れていないことにも言及しなかった。少年は、ただ
「お世話になります。寒いですね、中へどうぞ」
とだけ言って、先に立って玄関のほうへ向かった。シモンは玄関の外に置いてあるマットで丹念に靴を拭うと、少年に続いて家の中に入った。
少年はまず自分の羽織っていたコートをコート掛けに掛けると、シモンのほうへ手を差し伸べた。シモンのコートを受け取ろうという意思表示なのだろうとは思ったが、シモンは暖房の効いた屋内でも上着を脱ぐつもりはなく、今回の訪問では長居をするつもりもなかった。少年はシモンの意思を瞬時に感じ取ったかのように、即座に手を引っ込めた。
「エミル君だね?」
とシモンが話しかけると、少年はすぐに恐縮した様子で
「申し訳ありません、名乗るのを忘れていました」
と言った。
「謝ることじゃない。届け出があった時点で、こちらでは君の名前は把握しているのだし」
「身分証明書をお見せしましょうか?」
「いや、その必要はない。今日は一人なのかな?」
「妹には、今日は学校に行かせました。帰りは祖母が迎えに行きます」
「お婆さんの他に、頼れる親戚の大人はいるのかい?」
「父も母も一人っ子で、母方の祖父母は……母は僕が生まれた頃には両親と、つまり僕の祖父母とは絶縁状態だったようで、会わせてもらったことはありません。親戚、と呼べる人はほとんど知りません」
シモンはエミルの母が一人っ子ではないことを把握していたが、エミルは母からそう聞かされていたのだろう、そのくらい実家とは関係が良くなかったということか、と思った。
父親のほうの事務室では、収穫はほぼゼロだった。きれいに片付けられた室内に、シモンは「姿をくらます準備をしていたのか」と訝ったが、その思いを察したのか、編集室の女は先回りをするように「とてもきれい好きな方で、普段からこんな感じなんですよ」とシモンに言った。
せめて自宅では何か見つかればいいがな、と思いながらシモンは再び口を開いた。
「今日はお父さんとお母さんの部屋を少し見せてもらうだけなんだ。何か二人の行き先が分かる手掛かりがあるかもしれないからね。本格的に捜査をすることになったら、もっとたくさんの人間が入ることになるが、今日は参考程度に、私に見せてもらえるかな」
「分かりました。両親が帰らなかった日から、部屋には入りましたが何も持ち出したり大きく動かしたりはしていません、どうぞ」
そう言ってエミルが玄関から家の奥へ続く廊下を先に立って歩き出した瞬間、シモンの携帯電話がジャケットの内ポケットの中で鳴り始めた。シモンはコートの一番上のボダンを外し、ジャケットの内側に手を突っ込んで電話を出した。相方だった。エミルはシモンの電話が鳴りだすと同時に立ち止まったが既に廊下を進み始めていたので、シモンから三メートルほど離れた位置に立っている。シモンは通話内容が周りの人間に聞き取られないよう、常に携帯電話の音はかなり落としていた。シモンは通話ボタンを押すと、受話口を耳にめり込ませる勢いで押し当て
「どうした?」
と聞いた。相方の声は周囲の雑音が邪魔をして聞き取りにくかったが、何とか話は理解できた。それから「受け答えの仕方によっては、エミルに話の内容を感づかれるかもしれない」と思い、
「分かった。後でかけ直す」
とだけ返して、電話を切った。
シモンが電話をポケットに戻し、顔を上げると、青い顔をしたエミルと目が合った。
エミルは数秒間シモンの顔を眺めた後、シモンの目を見つめたまま
「刑事さんは、どうしてそんなところに乗り捨てられていたんだと思いますか?」
と、感情の籠らない、乾いた声で言った。シモンは冷たいものが背筋を走ったのを感じたが、無表情で
「何の話をしているんだい?」
と返した。
「今連絡のあった、父の車です。D1って、プラハの南から出ている高速道路ですよね?」
「エミル君、ちょっと落ち着きなさい。……今の話が、君に聞こえていたわけがない」
「落ち着いたほうがいいのは刑事さんです。その程度の音量なら、僕は何の苦もなく聞き取れます。そういう人間も、存在するんです」
シモンは呆然とエミルを見つめた。そして、「奇妙な家族だな」という言葉が頭の中に浮かんで消えた。職業柄不謹慎な言葉だとは思ったが、思考を制御するのは容易ではない。
エミルはシモンの表情を観察するかのような視線を向けたまま、話を続けた。
「事故を起こしたような様子もなくほぼ無傷で路肩に乗り上げていたという話ですが、両親と連絡が取れなくなってからもう二日になります。持ち主が分からない車が高速道路の側に乗り捨ててあって、発見から所有者の特定まで、そんなに時間がかかるものなのですか?」
「まだ、君に私たちの調査の詳細を伝えるのには早い。確実に情報の裏が取れた時点で、君にもお婆さんにも報告させてもらう」
十七歳の子供を相手に何をこんなに動揺しているんだ、と自身に呆れながらも、シモンは自分がエミルから目を逸らさないために、信じ難いほどの精神力を必要としていることを認めざるを得なかった。エミルの丸眼鏡の向こうの青い目が、まるでシモンの心の中の全てを読み取ろうとするかのようにシモンの顔を見つめている。そこでシモンは、エミルが眼鏡を全く必要としていないことに気が付いた。あの眼鏡は、ただのガラス細工だ。
シモンは鼻で一つ深呼吸をしてから
「君は、お父さんがピアノを購入しようとしていたことを知っているかね?」
と尋ねた。エミルは不審そうな顔をして
「ピアノ?聞いていません。古い電子ピアノなら母の部屋にありますが」
と答えた。
「電子ではなく、本物の、弦のあるピアノを、お母さんのために買おうとしていたらしいんだが」
「あの電子ピアノでさえろくに弾かないのに、一体何を考えているんだろう」
エミルは呆れたようにそう言うと、シモンから目を逸らした。シモンはエミルの視線から逃れることができたことに安堵のため息をつきそうになるのをかろうじて抑えると、
「では、ご両親の部屋を見せてもらえるかい?」
と聞いた。エミルは小さく頷くと、無言で廊下の奥に向かって歩き出した。
十一月に 5 へ続く
日本帰省に使わせていただきます🦖