見出し画像

十一月に 6

十一月に 5


 十一月も終わりに近づき、朝の冷え込みが更に厳しくなった。この冬は暖冬になると何度か耳にしたが、店の前の車道に陽だまりができるようになる九時くらいまでは正直あまり外には出たくないな、と思いながらヴィート・スラーンスキーはピアノ展示室のデスクから車道に面した大きなガラス窓を通して外を眺めた。展示室には季節に関係なく一年を通して直射日光が入らないよう考えて建物自体が造られている。
 父のヴォイチェフが病に倒れた五年前からヴィートは一人でこの中古ピアノの修理販売店を経営している。しかし父と二人で営んでいたころと違って、修理工は二人、調律師は三人ほど雇って事業を拡大した。店も以前のように予約した客だけを相手にするのではなく、平日午前九時から午後四時まで開店して、自由に誰でも来店できるようにした。それが店舗の本来あるべき姿だと思う。病院から解放された父は何度か店に顔を出し、ヴィートの”改革”に小言を言っていたが、その後すぐにそんな元気さえも失ってしまったようだった。
 今展示室に置いているのはグランドピアノが三台、アップライトが一台。コンサートグランドほど大きいものはあえて展示しておらず、三台のグランドピアノのうちの一台はベビーグランドだ。あまり仰々しいものを置いても来店する客が物怖じしてしまうだけなのではないか、と思っての選択だった。
 展示室のガラス窓のほとんど読めなくなっていた『中古ピアノ・スラーンスキー』の文字も、その下の電話番号もプロのカリグラファーに頼んで書き直してもらった。更にその下にメールアドレスも加えてある。このような経営体制になってから、ヴィートは調律に外を飛び回ることはなくなり、ほとんどの時間を店で過ごすようになった。ヴィートでなければ務まらない調律の依頼が来た時だけ知り合いの娘に店番を頼んでいる。
 展示室内の柱時計が九時を指したところで、展示室の前の駐車スペースに車が止まった。そして運転席から一人の男が降り、まっすぐ出入口のほうへ向かってきた。何の迷いもなく入口を見つけるところを見ると、初めての客ではないようだとは思ったが、ヴィートはその男が誰だったのか思い出せなかった。
 ヴィートは「とにかく来客だ」と思い、腰を上げるとデスクの前に立って男が入ってくるのを待った。男が店の中に入り、後ろ手にドアを閉めると、ヴィートは愛想よく
「いらっしゃいませ」
と話しかけた。客は若い男で、丸眼鏡をかけて癖のあるブロンドを短く刈り上げている。
 男も笑顔でヴィートに
「おはようございます」
と返し、続けて
「あの、スラーンスキーさんは、いらっしゃいますか?」
と尋ねた。
 ヴィートが
「私が、スラーンスキーですが」
と答えると、男はすぐに何かに気が付いたかのような顔になって
「もしかして、代替わりをされましたか」
とつぶやくように言った。
「父を、ご存じですか」
「はい、十年ほど前、こちらをお訪ねしたことがあって」
 ヴィートは「この客は十年前にはまだ子供だっただろうに、親とピアノを探しにでも来ていたのだろうか」と思いながら男の表情を観察した。男は続けて
「お父様は、今もお元気でいらっしゃいますか」
と聞いた。ヴィートはあまり深刻に聞こえないよう笑顔のまま
「父は五年ほど前に大病を患いましてね、ああいう頑固おやじは長生きするものだと思っていたのですが、昨年の秋、亡くなりました」
と返した。
 ヴィートの返事を聞いて、男は足元に目を落とし、
「お悔やみ申し上げます」
とだけ言った。それから、暖房の効いた室内では暑くなったのか、コートを脱いで左腕に掛け、数秒の間を置いて顔を上げると、言葉を続けた。
「実は、今日お話をしたかったのは、スラーンスキーさん、ご子息である貴方なのです」
「と言われますと?」
「あの頃、お父様から息子さんはとても腕のいい調律師だと聞かされて。最近新しく借りた部屋に、すごく古いアップライトピアノがあるんですが、同棲している彼女が弾いてみたいと言うんです」
「借りている部屋のピアノ、ですか」
「大家さんも勝手に使ってもらっていいと言ってくれているんですが、長年誰も触らなかったようで、音程もかなり狂っている。彼女は子供の頃よく弾いていたと言っていて、僕も何か彼女が集中できるものがあるといいなと思っているんです」
 男がそう言った瞬間、ヴィートの耳元で父が「親子揃って発想が同じだな。呆れる」と言う声が聞こえた気がして、ヴィートは小さく身震いした。
 ヴィートはデスクの後ろに回るとデスクの脇に設置してある書類用のトレイの一段から調律の注文フォームを一枚取り出し、
「こちらをご記入ください。そのピアノの製造元と機種は分かりますか?それによって、私が伺うべきか、他の調律師を向かわせるかを判断します」
と言いながら男のほうへ向けてデスクの上に注文フォームを置いた。男は側に置いてある来客用の椅子にコートを掛け、フォームと共に差し出されたボールペンを握ったが、目はヴィートのほうへ向けたまま
「いえ、機種が何であろうと、貴方にお願いします」
と言った。男の柔らかな物腰にはそぐわない断固とした言い方で、ヴィートは少し驚き、改めて男の様子を観察した。男は立ったままフォームを記入しようとしているのでデスクの上に心持ち前屈みになっている。そこでヴィートは、男がジャケットで隠すようにベルトの右側に何かを装着しているのに気が付いた。ヴィートはすぐさま「銃だ」と思った。男もヴィートからそれが見えないとは思っていないのだろう、威嚇しているつもりだろうか、と訝りながら男の顔を見たが、男の柔和な表情からは、そんな雰囲気は微塵も感じられなかった。
 男は注文フォームの名前の部分には何も記入せず、住所の欄に短く何かを書き込むとフォームをヴィートのほうへ向けた。
「こちらが、僕たちの借りている部屋の最寄りのバス停になります。この近辺までいらっしゃったらお電話ください。日時は後ほどお電話でご相談したいと思いますが、かけ直していただくことができない形でお電話を差し上げることになるかと思いますので、スラーンスキーさんからご連絡いただく場合はこの番号にお願いします」
 そう言うと男はフォームの電話番号欄にヴィートの見ている方向から読めるよう上下逆さに九つの数字を記入した。
 男はボールペンを置くと上体をまっすぐに起こし、
「僕からの依頼は、くれぐれもご内密に願います。もちろん、それなりにお支払いします。お受けいただけますか?」
と爽やかな笑顔で言った。
 ヴィートは即座に言葉が見つからず、暫く口を開けて男の顔を見つめていた。それからヴィートは、ゆっくりと笑みを浮かべると、
「にわかに信じ難い話だと思うのですが、やはり父が開いた店だからでしょうか、ここで仕事をしていると、時々亡き父の声が聞こえることがあるのです」
と話し始め、一呼吸分の間を置いてから
「今父が、お客様のご依頼を受けるようにと言った気がします。ですから、喜んでお受けします」
と言った。
 男は嬉しそうに更に大きな笑顔を見せ、ヴィートに右手を差し出した。ヴィートがその手を握ると
「では、よろしくお願いします」
と言ってからヴィートの手を離し、椅子に掛けてあったコートを手に取り、出入口のほうへ体を向けた。そして数歩進んで、また立ち止まり
「ここに、十年前の十一月に、急に売却されたグランドピアノはありませんでしたか?」
と、今はペトロフのグランドピアノが立っている位置を指し示して尋ねた。
 ヴィートは驚いて男の背中を見つめた。確かに十年前の十一月、父がいつになく満足いく出来だと自慢していたベヒシュタインが何の前触れもなく売れたことがある。十一月のある日、ヴィートが外回りから帰って来ると、既にそこにはベヒシュタインはなく、父は「売れたんだ」とだけ言った。予約が入っていたという話も聞いておらず、その後の調律の依頼もなかった。父はそれ以来、そのピアノについて一切話すことはなく、言いようのない不可思議な印象をヴィートに与えた。だから、今でもそのことはよく覚えている。
 ヴィートが
「ええ、ありました。そのピアノをご覧になりましたか?」
と聞くと、男は
「いいえ。タイミングが悪かったようです」
とだけ答えて、店から出て行った。

 中古ピアノ修理販売店を出て暫く車を走らせ、車通りがほとんどなく、両側に畑が限りなく広がっている車道に差し掛かると、エミルは車を路肩に寄せて駐車した。そして、大きなため息をついた。
 天を仰ぐように背も頭も座席に預け、横目で車道の向こうに広がる晩秋の畑を眺めた。きっとこの眺めは、この十年間変わっていないのだろう。父もこの車道を通ったのだろうか。もしかすると、車を止めて同じ風景を眺めたのかもしれない。
 両親が姿を消した十年前、結局大した捜査に発展することもなく、この「中年夫婦蒸発事件」は未解決のまま封印された。高速道路の側に乗り捨てられていた父の車の中には父と母と、それからエミルとジョフィエの指紋しか見つからなかった。両親の職場からも自宅の部屋からも、二人の行方に関して手掛かりになりそうなものは何も出てこなかった。
 警察は「無責任なカップルが出来心で子供を置いたまま姿をくらました」とでも判断したのか、捜査が打ち切られた時もエミルに対してはほとんど何の説明もされなかった。そして当時のエミルは、一人で事件の解決をする能力などはもちろん持ち合わせていなかった。
 父がいなくては成り立たないと思われた雑誌も、初めのうちこそ右往左往したようだったが、今日まで似たような内容で刊行され続け、売り上げも順調に伸びているらしい。母の職場でも母の不在はほとんど影響せず、それまで通り営業し続けているようだった。両親がいなくなった後の二人の職場の有り様は、あたかも「代わりのいない人間なんていない。どんなに唯一無二の人材に見えても、絶対に代わりになる人間は見つかるのだ」という現実を世間から突き付けられたような感覚にエミルを陥らせた。
 エミルとジョフィエには、当然両親の代わりなど現れなかった。両親がいなくなってから、祖母が二人が残った家に引っ越してきてくれた。それには感謝しているが、それでもいなくなった両親の代わりにはなりえない。
 世間が言う「代わり」というのは、消えてしまった存在と全く同等の「代わり」ではないのだろう。今まで存在していた誰かがいなくなったり、今まで機能していた何かがなくなったりすると、人々は「別の誰か」、「別の何か」で穴埋めすることで現状を維持しようとするのだ。そうして、物事は少しずつ、時に急激な変化を遂げる。
 自分はどうなのだろう。エミルがまだ大学生のうちに雇ってくれた職場では、エミルなしでは何も進まないと言ってもらえるほどに重宝してくれている。しかしそんな職場でも、もしエミルがいなくなったら、エミルの代わりに「別の誰か」を見つけて穴埋めを試みるのだろう。
 エミルは自身の思考の流れを見つめ、「何だかおかしなことを考えている。僕は急にみんなの前から消える予定なんて、これっぽっちもないのに」と呆れた。それから前を向いて、エンジンをかけた。
 普段よりも随分と遅い出勤になる。先に遅刻することは伝えてあったから叱られることはないだろうけど、「いつもは一番最初に出勤するエミルが何をしていたんだろう」と不思議がって探りを入れてくるかもしれないと思い、エミルは自然と笑顔になった。そして、仕事が終わってからエミルが帰るところは、もうジョフィエと祖母のいるあの家ではない。その事実は、エミルにとってもちろん寂しいことではあったが、その寂しさに思いを馳せることがほとんどなくなるほどに、新しい住処での生活はエミルを喜びで満たしてくれた。物事は常に変化するものなのだ。ずっと同じ状態で生きていくことはできない。
 車を走らせながら、エミルは先ほどスラーンスキーが言っていたことを思い出していた。彼は時々亡き父の声が聞こえる、と言っていた。エミルは両親が消息を絶って以来、二人の声を聞いたことがない。こんなに聴力が発達しているというのに、二人からは、何も聞こえない。
 やっぱり、生きているのだろうか。だから、聞こえないのだろうか。もし生きているのなら、元気でいてほしい。二人がいなくなってからつい最近まで抱えていた「自分とジョフィエは両親に捨てられたのだろうか。もしそうなら、両親には二度と会いたくない」という思いは、いつの間にかエミルの中から消えていた。
 もし、もう一度会える日が来るならば、父さんにはあの恥ずかしそうな笑顔で、母さんには色とりどりの花束みたいな笑顔で「久しぶりだね。迷惑かけてごめんね」って言ってもらいたい。そしてエミルは「勝手に出かけちゃったことは許してあげるから、どのくらいピアノが上達したのか聞かせてよ」と催促するのだろう。
 周りを行き交う車が増えて、畑ばかりの風景も終わりに近づいた頃、エミルの車のフロントガラスの前を、一羽の鴉が通過した。エミルの目はその鴉の姿を正確に捉え、今のはhavranでもkrkavecでもなかったな、エドガー・アラン・ポーの『大鴉』のチェコ語訳が誤訳だっていう話を聞いたのも、確か十年前の十一月だったな、とその時の図書館でのやり取りを思い出し、エミルは小さく声を立てて笑った。



十一月に〔了〕



『Coloeus monedula et C. Bechstein』 21 x 29,7 cm ペン、墨汁



【補足】
中編小説『十一月に』は2023年一月から連載している長編小説『その名はカフカ』の番外編です。
ご興味をお持ちの方はこちらからどうぞ↓


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。