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スケッチブック幻想

カフェの窓から見えるウィーンの空はどんより曇っている。しかし奇跡的、とでも言えるような出会いを果たした直後の私には、外が曇っていようが晴れていようが「世界で最高の天気」に見える。あまりにも衝撃が強くて、本来なら全身を舌にして味わうべき本場のウィンナ・コーヒーも、運ばれてきた時と同じ状態でテーブルの上にたたずんでいる。

「それ、いくらですか?」

男の声が聞こえ、ふと我に返る。顔をあげると、黒ずくめの若い男が立っていた。黒の丈の長いコートに黒の革靴。黒い山高帽を左手に携えている。『第三の男』を意識したかのようないでたちだが、あの映画のオーソン・ウェルズとは裏腹に、何とも特徴のない顔をしている。

「え、これですか?」

私は戸惑いながら、コーヒーカップの横に置かれた小さなスケッチブックを指さした。男は静かな、しかし強い口調で続けた。

「さっき、あの若い画家に何か描かせたでしょう?あなた、それを高値で売り飛ばすおつもりだ。」

私はポカンと口を開け、じっと男の顔を見つめた。男は音もなく向かいの席に腰を下ろし、黒の山高帽をテーブルの上に置いた。まるでコーヒーと山高帽に挟まれるような形になったスケッチブックを見つめながら、私はコーヒーと一緒にザッハ・トルテも注文しなかったことを後悔した。ここにケーキも置いてあったなら、帽子など置くスペースはこの小さな丸テーブルには残されていなかったはずだ。男は私の目を見ながら再び口を開いた。

「あなたは、この時代の人間じゃない。」

「なぜ、それを・・・」

そうなのだ。気がついたら、ここにいた。美術史の授業中で、先生がクリムトの説明を始めたところまでは覚えている。人物画なら私は断然クリムトよりもシーレが好みだな、とぼんやり考えていたら、急に周りの風景がぼやけた。そしていつの間にか、ウィーンのど真ん中の、いかにも『地球の歩き方』におススメスポットとして一番に紹介されていそうなこのカフェに座っていたのだ。

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「途方に暮れていたら、目の前にかけだしの画家、エゴン・シーレが現れた。そうですね?」

私は無言でうなずいた。

「彼としても、東洋人の令嬢をモデルにするのは初めてのことだったでしょうから、喜んでいたでしょう。」

男のその一言に、私は自分の顔が赤らむのを覚えた。「何か描かせた」と言っておきながら、しっかり「何を」描かせたのか、把握しているではないか。男はそんな私に構うことなく言葉を重ねた。

「その絵、確かに彼の手によるものだが、ここでは今すぐには売れませんよ。売れても大した値はつかない。」

そうかもしれない。彼はいつごろから売れはじめたんだろう?もっと授業に集中していればよかった。

男は続けた。

「その絵、私に譲っていただけませんか?」

思わず目を見開く。

「譲ってくださったら、あなたをもとの時代に帰して差し上げよう。」

男は静かに微笑み、スケッチブックに手を伸ばしたかと思うと、山高帽の下にするりと隠した。

そして、カフェの壁がぼやけはじめた。

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「おい、起きろよ。授業終わったぞ。そんなに俺の授業はつまらんか。」

頭をぽんとたたかれて目を開けると、かの黒ずくめの若い男が顔をのぞき込んでいる。

「あ、先生、絵…返して…」

私はろれつの回らない舌で訴えた。

「なんだ、俺の夢でも見てたのか」

先生はニヤリとした。今日は黒のタートルネックを着ている。

授業が終わってから何分も過ぎているらしく、教室に残っている学生は私だけになっていた。プロジェクターからはまだ授業のスライドの最後のページがホワイトボードに映し出されており、そこからシーレの写真が私をギンっとにらみつけていた。この顔に対面した後では、「特徴のない顔」と形容してしまったのも無理はない、とこっそり先生の顔を見なおした。

ーおしまいー

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【後記】

最近、noteで面白いショートショートを読ませていただく機会に恵まれ、触発されて自分でも書いてみました。最後の写真は2020年3月、最初のロックダウン寸前に長年お世話になっている方の個展の展示のお手伝いに行った時のもの。国境を超えたのはこれが最後ですね。別に国外旅行が禁止されているわけじゃないですが、パンデミックが落ち着かないうちはその気になれないです。

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