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その名はカフカ【ピリカ文庫】

その名はカフカ。中心を間違えないでね。


 リンツで最後の乗り換えをし、窓際の席に腰を下ろした途端、どっと疲れが押し寄せてきた。コンパートメントには私の他には誰も座っていない。窓の外の景色は夕日に彩られ鮮やかだったが、もうすぐ夕闇に飲み込まれてしまうのだろう。それでもかまわない。オーストリアを抜けてスロヴェニアに入るまではどうせ山しか見えないのだ。

 列車が走り始めてほどなくして
「お飲み物、軽食などはいかがですか?」
コンパートメントの扉がゴトゴト音を立てて開かれ、給湯ポットやペットボトル、サンドイッチ、菓子などあらゆる「お飲み物・軽食」を詰め込んだワゴンを押した若い販売員がきれいなドイツ語で話しかけてきた。
 あからさまに迷惑そうな顔をしてみせると、今度は英語で同じ文句を繰り返したが、私から何の反応も期待できないのを見てとると、販売員は再びゴトゴトと扉を閉め、隣のコンパートメントへ移って行った。
 とにかく疲れる旅だった。片道10時間以上もかけてとんぼ返りだ。仕事ではないのだから少し観光でもして来ればよかったのかもしれないが、この12年間に随分と姿を変えてしまった街の様子と押し寄せる思い出の波に圧倒され、私はそそくさとプラハを後にした。

 少しでも疲れが取れるかもしれない、と目を瞑った。しかし職業柄、このような公共の場で居眠りをするようなことは決してなかった。

 どのくらい経ったのだろう。目を開けると、誰もいないはずのコンパートメントに男が座っていた。向かいの座席列の通路側の席から静かに私を見つめている。先ほどの車内販売員の男だった。
 私が人の気配に気づかないなどということはあり得なかった。さっきは扉も随分と大きい音を立てていたが、目を閉じている間には何も聞こえなかった。
「コツがあるんですよ。毎日仕事で開け閉めしていると自然と習得できます。乗客に気づいてほしい時は音が出るように、気づかれたくない時は音を出さないように、開閉できるようになるんですよ」
男はうっすらと笑いながら流暢なスロヴェニア語で言った。気配を消すこともでき、何ヵ国語も完璧に習得している。同業のにおいがする。敵対組織からの探りだろうか。警戒しながら黙っていると、男は笑ったまま続けた。
「変に勘ぐってもらっては困ります。あの程度のドイツ語と英語だったら販売員の誰もがマスターしていますよ。僕は好奇心の強い方でしてね。こうやって国際線に毎日乗って乗客の会話を聞いているうちに仕事で回るすべての国の言語を習得したくなってしまったのですよ。お客さん、今日は仕事ではないようですね」
 男の言うとおり、今回のプラハ行きは私用だった。おかげで気を緩めすぎたのかもしれない。このような得体の知れない人物を側に引き寄せてしまうことになるとは不覚だった。上品な身のこなしだが、嫌味な雰囲気が鼻につく男だ。黙ったまま自分を責めている私を男は嬉しそうに見つめながら再び口を開いた。
「毎日いろんな種類の人を見ますからね、お客さんがだいたいどんな職種の人かも分かります。おっと、早合点しないでください。何も極秘情報を聞き出そうって言うんじゃないんです。どっちかって言うと、お客さんのプライベートのほうが気になる。プラハへ何をしに行ってきたんです?」
 だんだんと図々しく挑戦的になってくる男の話し方にこちらもいらついてきた。これも心理作戦の一つかもしれない、と思いながら
「車内販売というのも随分と暇な仕事のようだ。持ち場に戻ったらどうだ」
と言うと
「今休憩中なんです。ちょっと謎解きに挑戦してみてもいいですか?お客さんは本業のようだけれど」
と返ってきた。
 その男のあからさまな好奇心は素人臭く、確かに少し勘繰りすぎたかな、と思い直した。男は楽しそうに続けた。
「お客さん、昔プラハに住んでいたんでしょう?それで久しぶりに昔の恋人に会いに行ったんだ」
あたらずと言えども遠からず、といったところだ。12年前プラハで知り合った人物は私の恋人ではなかったし、立場上、お互い本名も知らないままだった。ところが先週、古い書類の間から彼女の手書きのメッセージが出てきたのだ。無性に会いたくなり、すぐに休暇を取ってそのメッセージを片手にプラハへ向かったが、どこを訪ねても彼女には会えなかった。
「謎解きに挑戦したいと言ったかな?では君はこのメッセージを解読できるかい?」
そう言いながら、男にメッセージの残された紙切れを見せてみた。
「その名はカフカ。中心を間違えないでね」
チェコ語で書かれたメッセージを難なく読み上げると男は
「FとVのことですね」
とつまらなそうに言った。
「どういう意味だ?」
「かの有名なユダヤ人作家フランツ・カフカは綴りがKafkaで真ん中が「f」でしょう?その「f」が「v」になるとKavkaだけれどチェコ語の場合、発音はKafkaもKavkaも同じ」
「Kavkaって、あのカラスのことか」
「そう、あの小さめで頭のてっぺんが黒色のやつ。ちなみにKavkaって、チェコ人にはよくある名字なんですよ」
つまり彼女はそれが本名だと言いたかったのか?
「ま、このメッセージの言いたいことは、そんな単純なことではないでしょうけど」
そう言ったかと思うと、考えこみ始めた私の指先から男は素早く紙切れを取り上げコンパートメントの扉を音もなく開き通路に飛び出した。
「な、何をする!」
そう叫んで男に飛びかかろうとしたが男は再び素早く扉を閉めながら
「あんたの上司から伝言だ。『感傷に浸るのもいいかげんにしろ、仕事に戻れ』だとさ!」
と言い残し通路の右手に走り去った。
 私は慌てて扉を開けようとしたが扉はゴトゴトとゆっくりした動きしかできないようだった。私が通路に出たときには男も紙切れも姿を消していた。

 列車は順調にオーストリアとスロヴェニアの国境を越えたようだった。


『To jméno Kavka』21 x 30 cm 水彩



なんとまあ、信じられないことにピリカさんにピリカ文庫の2023年一番乗りのお誘いを受けました。

お題は「挑戦」ということでいただいたお話でしたが、本文中に三回「挑戦」という言葉が出てくるだけで全体のテーマになってない、という。男の態度からして「挑戦」というより「挑発」のような。一年前に書いた冬ピリカグランプリの時の懐中電灯にも似てるし…。
いや、本当にこんなので良いのでしょうか。汗

私自身が最後にプラハからスロヴェニアの首都リュブリャーナに列車の旅をしたのは2011年、12年前のことになりますが、リンツで乗り換え、景色は山ばかり、といったくだりはけっこう事実に忠実です。ちなみに主人公は山ばかりの眺めがつまらないもののような言い方をしていますが、個人的には絶景だと思っています。

あとカラスのKavkaですが、これは先日紹介した日本語名ニシコクマルガラスのことです。実はこのカラスに出会って以来、「このカラスの絵を描きたい」と思っていただけでなく、このカラスの名前とフランツ・カフカを絡めたお話を書きたいとも思っていました。まさかピリカ文庫を回していただけるなどとは露ほども思っていなかったのですが、おかげさまでやっと重い腰をあげることができました。

ピリカさん、お読みくださった皆さま、どうもありがとうございました。



【2023年3月3日 追記】
この後、複数の方から「続きが読みたい」とコメントをいただいたことから、調子に乗ってこのお話をもとにした長編連載を始めました。
長編の第一話はこちら↓

長編のマガジンはこちら↓

【2024年1月追記】
長編『その名はカフカ』は紙の本でも読めます。


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。