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マキァヴェッリ『カストルッチョ・カストラカーニ伝』〜【マキァヴェッリを読む】Part9

歴史上の人物を題材にした、マキァヴェッリのマイナー作品を今回は取り上げます。
難しいことを考えずに読めて、物語としても面白い作品です。
惜しむらくは、全集にしか邦訳がないことです。

『カストルッチョ・カストラカーニ伝』

作品について

マキァヴェッリが『フィレンツェ史』を執筆する機縁となったのが、『カストルッチョ・カストラカーニ伝』です。
ルッカの豪族ミケーレ・グイニージが破産したため、フィレンツェの債権者達は彼への債権を取り立てようとしました。
その債権取り立ての依頼を受けたのがマキァヴェッリ。
彼は1520年にルッカに赴き、債権回収のために数ヶ月の間ルッカに滞在することになりました。
この滞在期間中に入手した資料をもとにして書かれたのが、『カストルッチョ・カストラカーニ伝』(伝記)と『ルッカ事情概要』(政治批評)です。

この『カストルッチョ・カストラカーニ伝』がフィレンツェで好評を博します。
そして、これを読んだ周囲の人々が「フィレンツェの歴史もこの調子で書いてもらえないか」と言い出すようになりました。
この期待に応えてマキァヴェッリが執筆したのが、『フィレンツェ史』です。

あらすじ

都市国家ルッカのとある貴族の屋敷の畑に赤子が捨てられていた。
その屋敷の持ち主であった聖職者は、赤子にカストルッチョと名づけて養育する。
成長するにつれ並々ならぬ資質の片鱗を見せ始めたカストルッチョ。
その姿がルッカの有力者でもあった傭兵隊長フランチェスコ・グイニージの目にとまり、彼の元に引き取られる。
次第に頭角を表したカストルッチョは、フランチェスコの死後その地位を引き継ぎ、若き遺児パゴロ・グイニージの後見まで託される。

ピサを支配する皇帝派ウグッチョーネに組みして名をあげるカストルッチョ。
その活躍に危惧を抱いたウグッチョーネは、カストルッチョを逮捕して殺害しようとする。
しかし、ルッカの市民が蜂起して、カストルッチョの危機を救う。
解放されたカストルッチョは、ウグッチョーネを蹴落として、ルッカとピサを支配下におくこととなる。

その後もカストルッチョは、教皇派のフィレンツェやナポリ王国を相手に、戦闘で活躍を続けていく。
しかし、フィレンツェ攻略まであと一歩と迫ったところで、彼は病に倒れる。
死に際して、かつて後見を託されたパゴロ・グイニージを呼び、彼に遺訓を授け、自分の地位を引き継がせて、カストルッチョは亡くなった。
奇しくもスキピオ・アフリカヌス、マケドニア王フィリッポス2世という古代の偉人たちと同じく44年間生きたのであった。
もし彼がマケドニアかローマに生まれていたら、この両者を超えていたであろう偉大な男であった。

感想

読後の印象

この伝記の評判を受けて『フィレンツェ史』が書かれたという経緯から、『フィレンツェ史』のプロトタイプ、少なくとも似たような作品かと思っていました。
しかし、実際に読んでみると、この予想は完全に裏切られます。

『フィレンツェ史』のように、理論的な批評コメントは挟まれていません。
そのため、より歴史物語に近くなっている。
戦闘の描写、戦場での奇策なども無味乾燥なものではなく、物語として十分に通用する面白さ。
どことなく、太平記など日本の軍記物語に近いものも感じました。
また生涯の記述の後につけ加えられた、彼の機知や性格を示す軽妙な発言応答集がとても面白い。

この評伝を読んだ当時の人々が、同じような作品を書いてもらおうと、『フィレンツェ史』の執筆を促したというエピソードにも納得。
(出来上がった『フィレンツェ史』がこの評伝と違う毛色になっていたのは、当時の人々も思うところがあったのではないかと勝手な推測すらしてしまいます)

なかなかどうして面白いじゃないか。
本書の脚注を読むまでは、そう思っていました……

史実との落差

脚注を読んで思い知ったこと。
本書の内容は大半が創作です…
評伝の終盤に置かれたウィットに富んだ発言集も、ディオゲネス・ラエルティウス『哲学者列伝』からのパクリです…

戦闘の描写くらいは創作でも仕方ないとは思います。
ただ、捨て子という話からしてフィクション、彼を引き取ったフランチェスコ・グイニージは架空の人物、偉人になぞらえた享年も捏造とまでなると…

当時の歴史記述が史実の正確性を軽視していたのはわかっています。
史実に忠実であるより、対象や事件の特徴や本質をよりうまく表現することに歴史の趣旨を見出していたからです。
特徴を誇張してでも対象人物の本質を表現しようとする風刺画のような絵の方が、写実的な似顔絵よりも評価されるのと同じ理屈ですね。

それでも、ここまで創作すると、もはや伝記というより歴史小説です…
面白いと感じていただけに、「ひどいなぁー」と思ってしまうのでした。

読書ノート(注目ポイントの引用)

カストルッチョの遺訓

カストルッチョを育てた「父上」ことフランチェスコが架空の人物なら、ここで引用する遺訓も丸ごとフィクションです。
引用中の「妻帯せず子供もいなかった」というのもマキァヴェッリの捏造です。

「わたしは自分自身に誓ったあの栄光にたどり着こうと、たくさんの映えある成果を自分なりに積み重ねてきたわけだが、もしもこのわたしがだ、息子よ、道なかばで運命がわたしの歩みを断ち切ってしまうなどと信じることができたならば、わたしの苦労はもっと少なくてすんだであろうし、おまえにはたとえわずかばかりの国にせよ、敵も妬みもずっと少ないものを残しただろう。
だから、ルッカとピサの支配権に満足して、ピストイア人に服従を強いはしなかったであろうし、また屈辱をたくさん味わわせてフィレンツェ人を刺激することもなかったであろう。
それどころか、これら両国のいずれの人びとともわたしは友好関係を結んで、長くはないにしても、わたしは自分の生涯を実のあるもっと落ちついたものにしようとしただろう。
それにわずかながらも、確かにもっとしっかりしてもっと安定した国をおまえに残したであろう。
しかし運命は、人間のことどもすべての裁定者であろうとして、わたしが前もって彼女を知ることができるほどの判断力も、わたしが彼女を超えることができるまでの時間も、わたしには与えなかった。
よいか、多くの者がおまえに言ったとおり、わたしも否定などしなかったとおり、わたしはまだ青二才の頃、雅量があれば当然求める大望をいっさい知らないまま、おまえの父上の家に入ったのだ。
わたしはまるで父上の血をひく息子以上に、それは父上に愛され育ててもらった。
そんなわけで、わたしは父上の薫陶の下、おまえ自身が目のあたりにし今もしている運命に乗じうるほどに雄々しくなったのだ。
父上は死期がせまると、おまえとすべての家財をわたしの信義に託されたので、わたしはおまえを同じように愛情を込めて育て、家財も同じように昔も今もかわらぬ信義で大きくしたのだ。
おまえの父上がおまえに残したものだけでなく、わたしの運命と力量が獲得したものまでもおまえのものとなるように、わたしは妻を娶ろうとは思わなかった。
わが子たちへの愛情によって、わたしにずっと注いでもらった恩をおまえの父上の血筋の者に対して返せなくなるようなことなど、決して起きないようにするためだ。
だから、わたしはおまえに大きな国を残す。
これについてはわたしは大変満足している。
けれども、弱くて不安定なままおまえに残すので、わたしとしては非常につらい。
おまえにルッカの都市は残るが、この都市もおまえの支配の下で満足しきって暮らすとは限らないだろう。
ピサも残るが、そこはもともと移り気であざむく連中の集まりだから、長年服従するのに慣れているにしても、ルッカ人の領主をいただくことを常に快く思っていないであろう。
ピストイアもおまえに残るけれども、分裂のため頼みにはならぬ。
最近起こった謀反がきっかけとなって、われら一族に敵対してくるだろう。
近隣にはフィレンツェ人がいる。
われわれによって危害をこうむり、さんざんに侮辱されたが消えていなくなったわけではない。
彼らにはトスカーナを手に入れることよりも、わたしの死を知らされることの方が喜ばしいことだろう。
ミラノの君侯たち、それに皇帝は信用してはならぬぞ。
彼らは遠隔の地にあり、怠け者で助けに来るのが遅いからだ。
だから、頼みとするのは、おまえの勤勉さとわたしの力量の思い出、それに今回の勝利が運んでくれる評判以外に何もないのだぞ。
この評判はおまえが思慮を働かせて利用することができるなら、フィレンツェ人との矛をおさめるのに助けとなることだろう。
彼らは今回の敗北でまいっているから、合意を取りつけようと願っているにちがいないはずだ。
わたしはあえて彼らを自分の敵としてきたが、彼らの敵愾心がわたしを権勢と栄光に導いたのだと思う。
おまえは何としてでも彼らと友好関係を築くよう努めねばならぬぞ。
彼らの好誼が、おまえに心地よい安全をもたらしてくれるであろうから。
この世の中で一番重要なことは自己を知ること、自分の身の程と魂の強さを判別できることなのだ。
自分が戦争にはむいていないと知る者は、平和的な術を駆使して治めねばならない。
わたしの忠告だが、おまえがよしとすべきなのもそれだ。
このやり方でわたしの残した危険の多い労役をおまえには味わいつくしてほしい。
このわたしの話が真実だと気に留めてくれるならば、事は容易にうまく行くであろう。
おまえはわたしに二つの恩義があるのだ。
一つは、わたしがおまえにこの領地を残したこと、もう一つは、わたしがおまえにその維持の仕方を授けたということだ。」

『マキァヴェッリ全集』第1巻p.286-287.

「自己を知ること」つまり身の程をわきまえるという遺訓に、マキァヴェッリっぽくない印象を抱いてしまうのは私だけでしょうか。

マキァヴェッリは『君主論』第25章で、運命に対抗することについて、以下のように述べています。

そこで私は次のように結論したい。
運命は時代状況を変化させるが、人間は自分たちのやり方に固執するので、両者が合致している間はうまくいくが、食い違いが生まれると直ちに不運に見舞われるのだ、と。
しかしながら、次のように判断する。
すなわち、慎重であるよりは勢いにまかせたほうがよい、と。
なぜなら、運命の神は女なので、運命を支配しようと思えば、たたいたり突き飛ばしたりして服従させる必要があるからである。
運命は、冷静にふるまう者たちよりも、勢いにまかせたふるまいをする者たちの思いのままになるのは周知のことである。
それゆえ、女と同じように、運命は若者の友なのである。
なぜなら、若者というのはあまり慎重ではなく、より荒々しく、より大胆に女を支配するものだからである。

『君主論』第25章(光文社古典新訳文庫)

カストルッチョの生き方は、『君主論』の推奨する雄々しく果敢な生き方に近いものです。
一方、身の程をわきまえるというのは、たしかに現実的で賢く正しい選択とは思います。
しかし、わざわざ演説を伝記中に組み込んでまで言うことかなとも思ってしまいます。

この遺訓を、「身の程を知れ」ではなく「時流が変わったから自分のやり方を変えよ」という意味で捉えれば、『君主論』との整合性も取れるかもしれません。
しかし、運命を屈服させる徳ヴィルトゥの雄々しい能動性と、運命に対して受動的に対応することが私の中ではうまく結び付きません。
運命と時流とを同じように捉えてしまっているここでの私の読み方に問題があるのかもしれません。
運命フォルトゥナと徳ヴィルトゥ、さらに必然/必要との関係が気になるところです。

レオ・シュトラウスのコメント

『カストルッチョ・カストラカーニ伝』について言及した研究は多くないように思われます。
その重要な例外が、レオ・シュトラウス。
彼は『哲学者マキァヴェッリについて』(邦訳254-257頁)で『カストルッチョ・カストラカーニ伝』について触れています。


発言応答集について

伝記の終盤に置かれたカストルッチョの34個の発言集のうち、31個はディオゲネス・ラエルティウス『哲学者列伝』からの流用です。
マキァヴェッリは「めったに哲学あるいは哲学者たちに言及することがないのであるから、この事実はそれだけいっそう注目すべきである」とシュトラウスは言います。
(この指摘のあと、『哲学者列伝』からの変更部分などにも言及)

また、発言集のうち、15個がキュレネ派アリスティッポス、11個がキュニコス派ディオゲネスのものから採られています。
これについてシュトラウスは、「アリスティッポスとディオゲネスは自然に対置されるものとしての慣習への極端な軽蔑を共有していた」とまとめています。

遺訓について

先に引用した遺訓についても、シュトラウスは鋭い指摘をしています。

カストルッチォは、かれの機知のあるもろもろの言辞〔引用者註:発言集〕とその他の場所において神にかんして語っているのであるが、 かれの瀕死の発話〔引用者註:遺訓〕において5度フォルトゥナに触れていながら、しかし神には1度も触れていない。
カストルッチォは、かれの機知のあるもろもろの言辞において魂にかんして、地獄にかんして、そして楽園にかんして語っているのであるが、かれの瀕死の発話において1度この世に触れていながら、1度も来世には触れないのである。
これに類似して、かれ自身の思想を表明するときに、マキァヴェッリは『カス
トルッチォ』において1度この世に触れていながら、来世には1度も触れていない;そしてかれは、8度フォルトゥナに触れていながら、1度も神には触れないのである。

レオ・シュトラウス『哲学者マキァヴェッリについて』勁草書房p.256

カストルッチョの享年について

上に挙げたレオ・シュトラウスの指摘も勉強になるのですが、個人的にもっとも気になった記述は別の部分です。
それは、カストルッチョの享年についてのレオ・シュトラウスのさりげない言及です。

かれはフィリッポスとスキピオのように、そしてわれわれはつけ加えるのであるが、ロレンツォ豪華王のように、44年間生きた。

レオ・シュトラウス『哲学者マキァヴェッリについて』勁草書房p.254

ロレンツォを追加しただけのこの文章のどこが気になるのか。

たしかに、豪華王ことロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)は数え年で享年44です。
マキァヴェッリも『フィレンツェ史』で44と明記しています。
しかし、マキァヴェッリが挙げたスキピオ、フィリッポス、カストルッチョ、この3名はいずれも44歳で亡くなってはいません。
つまり、マキァヴェッリがこの3名の享年をわざとロレンツォに合わせたのかもしれない。
その可能性を私はこの1文から読み取ってしまったのです。

もちろん、マキァヴェッリが挙げた3人の年齢の誤認は、マキァヴェッリが使用した資料に由来する単純な誤解である可能性はもちろん残ります。
でも一方、レオ・シュトラウスなら、そういう偶然や隠された繋がりを見逃さない気もします。

マキァヴェッリが享年について言及した時、実はロレンツォのことをなんらかの形で想定していた可能性を、レオ・シュトラウスは示唆しているのではないか…
あるいは、ここでロレンツォを比較対象として『カストルッチョ・カストラカーニ伝』を読めとレオ・シュトラウスは指示しているのではないか…

もし、この読み込みが妥当だとしても、その意味については謎が残ります。
ここでロレンツォの年齢に合わせたのは、ロレンツォが偉大であることを暗に示しているのか…(メディチ家への追従かもしれないけど)
それとも、ここであえて言及しない以上、ロレンツォは偉大ではありえないと暗に言っているのか…
そんなことを考えていると、「自分が戦争にはむいていないと知る者は、平和的な術を駆使して治めねばならない」という遺訓の文章も、ロレンツォを暗示しているような気までしてきます。

こんな風に想像をたくましくするのは、深読みというより私の妄想、さすがに無理がある読み込みなのかしら…
残念ながら、他の記述に関連づけないかぎりは、少なくとも生産性のない話のようです。

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