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劇場版ぼざろ 「Re:Re:」とラストシーンについて考える

「劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!Re:Re:」を見てきた。前編はスルーし、後編もとくに見る予定はなかったのだが、EDとして発表された「Re:Re:」のカバーがよすぎた。それを聴くためだけに劇場に足を運んだ。

TV版の総集編なので、ツギハギ的な映画なのかなとあまり期待はしていなかったのだけども、割ときれいに1本の映画としてまとめられていたと思う。新規カットが少ないながらも、映画としてまとまりを出せていた。いい追加カットだった。


文化祭編は、喜多ちゃんとぼっちちゃんの物語としての側面が強い。喜多ちゃんにとってのギターヒーローであるぼっちちゃんを、学校のみんなに見てもらいたい。その凄さを知ってもらいたい。そのために、ひたむきに努力をする彼女の様子を新規カットで描くことで、文化祭後の保健室のシーンがより際立ったと思う。

コスパの良い追加カットというか、物語に深みを出すには、このシーンがあればいい、というのをよく分かっている、さすがのカット追加だったとは思う。斎藤圭一郎監督の腕を再び実感した映画だった。


最後の追加カットと「Re:Re:」の意味

で、自分が劇場まで足を運ぶキッカケになった、ED曲およびその挿入シーンについても語りたい。楽曲としての魅力はこちらの記事でテンション高く語ったので、本記事ではスキップ。

TVアニメ版では、物語のエンディングとして同じくアジカンのカバー「転がる岩、君に朝が降る」が流される。これは、ぼっちちゃんが持つ才能ゆえの孤独、そして社会性の獲得と共に失われていくその才能について表現したものだと自分は考えた。

ひたすらに押入れにこもり、練習していたギター・ヒーローとしての時間は失われていく。誰かのためではなく、自分の承認欲求を満たそうと音楽をしていた、傲慢だけども純粋な彼女の動機も変わっていく。

それを肯定的な変化と捉えるのか。それとも、なにかをなくしたと捉えるのか。自分は、最後の表情やこの歌詞から、肯定的なものだけではないなと思った。少し寂しさを感じるようなエンドだったと思っている。

TVアニメ版の感想記事より


その変化に戸惑いながらも、時に流されて転がり続けるしかないと、(意志を持っているかどうかはともかく)進んでいくことを歌ったTVアニメ版。一方で、劇場版で流される同じくアジカンの「Re:Re:」は割と歌詞だけ見ると後ろ向きな歌だ。

どうか なくさないでよって
高架下 過ぎる日々を
後悔してんだよって そう言い逃したあの日

ASIAN KUNG-FU GENERATION 「Re:Re:」より

この楽曲が最後に挿入されることはどういった意味を持つのだろうか。TV版と全く同じ意図を持っているとは考えにくい。

「TVアニメ版も、アジカンの楽曲をサブタイトルにしてたんだから、劇場版もそうしちゃいましょう笑。2作やるから、「Re:」と「Re:Re:」にして、EDもそれにしますか笑」
みたいな、軽薄な理由で作られた可能性も0ではないだろうが、あの監督とスタッフの作品として、そんな理由だけで決められたとは考えにくい。


何より、このEDの挿入の直前に、新規カットが追加されている。「Re:Re:」が使われたアニメ『僕だけがいない街』をオマージュするような、過去に巻き戻る演出。その後に描かれるのは、ぼっちちゃんの幼少期。

保育園か幼稚園で周りの子が友達を作って遊ぶ中、一人ボールを持って佇むぼっちちゃんが描かれる。見かねた先生の手に引かれてどこかに連れて行かれるぼっちちゃん。彼女が離したボールは、キレイに並べられたボールとは離れた場所にポツンと放置される。

まるで、ひとりぼっちな後藤ひとりを表現するかのように。


この新規カットが、この曲を意味を示すヒントになっていると考えたい。しかし、この新規カットは、一見するとこの映画のストーリーラインと矛盾しているように感じる。冒頭の感想に述べたように、この映画はぼっちちゃんと喜多ちゃんの物語である。その他の追加シーンも考えると、それは明白だ。

孤独だけども、才能とカリスマがあるぼっちちゃんに寄り添おうと、努力をするバッキングしかできない凡人(自称)。そんな2人の物語の、喜多ちゃんの努力と歩み寄りが描かれた映画の、最後の最後に挿入された追加シーンは、ぼっちが天蓋孤独なことを指し示すかのような暗いシーン。

少し考えづらい解釈と思えるかもしれない。ぼっちちゃんは、喜多ちゃんのギターが上手くなっていることを認識した。彼女の努力を理解した。想いをライブで受け取ったはずだ。それなのに、彼女は孤独を感じている。こんな終わり方でいいのだろうか。


ED曲、「Re:Re:」の最後の歌詞を見てみる。

君を待った
僕は待った
途切れない明日も過ぎて行って
僕は今日も掻きむしって
忘れない傷をつけているんだよ

君じゃないとさ

この歌詞を示す「君」と「僕」が誰なのか。それは色々と考察できる。シンプルに「僕」を歌っている「後藤ひとり」だとしたら。この「君」が誰かはおいておいて、彼女はまだ自分を「傷つけている」。

「君」という存在は、彼女をまだ救えていない。この「君」という存在が、喜多ちゃんのことを指すのか。それは当然誰にも分からない。けれども、ぼっちちゃんは、彼女はまだ、ぼっちなのだ。

たしかに、明るくて人気のある素敵な少女は、孤独なギター少女のために共にバンドで演奏した。しかし、彼女は凡人として、合わせるためだけに演奏している。音楽の才があり、その才で飯を食っていこうとする、ギター少女とは違う。彼女は憧れの存在になろうとはせず、ただ憧れの存在につくすのみだから。だから、後藤ひとりは孤独なのだ。

今時の少年少女たちにはピンと来ないかもしれないが、このED曲のタイトル「Re:Re:」は、メールなどで返信するとつくRe:という表記を繰り返しているものだと思う。ぼっち→喜多へ、ギターを通して伝えたこと。それを受けて、文化祭で喜多ちゃんが伝えた「Re:」。それに対する「Re:Re:」がこの曲、この解釈だとすると、なかなかに残酷なことだ。


監督のつぶやきと、総集編であることの意味

何だか無理やりにバットエンドにしようと深読みしている変なヤツ、と思われたかもしれない。でも、自分はTVアニメ版からこの作品はそうした「才ゆえの孤独」を描いた作品だと思っているし、それは的中しているかどうか分からないが、製作者たちの意図とそう遠くはないと思う。

なぜなら、劇場が公開した直後、監督である斎藤圭一郎監督はX(Twitter)で、自身の過去のツイートを再度リツイート(リポスト)している。そのツイートはこれだ。

そう、TVアニメ版のキャッチコピーは、「4人でも、ひとり。」
監督自ら作ったこのコピーがこの作品を象徴していると思うのだ。
そして、本作品はこのTVアニメ版の総集編である。新作続編でも、IFストーリーでもない。全く異なる主張をしていてはいけないのだ。


でも、この話は全くの救いがないのかというと、そうではないと自分は思う。最後にだけども、ほんの少しのだけの希望がある。絶望させるかのような追加シーンの代わりに、ほんのちょっぴりとだけ。

少しメタ的な思考だが、過去へ巻き戻るシーンを入れたことが、同じ曲を主題歌に使った『僕だけがいない街』のオマージュだとしたら。あの作品は、主人公が「自分が孤独になること」で物語をハッピーエンドへと導いた。自ら「選び取る孤独」もあるし、「孤独になったゆえに得られるもの」もある。そんなメッセージもあるかもしれない。

それに、「Re:Re:」はこの歌詞で終わる。

君じゃないとさ

ぼっちちゃんの孤独を癒せる、何かがある。それに対して、まだ求めることまで諦めてない。そこに、希望はあるのではないだろうか。

以上、インターネット考察おじさんの1人ごとでした。
しかし、これだけ色々と考えさせるパワーがある作品ってのが、売れている理由だなと改めて実感した。素敵なバンドアニメ作品、楽曲、携わっているスタッフの皆様に改めてありがとうと言いたい。

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