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カリスマゆえに”ぼっち”になる 「ぼっち・ざ・ろっく!」感想

アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』を今更みた。劇場版ではなく、テレビ版。未だに見てなかった。ショートケーキのいちごのごとく、ずーっと楽しみに取っておいたのだ。それも、放送前から。

Youtubeの公式のOP動画がまだ数万回の再生回数のころから、「このアニメはイイぞ!」と勝手に期待していたのだ。

あの数万回の再生数でコメントもほとんどなかった状態から、覇権アニメとなり、総編集の劇場版ですらすさまじい興行収入を出すコンテンツになったのだから感慨深い。自分のこの先見の明は褒めて欲しい。

…大ヒットしちゃうと、逆張りオタク精神が発揮されて見るのストップしていたのは内緒。


バンドの中心でありカリスマ

本作品はまんがタイムきららに掲載されているマンガを原作としている。きららといえば、ゆる~い日常系の作品が多いが、本作品はそうしたテイストは取り入れつつも、根本はバンドをしっかりと描いた音楽アニメだった。バンドをやるということの酸いも甘いも、しっかりと描写している。

主人公であるぼっちちゃんこと後藤ひとりが参加するバンド、「結束バンド」。これはドラマーの虹夏ちゃんが結成したバンドで、ぼっちちゃんは、ギター担当にしかすぎない。

しかし、自分の中ではこのバンドは後藤ひとりのバンドだった。少なくとも作中ではそう感じさせるような構成になっていたようにみえた。そして、これはすごく残酷なことだとも思った。


象徴的なのが、第8話「ぼっち・ざ・ろっく!」での初ライブシーン。gdgdだった演奏を、ぼっちちゃんがギター・ソロを弾いたことで一気にバンドの雰囲気が変わる場面。彼女のソロによってバンドの演奏も格段に向上し、観客もバンドの音を聞き始める。

すごく印象的だったのは、ボーカルの目線。

たびたび後藤ひとりに向けられているのだ。彼女から目が離せていない。バンド内の雰囲気をガラリと変え、その上メンバーの視線を釘付けにするだけの存在感。それを見せつけた、名シーンだったと思う。


冷静に振り返ると、作中の中で音楽的な評価をされていたのは後藤ひとり、彼女のみだった。先程のバンドの雰囲気をも変える演奏シーンもそうだが、彼女の演奏は明確に人を惹きつけるものがあるものとして描写されている。

彼女のYoutubeの演奏動画は再生回数は10万回を超え、コメントが多くついている。そんな状況は、ただ演奏がうまいだけでは絶対に為しえない。人を惹きつけるなにかが、彼女の演奏にはあるのだ。

それはバンド活動にも現れている。実は、「結束バンド」の明確なファンとして描写される人物はいない。もちろん、虹夏のお姉ちゃんは優しくバンドを見守ってるし、陽キャな喜多の友達がたくさん応援してくれているだろう。しかし、それはあくまで身内だ。

彼女らのバンドに対しての純粋な「音楽のファン」は描かれていない。唯一、台風の中でもライブに来た2名は、バンドではなく、ぼっちちゃんのファンなのである。

ぼっちに対して尊敬の眼差しを見る2人

同じく先輩ミュージシャンのきくりも、魅了されたのはバンドの音ではなくぼっちのギターの音だった。

6話より 路上ライブでぼっちのギターを聞いて


結束バンドのメンバーがどういう結末を迎えるかはまだわからない。しかし、自分の中では、本当に音楽で成功する可能性があるとしたら、ぼっちちゃんだけだろうなと思ってしまう。

それくらい、彼女が「カリスマ」的存在として作中では描かれていたと思う。少ない人生経験ながらも、何度もライブに行き、色んなバンドの演奏を聴いているからこそ、断言できる。人を惹きつけるカリスマがある人物が、売れているバンドには必ず存在する。そしてそれはフロントマン(ボーカル)である必要なんかは決してないのだ。

「みんなで結束バンド!大人気!」みたいな雰囲気にはせず、シビアに現実のバンドの才能とそれが顕在する姿を描ききったのはすごく好印象だった。


「ぼっち」って、もしかしてこういう意味?

主人公の後藤ひとりの愛称は「ぼっち」ちゃん。名前が「ひとり」というのもあるし、友達がいる描写がほとんどないから。世間一般的に言われるぼっちだから。割と酷いあだ名だ。まぁ、あれだけ誰とも喋らず、奇行を繰り返していたら、そうなるわな、という感じだが。

彼女のぼっちっぷりは、今作品のギャグパートの多くを担っている。そうしたギャグとしてのぼっち要素であり、それをタイトルに入れた「ぼっち・ざ・ろっく!」かと思っていた。しかし、最終話を見た時にもしかしたらこの「ぼっち」ってすごく深い意味なのかも、と思うようなシーンがあったのだ。


それは、最終話のライブ後の喜多ちゃんとぼっちちゃんの会話。ギターがうまくなっていたことを褒められたギター・ボーカルの喜多ちゃんが、こう語るのだ。

バッキングだけだけどね…
私は人を惹きつけられるような演奏はできない…
けど、みんなと合わせるのだけは得意だから!

第12話より

「え…」と固まってしまった。明言はされていないが、このことばが省略されているのは明白だろう。
「けど、ひとりちゃん、あなたは違う。」
という一言が。

喜多ちゃんが放ったこの一言ってすごく残酷なことばだ。そしてこの一言があるからこそ、このアニメが単なる仲良しこよしでやっているバンドモノではないということを印象を自分の中で明確に持てた。

ぼっちちゃんの唯一友達であるバンドメンバーからも、あなたとは違うと言い放たれる。ぼっちちゃんが、本当の意味でひとりぼっちになってしまうんじゃないか、そんな懸念が生まれた瞬間だった。


もちろん、このセリフに攻撃的な意味はない。喜多ちゃんは純粋にぼっちちゃんのことを尊敬し、友人と思っている。バンドメンバーのみんなも友達同士の関係だろう。このバンドにいる限り、ぼっちちゃんはぼっちではない。しかし、自分はこのセリフを聞いてからふと思ってしまう。

でも、バンドとしては?ミュージシャンとしては?

虹夏ちゃんはこう語っていた。ぼっちちゃんは私にとっては「ヒーロー」だったと。

第8話より

だが、ヒーローとは孤独なもの。何だが12話のやり取りを聞いた後だとこのセリフすら不安に思える要素になる。もし、今と同じようにぼっちちゃんだけ注目され、人を魅了しているような状態が続いた時、このバンドはどうなってしまうのだろうか。その時、ぼっちちゃんは孤独じゃないのだろうか。

OP映像より。実は明確にぼっちちゃんが他メンバーと一緒に演奏している描写は存在しない


音楽を、いやこうした芸事をやっている以上、必ず存在する、才能の壁。それによる孤独(ぼっち)。そうしたものがほんの少しだけ垣間見えるような気がして、自分はこの作品をシンプルなエンタメ作品として割り切れないところがある。


最後の曲が伝えるもの

この作品の終わりは、みんなで笑い合うシーンで終わるわけではない。後藤ひとり(の声優)が歌う、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの楽曲『転がる岩、君に朝が降る』が流れて終わる。

なぜ、たくさんあるオリジナルの楽曲ではなく、このカバー曲で作品を閉じたのだろうか。なんとなく、でそんなことをする作品ではない。
この曲の歌詞を少し見てみよう。最終話のタイトルにもなっている「君に朝が降る」とはどういうことなのか。

あの丘を超えたその先は
光り輝いたように
君の孤独も全て暴き出す朝だ

ASIAN KUNG-FU GENERATION 『転がる岩、君に朝が降る』

ちょっと深読みおじさんになってしまうけども、こんな解釈もできてしまう。「あの丘」とは、バンドとしての成功を暗示しているのではないのだろうか。そこを超えて、「光り輝いた」成功を手にした時、「君の孤独」を暴き出されると、そう歌われていると解釈することもできる。

当然、ぼっちちゃんが、友達が少なくて孤独なことなんてもうすでに自明なわけで…ということは、ここでいう孤独の意味とは、もう少し別の意味なはず。喜多ちゃんが思わず漏らした、他者が魅了するような演奏ができる「あなたと私は違う」という意味の、才能がもたらす音楽の世界での孤独のことかもしれない。


最終話を見た時に一番引っかかていた部分も、この曲の歌詞を見たら、少し自分の中で納得できた。実はこのED曲のあと、数秒のカットが入って終わる。それは、この表情でぼっちちゃんがこう発言するだけのカット。

今日もバイトかぁ…

この表情と、このセリフ。なんだか、モヤモヤとした終わり方である。
「引きこもりで友達がいない高校生が、バイトに行けるくらい成長した」
という意味合いで終わらせるには、彼女の表情も言い方も暗すぎる。
楽しい仲間たちとのバイトを期待して、笑顔にさせていてもいいではないか。


そこで、先程の挿入歌の歌詞を見てみる。この歌詞で、自分はこのラストに対してある解釈をできるようになったというか、腑に落ちた部分があった。ラスサビは、こんな歌詞で終わる。

何をなくした?
それさえもわからないんだ
ローリング ローリング
初めから持ってないのに胸が痛んだ

ASIAN KUNG-FU GENERATION 『転がる岩、君に朝が降る』

ぼっちちゃんはバイトに行けるくらい、普通の女子高生に成長した。友達もできた。バンドを始めた。友達のためにバンドを頑張ろうと思えた。社会性を得た。

でも、それと同時に、ひたすらに押入れにこもり、練習していたギター・ヒーローとしての時間は失われていく。誰かのためではなく、自分の承認欲求を満たそうと音楽をしていた、傲慢だけども純粋な彼女の動機も変わっていく。

それを肯定的な変化と捉えるのか。それとも、なにかをなくしたと捉えるのか。自分は、最後の表情やこの歌詞から、肯定的なものだけではないなと思った。少し寂しさを感じるようなエンドだったと思っている。

もちろん、彼女は大成功した天才ギタリストではないし、社会性に潰される繊細な才能なんか持っているかわからないから、「持ってないのに」なんて歌ってはいるけども。彼女自信、まだこの選択がどうなのかわからない不安もあるのだろう。ただ、転がる岩のように走り続けるしかない。そんなことをボンヤリと思いながらの、あの一言だったのではないだろうか。


細部まで拘りぬいたバンドアニメの傑作

このアニメがこれだけ人気になったのは、単にキャラが可愛かったとか、音楽がよかったとか、そんな表層的なことではないと思う。

自分が一番刺さった、カリスマとそれゆえの孤独の描写と、ラストシーンを中心に多く語ってしまったけども、もっと細かい好きなシーンや要素がいっぱいある。

チケットノルマというバンドをやっていくうえでの厳しい現実の描写。
観客に音楽を聞いてもらうということに対する姿勢。
ライブ中の細かい動き、メンバー同士のアイコンタクト。

そうした諸要素から、バンドが好きな人にはもちろん、そうでない視聴者も拘りを感じ取れたからこそ、「このアニメは他と違う」と思ったのだし、感動したのだと、そう信じたい。

特に、今作品が初監督ながらも大ヒットを飛ばした斎藤圭一郎監督。ライブシーンの盛り上がりや、ここまで深みのある作品になったのは彼の手腕のところが大きいと思う。次回作の『葬送のフリーレン』も大ヒットしていたことで、彼の実力は確かなものだということが保証されただろう。彼の書く絵コンテが大好きなので、これからも素晴らしい作品を作り続けて欲しい。


現在、「バンド」や「音楽」を題材にしたアニメは急速に増えている。間違いなく、このアニメの大成功が要因として非常に大きいと思う。バンドアニメ好きとして、感謝しかない。

単なる総集編の劇場版なら、見に行かなくてもいいかな…と思っていたけど、この熱量だと見に行ってしまいそうだ。


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