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ブルアカ最終編を読んで ※ネタバレ注意
※ブルアカの最終編のネタバレが思い切りあります。
未読の方はさっさと読んで来てください。
ブルアカの最終編を読み終えた。
今日色々とやろうと思っていたことが吹っ飛んだ。
完全放心状態で、掲示板でみんなの感想をひたすら読み続けて半日が消えた。
感情が高まりすぎているので、どこかにこれをぶつけたい。
ということで、書きます。
自分と向き合い、なりたい存在になっていく
「君がなりたい存在は、君自信が決めていいんだよ」
『Vol2 時計じかけの花のパヴァーヌ編』で先生がアリスにかけた言葉。
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この言葉は、この作品の大きなテーマなのだろう。vol1から変わらず一貫している。
最終編が今までの話と違うのが、これに「自己との対話」というもう1つの大きなテーマが追加されたことだろうか。
アリスとケイ
アリスは、ケイという、自分の中にあるもう1つの存在と対話する。
今まで、「分からないもの」として、拒絶し、目を背け続けた、もう一人の自分と向き合う。
そして勇者として、彼女を「世界を滅ぼす道具」ではなく、「世界を救う存在」になってほしいと願う。
ケイも、それに応えて、世界を救う。ケイも王女としてではなく、「アリス」としてアリスを認識する。
最後には、自分自身が「勇者のために消えゆく道具」でありたいと願い、それを選択し、アリスの身代わりになる。
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シロコとシロコ・テラー
シロコ・テラー(通称クロコ)は、自分は世界を滅ぼすためだけの存在であると主張している。自分のせいで世界が滅んだと。
シロコも、そんなことをするのは自分ではないと、シロコ・テラーを拒否する。
でも、先生の言葉で、シロコ・テラーは自分のせいで世界が壊れたわけではなく、破壊者という役割以外にも生きる道が出来たことに気づく。
シロコも、彼女に思い出があるだいじなマスクを渡す。
彼女の存在を、存在して良いと認可する。
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彼女が渡したのは、マフラーではなく、マスク。ここにも1つ意味があるのではないか。
マスクを被っている時は、アビドス高校の生徒ではなく、ファウスト率いる銀行強盗団のNO2でしかない。
つまるところ、あのマスクがあれば、彼女自身の意志(選択)で、自分の存在を変えることができる。
そんなシロコからのメッセージではないだろうか。
それを受けたシロコ・テラーがどんな選択をし、どんな存在になっていくのかは、これから語られるのだろう。
アロナとA.R.O.N.A
アロナは、もう1つのシッテムの箱のOS、A.R.O.N.Aと共に先生を救う。先生が信じた、別世界の自分自身を信じて。
そして、立ち去ろうとする彼女を止めて、共存を選択する。例え、自分に負担がかかろうとも。
彼女にプラナという新たな名前と存在意義を与える。プラナは、その思いを受け取り、この後も先生をアロナと一緒にサポートすることを決心する。
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生徒会長の古則への答え
この最終編の子供(生徒)たちのテーマは、「自分自身と向き合い、選択をし、なりたい自分になっていく」ではないだろうか。
最後に連邦生徒会長の、古則への答えが明かされる。
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「己」に「たがい」とルビが打たれている。
普通ならおかしなルビだ。でも、この最終編ではこれであっている気がする。
この最終編は、対話ができる己(おのれ)と「たがい」に理解していく物語だったのだから。
自由ではない、大人の義務。それを信じ続けた先生。
子どもたちは、自由に選択ができ、なりたい存在になれる。
では、大人は?
ゲームを開始した時のプロローグでも、この最終編でも、流れる連邦生徒会長の先生への言葉。その中にこんなセリフがある。
「大人としての責任と義務。その延長線上にあった、あなたの選択。」
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義務という言葉が使われているのだ。
子どもに、義務はない。彼女らは、なりたい存在を選択できる自由があり、他人から決めつけられる義務はない。
でも、大人は違う。
大人であることの責任と義務がある。それは、子どもたちの誤りを正してあげることだったり、信じ続けることだったり。それを実行することこそが、「大人」であるための条件であり、子どもたちと一番異なるところだろう。
「大人」は「大人」である以上、果たさなければならない義務があり、そのための選択をする必要がある。
プレナパテスも「大人」であり、先生だった。
彼の世界は、崩壊していった。崩壊していく世界で、彼が取った最後の選択。
それは、生徒をかばい、最後の2人になってもその2人を守りぬき、別世界の大人に託すことだった。
自分と同じように、責任と義務を果たす選択をし、全てをうまくいかせた「大人」がいる世界があることを信じて。そんな大人なら、「悪い大人」になった自分を破壊し、生徒を救ってくれると信じて。
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なんてピュアな話だ。
どんな状況になっても、自分の義務を実行する。そして、自分と同じく、いやそれ以上に責任を持って動いている大人がどこかに存在することを信じて、行動する。
先生は「大人」を信じ続けたのだ。狂信者の如く。
カッコよすぎてしょう…
別世界の自分自身と対話する先生。最初から彼は分かっているかもしれないが、改めて自分自身のなすべきことを、自覚しただろう。当然のごとく、彼は転送装置をシロコに使う「選択」をする。
主人公がなりたいと恐らく子どものころに思った、「生徒を守る先生」であるために。
このストーリーを読んで、主人公が本当に大好きになりました。
あまねく奇跡の始発点
「最終編」という名称の意味。まさか、こんな意味とは。
プレナパテスにとって、別世界の先生にとっては、たしかにこれは最終編だ。自分の最後の責任を果たす物語だ。
そして、この最終編のタイトルである「あまねく奇跡の始発点」。
最終編で始発点なんてタイトルどういうことかと思ったが。
確かに、我々視点では、最終編でもなんでもなく、むしろプロローグなのだろう。
ブルーアーカイブにとって奇跡とは、日常そのものなのだから。
だから、「あまねく」なのである。
色彩がいなくなり、日常という奇跡がここから始まる。
なんて素晴らしいタイトル。
メタ的にも、ここが始発点になるくらい、ブルアカにはまだまだ続いてもらわないといけない。
謎もキャラも、描かれていないものはたくさんあるのだから。
美食研究会というスパイス
「日常」というのがこの作品のだいじなテーマだ。
ブルアカは、あくまで「青春の物語」であって、シリアスな軍事モノでは決して無い。
ゲヘナきってのテロリスト集団ごと、美食研究会(+給食部1名)。
彼女らが、最終決戦の船に乗船しているのは、ギャグ要員としてなのだろうか。
まぁもちろん、ギャグ要素を入れるのに、便利な集団であることは間違いないが…
個人的にはもっと深い意味もある気がする。
彼女らは、日常の象徴なのではないだろうか。
美食を探究する。彼女らの乗船理由はそれだけだ。それは、彼女たちの普段の「日常」と何も変わらない。
どんなシリアスな物語になっても、帰って来る場所は日常であり、この物語はそういう物語である、というメッセージを忘れさせない存在というか。
彼女たちの活動が「食事」と結び付けられているのも良い。食事とはどんな生物にも不可欠な行動。つまりところ、生きていくことの根幹な行動。
日常の象徴的な行為だと、個人的には思っている。
何にせよ、美食研究会は作品にとって最高のスパイスであると言える。
普通、どシリアスな場面にギャグ軍団が登場したら、ヘイトが集まりそうなものだが、そんなことにならない。
むしろ、彼女たちが登場することで、「これぞブルアカ!」って感じもする。作品に締まりがでる。
彼女らをお留守番組にするのではなく、最終決戦にしっかりと組み込むところが、本当にセンスがあるなぁと。
相変わらず神な演出
本当に、この作品は演出力が凄まじい。こんなにオタクのツボを抑えれるのかと驚嘆する。ひたすらここすきポイントを、手短に羅列していく。
まずは、ゲームであることをしっかりと演出に活かしている点。
最終決戦のバトル演出もカッコイイし、物語の展開をEXスキルに落とし込んでくるところなんて、そう来るか、と思った。
エデン条約編のころから更にパワーアップしている。
後は、魔法少女的なお手々つなぎは、反則です。オタクには即死効果です。
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そして、「タイトルに戻る」。
ここでもエロゲみを出してくれた。クリアした後にタイトルの演出が変わったり、結末がシステムに影響してくる(プラナちゃんの登場)のはズルいです。
昔のエロゲって、シナリオクリアしたタイトル画面に変化があったなぁ…
Fateの桜ルートクリア後とか、CLANNADの光の球とか。
総括
長々と書いてしまった。
しかし、本当にきれいに着地させたなぁ。このストーリーのコケなさ、安心感がやばい。
ここまで徹底したハッピーエンド主義は、本当に見ていて気持ち良い。自分もハッピーエンド大好き人間だが。
絶対に、全員幸せにするんだという強いメッセージを感じる。
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全員救う、そりゃ言うのは容易い。説得力を持たせるのがムズいんです。
こんな非現実的なハッピーエンドを、納得して受けいられる展開力、そして、その下地である世界観の描写。これがしっかりできている証拠だ。
本当にあっぱれなゲームだなと。
余韻にひたりながら、記事を書いていたらほぼ貫徹に。
ブルアカ、恐ろしい子…
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