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美の哲学

デジカメ写真を問わず最近は、多くのスマートフォン写真が結構あちらこちらに出回っていて、レタッチの技術によってはむしろ解像度の高いデジカメ写真よりも撮影者のセンスがキラリと光るスマートフォン写真の方が綺麗だと感じることが多い。

思うに写真とは技術は勿論、最終的にセンスがその空間を制するのではないだろうか…。
さながらそれは絵画も作曲にも通ずるもので、一個のデッサンからそれを作品として完成させて行くプロセス全体が作品…と言う考え方。

以前私は街のライブハウスでヴォーカルの伴奏をする種の仕事をしていたのだけど、その頃は毎晩、山のように現場で歌唱するライブ用の譜面のアレンジ譜を書いていた。
中には原曲から現場で使いやすいようにシンプル化してアレンジを起こす場合もあるし、中には既に別のアレンジャーが着手し完成させた作品をリメイクして楽譜に起こす場合もあった。
何れも原曲をさらにライブハウス・バージョンに書き換えて行くので、その際イントロ(前奏)や間奏、そしてエンディング(後奏)等に書き手(アレンジャー)のセンスがきわどく露呈する。

私の書いた楽譜は読みにくい…と言う噂が結構業界に蔓延していたようだが、私からすれば他のアレンジャーの雑なアレンジ譜をその通りに演奏することの方が余程苦痛で、感覚の優れている歌手のサポートに就く日にはその日の演目の多くを私の感性でリメイクして演奏することも多々あった。


とある大御所の歌い手にある日、「色々ごちゃごちゃやらないで、シンプルでいいのよ。シン・・・プルで。」と怒りげに言われた。
該当のその曲はよく聴くと原曲にCメジャー6に付加コードとしてメジャー7メジャー9が程よく鳴っているのだが、最初にその楽曲を採譜したアレンジャーがコード付けからその肝心な調味料の部分をゴッソリ抜き去っており、その味も素っ気もない伴奏音に歌手がただ慣れていた…と言うオチだった。

ドミソ・レファラ・ソシレ…と言う極めて初歩的かつ非音楽的なコードを弾いてくれさえすればいい…と歌手は私に訴えていたのだけど、私にとってそれはあまりにも恥ずかしい要求だったので、最終的に私はその歌手との共演を丁寧にお断りさせて頂いた。
センスのない歌手の言いなりになれるほど私の感性は劣化していない。
元々必要にて最小限の音を、採譜者の能力不足で書き損じていたものをそのまま演奏するなど、演奏者としての名が廃ると言うものだ。


完全に音楽の方に話が脱線してしまったけれど、最近の写真もそういう感じで、高いカメラを感性の乏しい人が使い潰し写真家と称して、ただ単に解像度だけが高い被写体が正確に映っているだけの写真があっちこっちのSNS等に投稿されている。
フレンドのような取り巻きのような人たちがそれを「素晴らしいですね」「綺麗ですね」等とコメントし合い、感性のない撮影者もすっかりその気になっている…と言う惨状が結構当たり前になりつつある。

特に最近、写真にナンセンスな署名を書き込む写真家が増えており、私はそういう写真は絶対にどこのSNSにもシェアしないことに決めている。
美よりも撮影者の名前を売ることが目的…ならば、その行為に恥じない美しい写真を発信すべきと言うのが私の考えだ。
仮に署名を写真の中に映し込むのであれば、それも作品の一部であり、作品として署名が綺麗にレイアウトされていればきっと私も堂々とそれをシェアするに違いない。


どれだけ歳を重ねても、美しいものに正直かつ貪欲であり続けたいと思う。



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