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レオ・レオーニとブルーノ・ムナーリ

絵本『スイミー』などの作者として知られるレオ・レオーニは、青年期と晩年をイタリアで過ごしています。わたしが関心を持って追いかけているイタリアの芸術家ブルーノ・ムナーリとも深い関わりのある人物です。
レオーニについては日本語で詳しく知ることのできる『だれも知らないレオ・レオーニ』という良書がありますが、ローマの美術館が展覧会の際にまとめた資料を見つけて、あらためてレオーニとムナーリの関係について、私なりにすこし考えてみました。

Leo Lionni
Palazzo di Esposizioni Roma
dossier pedagogico
レオ・レオーニに関する教育的な資料
パラエキスポ・ローマ

(2024年10月現在、当該資料はパラエキスポのHPからダウンロードできなくなっていました…)

資料からレオーニの生涯について引用翻訳してみましょう:
a sua vita

1910 nasce Leo il 5 maggio

1924 parte per l’America con i genitori
1929 torna in Italia per studiare economia all’Università di Genova
1931 partecipa al movimento futurista di Marinetti

1931 sposa Nora Maffi

1935 si laurea in economia e comincia a interessarsi al design
1939 è costretto a emigrare negli Stati Uniti con la famiglia, a causa delle leggi razziali

1939 “Never underestimate the power of a woman” (Mai sottovalutare il potere di una donna) primo slogan famoso della sua carriera nella grafica editoriale e nel design pubblicitario
1959 pubblica il suo primo libro per bambini: Little Blue and Little Yellow
1962 torna in Italia e inizia anche una carriera come scrittore e illustratore di libri per bambini
1999 muore l’11 ottobre a Radda nel Chianti

レオーニの生涯
1910 5月5日に生まれる
1924 両親とアメリカに渡る
1929 ジェノヴァの大学で経済を学ぶためにイタリアに留学し、イタリア未来派のマリネッティと知り合う
1931 ノラ・マッフィと結婚
1935 経済学部を卒業後、デザインに興味をもつ
1939 ファシズムによる(ユダヤ人迫害の)法律から逃れるためアメリカへ家族と移住
1939 「女性の力を低く見てはならない」のデザイン発表
1959 初めての子どものための本『あおくんときいろちゃん』を出版
1962 イタリアへ戻り、絵本作家と彫刻家としてのキャリアを開始する
1999 10月11日キャンティ(トスカーナ地方)で没する

io sono Leo Lionni
Lionni è un narratore della contemporaneità che come artista, intellettuale e designer ha elaborato un pensiero sapientemente filtrato nelle sue storie per ragazzi.
Un cantastorie occidentale che ha distillato la sua sapienza artistica, visiva, politica, estetica per regalarla con coraggio e responsabilità alle nuove generazioni.
Come recita la sua autobiografia, Beetween Worlds, Lionni vive tra due mondi, l’Europa e l’America, dialogando con le tendenze artistiche a lui contemporanee;
dai futuristi di Marinetti conosciuti a Milano, agli artisti del Bauhaus in Germania, fino all’ambiente intellettuale dell’America post-bellica.
Lionni nasce nel 1910 ad Amsterdam, padre intagliatore di diamanti, madre cantante lirica. Sfugge alla guerra, si sposa in Italia con Nora Maffi che sarà la compagna della sua vita.
In Italia studia economia, ma una volta in America lavora come grafico e designer.
Vive a New York nel centro nevralgico della comunicazione visiva, nell’ombelico vitale della nuova cultura occidentale. È art director di Fortune e Print, due delle riviste più rivoluzionarie nel campo della comunicazione. Insegna grafica e comunicazione visiva al Black Mountain College, il “Bauhaus americano”, diretto dall’artista Joseph Albers.
A cinquant’anni cambia vita e torna in Italia dove costruirà la sua casa studio nelle colline del Chianti, in Toscana. Pratica moltissime arti, viaggia, suona, scrive, dipinge e scolpisce. In questo periodo, produce molti libri per bambini e ne pubblica uno all’anno.
Questa occupazione “secondaria“ oggi rappresenta la sua maggiore forza,
la sua forma artistica più completa. I suoi libri sono vere e proprie opere d’arte
dedicate all’infanzia. Pochi autori e artisti hanno dato tanto valore ai bambini, mettendo a loro disposizione con grande serietà le proprie esperienze di vita e artistiche.
Leo Lionni, un pensatore, un creativo, un maestro del narrare è un personaggio imprescindibile nella cultura del novecento; un artista che considera
fare libri per bambini un privilegio, un punto di arrivo, una responsabilità.

わたしはレオ・レオーニ
レオーニは現代の語り部であり、芸術家として、知識人として、デザイナーとして、彼の童話に深い思慮のフィルターをかけている。
彼の芸術的、視覚的、政治的、美学的な知恵を抽出し、勇気と責任をもって新しい世代に贈る西洋の語り部なのだ。
自伝『世界の間で』にあるように、レオーニはヨーロッパとアメリカという2つの世界を行き来しながら、同時代の芸術的潮流;ミラノで出会ったマリネッティのイタリア未来派からドイツのバウハウスの芸術家たち、そして戦後アメリカの知的環境などと対話しながら生きている。
レオーニは1910年アムステルダムに生まれ、父はダイヤモンド職人、母はオペラ歌手だった。彼は戦火を逃れ、イタリアでノラ・マッフィと結婚し彼女は生涯の伴侶となる。
彼はイタリアで経済学を学んだが、アメリカに渡ってからはグラフィックデザイナーとして働いた。
ビジュアル・コミュニケーションの中心地であり、新しい西洋文化の重要なへそであるニューヨークに在住した。彼はフォーチュン誌とプリント誌のアートディレクターとなった。彼は芸術家ジョセフ・アルバースが学長だった「アメリカのバウハウス」ブラック・マウンテン・カレッジでグラフィックデザインとビジュアル・コミュニケーションを指導した。
50歳になった彼は人生を変えてイタリアに戻り、トスカーナ州キャンティの丘に自宅アトリエを建てた。彼は旅行、遊び、執筆、絵画、彫刻など多くの芸術を実践。この間、多くの絵本を制作し、年に1冊は出版している。
この 「二つ目の」職業は今日の彼の最大の強みであり、最も完成された芸術の形を表している。
彼の本は幼児期に捧げられた真の芸術作品である。彼のように子どもたちにこれほどの価値を与え、子どもたち自身の人生と芸術の経験を真剣に提供した作家や芸術家はほとんどいない。
思想家であり、創作者であり、物語の達人であるレオ・レオーニは、20世紀の文化に不可欠な人物であり、子どもの本を作ることは特権であり、一つの到達点であり、責任でもある、と考える芸術家なのだ。

レオーニは特に日本では絵本の作者として有名ですが、彼の生涯を見ると、グラフィック・デザイナーとしてのキャリアと後半生の芸術活動が重要であったことがわかります。さらに言えば、レオーニの創造活動の出発は青年期にイタリア未来派の活動に参加したことも見逃せません。

このイタリア未来派(後期)の芸術活動には、ブルーノ・ムナーリもまた参加していました。
あらためてムナーリの生涯を以下に紹介します:

1907 ミラノに生まれる。
1913 ヴェネト州へ転居
1926 ミラノへ移住、グラフィックデザイナーとして仕事を始める。未来派のマリネッティに紹介される。
1927 未来派の展覧会に参加
1945 第二次大戦終結。モンダドーリより仕掛け絵本シリーズを企画〜10冊のうち7冊を出版
1960 世界デザイン会議出席のため来日。
1966 「芸術としてのデザイン」出版
1977 ミラノ・ブレラ美術館で子どものためのワークショップ開催
1985 青山こどもの城でワークショップ開催、来日。
1998 ミラノで逝去

ムナーリもまた、芸術活動と並行してミラノでグラフィック・デザインの分野を中心に晩年までデザイナーとして活躍しました。
ちなみにレオーニのデザイナーとしてのキャリアは、主にアメリカで築かれています。

デザイナーであり、イタリア未来派を原点にもつ芸術家であり、絵本の作者でもあった、という大きな共通点をもつレオーニとムナーリですが、一方でいくつかの違いもあるように思えます。その一つは、彼らの出自にまつわる時代や社会と表現活動との関係です。

レオーニはユダヤ系の家族としてオランダに生まれました。「レオーニのおじに絵画コレクターがいたことで彼の芸術への関心が育まれた」と資料にありますが、おそらく相応に裕福な一族だったのではないでしょうか。しかしレオーニが生きた時代、ヨーロッパにはファシズムとユダヤ人差別の嵐が吹き荒れました。レオーニがアメリカに渡ったのも、イタリアにおけるユダヤ人排斥の手を逃れるためだったそうです。
一方ムナーリはミラノでカフェの給仕だった父から生まれ、少年時代を両親が宿屋を営んだヴェネト地方の小都市で過ごしています。比較の問題ではありますが、ムナーリは一般市民の家庭に生まれ育ちながら、その芸術的才能を自然豊かな地方都市で育んだと考えられます。
レオーニやムナーリが参加したイタリア未来派の芸術家たちの中には、時に前期の中心人物たちの中にムッソリーニを賞賛する傾向がありました。レオーニが早い時期に未来派の芸術活動から距離をとったのにはこのような背景があったことが想像できます。ムナーリも未来派の活動には参加していたものの思想的な部分で共感していたという記録はありません。とはいえユダヤ系であるレオーニとイタリア人のムナーリでは、当時の社会での処世のあり方には大きな違いが生まれたようです。イタリアがドイツや日本と枢軸同盟を結んで第二次世界大戦に突入する時期、ムナーリはすでに大手出版社でアートディレクターを務める立場でした。そのためムナーリは当時の大政翼賛的出版物の編集にも関わっていたことが確認されています。大戦末期に徴兵されたムナーリは幸い訓練の段階で終戦となって戦争に加担することなく戦後を迎えましたが、ムナーリより若い世代のイタリア人、特に北イタリアの知識人(作家や教育者)たちの中には反ファシズムのレジスタンス運動に身を投じたものが少なくありません。当時のムナーリは積極的にファシズムに抵抗することが難しい立場だったと考えられます。

レオーニは、アメリカで社会差別に対する問題提起の広告キャンペーンに関わっています。
ムナーリは戦後多くの著作を発表していますが、基本的に政治に関するコメントを避け、あくまで芸術と人間の創造性について論じる立場を崩しませんでした。
なおムナーリより先輩の未来派の中には、戦前戦中に積極的にファシズムを指示したことがその後の仇となった芸術家たちもいたようです。

はじめに紹介した資料の中から、面白いと感じた両者のもう一つの違いが、デザインと芸術に対する姿勢です。
レオーニはアメリカでデザイナーとして成功しながら、あらためて芸術家として活動することを決心してアメリカでのキャリアを捨ててイタリアへ戻りました。
前述の資料の中では、レオーニの絵本『アレクサンダーと機械ネズミ』の物語がレオーニと友人だった芸術家のアレクサンダー・カルダーの関係から影響を受けている、と解説しています;

Il libro tocca uno dei temi più cari a Leo Lionni che, all’apice della carriera come art director, ha una profonda crisi esistenziale.
È combattuto tra un mondo di professionisti che si occupano di scegliere e utilizzare l’arte di altri e il mondo libero e creativo di chi realizza opere che guidano il mondo verso la bellezza. Alexander Calder spirito libero, informale, eccentrico diventa fonte di ispirazione per la grande rivoluzione della sua vita. Nel 1962 Leo lascia ogni suo incarico in America e si trasferisce in Italia per dedicarsi al sogno di diventare un artista.
この本は、アートディレクターとして絶頂期にあったレオ・レオーニにとって、最も身近なテーマのひとつに触れている。
彼は他人の芸術を選んで利用するプロフェッショナルの世界(デザイン)と、世界を美へと導く作品を創造する、自由で創造的な世界(芸術)との間で引き裂かれていた。アレクサンダー・カルダーの自由で形にとらわれずエキセントリックな精神は、レオーニの人生における偉大な革命のインスピレーションになった。1962年レオはアメリカでのすべての地位を捨てて、芸術家になる夢に専念するためイタリアに移住した。

レオーニがデザインとアートの間で引き裂かれそうな思いをした(と言われる)のに対して、ムナーリはデザインの世界で活躍しながら同時に積極的な芸術活動を展開しました。ムナーリには生活の収入を得る仕事としてのデザインとアートワークの両立に苦悩した様子が見られないところは、なかなか興味深いと思います。

もうひとつ、「違うと言えば違い、似ていると言えば似ている…」と思う両者の関心には、芸術を通じて社会を変えようという意思の表れがあるように思います。
レオーニは自身が人種差別によって生命の危険にさらされた戦争時代の経験があり、アメリカ時代には女性や社会的に弱い立場の人々のための権利を守るメッセージを仕事の中で発信しています。

ムナーリの社会への取り組みは、1950年代に芸術を生活の中に取り入れることで人々が創造性の価値を再認識することをねらった、量産された芸術作品の発表という形で見ることが出来ます。しかしこの実験はムナーリが期待していたほどの成果にいたらず、失望したムナーリは1970年代から本格的に子どもたちのための造形ワークショップを通じた教育活動へ力を注いでいきました。ムナーリは自著『ブレラ美術館における子どものためのワークショップ』の中で「大人の意識を変えることはほとんど不可能なので、子どもたちに期待しよう。未来の社会を形成する男女は、すでに今ここにいる、3歳、5歳、7歳... より良い未来のために社会を変えようとするならば、すでに私たちと一緒にいる彼らを大切にしなければならない。(E siccome è quasi impossibile modificare il pensiero di un adulto, noi ci dovremo occupare dei bambini. Gli uomini e le donne che formeranno la nostra prossima società futura, sono già qui adesso, hanno 3 anni, 5, 7... Se noi ci preoccupiamo di cambiare la società in meglio, dobbiamo occuparci di questi individui che sono già qui con noi.)」と書いています。

レオーニもまた子どもたちとともに絵本を作るワークショップを行ったり、自身の絵本の映画化に取り組むなど子どもたちへの働きかけを行っていたようです。レオーニの教育への関心についても、もう少し調べてみると発見があるような気がしています。

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