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“もっと目に見えなくなる”話

「なんかここ電波悪くない?」
残念。電波の強弱は目に見えない。
画面のソコを信じるしかない。

「ここWi-Fi弱くね?」
残念。Wi-Fiの強弱も目に見えない。
同じく画面のソコだけが頼りだ。

「この人のnote面白い!」
見えない事も悪いことばかりじゃない。
場合によっては見た目に左右されないという幸せもある。

「そういや最近現金で払わなくなったな」
本当に使った分だけ増減してるか確かめてるか?
まぁこれは現金の方が無くすリスクは高いか。

「この道が最短距離で最も快適な道のりです」
それがとんでもない回り道だとしても、もはや信じるしかない。
更新しない地図帳なんて、今更買ってられない。

加速して加速して加速して加速し続けるんだろ?


100年後
1000年後のことまで知ったこっちゃないが、
目に見えないものを信じるしかなくなる時代は、すぐ目の前だ。

きっと昭和や平成に生まれた私たちは、しばらくの間、
“実感できたり、目に見えるものに依存したくなる時代”
を経ていくんだろう?

画面ではあんなに爽やかだと思っていた人が酷い人だったり、
安くていいと言われて買ったものがゴミ同然の物だったり、
体にいいと評判だったものが実は有害なものだったり。

調べたらなんでも出てくると言われる時代になったが
出てくるものを判断するはずだった目は、もうぼやけてきた。

たった150年ほど前。
当たり前にちょんまげを結っていた人たちが現代を見たら、
「不幸な世界だな」と言う気がする。

たった75年ほど前。
戦争で戦って死んでいった人たちが現代を見たら
「こんな世界にしやがって」と言う気がする。

今現在、こっち側にいる私達からすると、
「ちょんまげみたいな変な髪してる人に言われたくないよw」
感謝こそすれ、ほっとけってんだ。
LINEの便利さ知らないでしょって、そう言いたくもなる。

ただ、数十年経ったら、きっと自分もそっち側だ。

目に見えなくなる不安から逃れようとするなら、
もう見ようとしない事でしか救われないんだろう?

そして皆それを、もう知っている気がする。

自分で書いといてなんだが、そんなのやだな。
世界がどうなろうと、可愛い子を見てトキめく自分でいたい。

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