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kotoba(ことば)の玉手箱ーお薦めの古典紹介 Vol.6(3)『自省録』(マルクス・アウレリウス・アントニヌス著)

皆さん、こんにちは。
それでは『自省録』紹介の3回目に入ります。今回で最後になります。前回の2回目では、著者のマルクス・アウレリウスが拠って立つと言われるストア学派の哲学を、対立すると考えられるエピクロス派の哲学と比較しながら紹介しました。

今回は、本書の概要について軽くご紹介した後に、本書のポイント、最後に今の世の中で本書をどう活かすことができるのかについてお伝えしたいと思います。

本書の概要

まず本書を手に取っていただけるとわかりますが、第一巻から第十二巻まで、12章に分かれていることが理解できます。多くの解説本や解説で言われているように、これらの巻ごとに何らかの流れがあったり、テーマに分けられているわけではないようです。もしかしたら、日めくりカレンダーのように手にとって見ていくような使い方も良いかもしれませんね。

そして、もともと本書は自分のための日記、手記として書きとどめられていたものですので、表現や体裁を整えて読みやすくしたものでもなく、時には単語や短いフレーズが並んでいるだけのものもあります。

ただ、本書は、ご紹介の1回目、2回目で説明した通り、相次ぐ戦争の中にあって、皇帝としての激務を縫って「人生をいかにいきるべきか」を思索した考え、思い、悩みなどが記されている手記です。最高権力者でもあり、また妻や子供を持つ一人の人間でもある一人の人間の生のつぶやきが表現されているという意味で、荒削りの中にもハッとさせられる表現が発見できる、とても深い思索書であると思います。

ここがポイント!3つ

さて、本書のポイントとして以下の3つを挙げたいと思います。

一つ目は、「いかに生きるべきか」という人間にとっての永遠のテーマを扱う思索書であることです(普遍性)。

前回のご紹介において、ストア学派の哲学が「自然に従って生きること」、「外から起こることや、運命にも抗わずに、その状況を受け入れて善く生きること」を説いたと紹介したかと思います。第二次世界大戦中のホロコーストの激烈、過酷な収容所生活を奇跡的にも生き延びた『夜と霧』のフランクルなどは、このストア学派の哲学の教えを心の拠り所にして生き延びたとも言われています。

本書の中にはたくさんの「善く生きること」、「いかに生きるか」についての思索のつぶやきがありますが、以下が著者のマルクス・アウレリウス自身が自分に諭すように言い聞かせている部分としてはっとさせられ、胸に迫りくるものと感じた一節です。

「この私という存在はそれが何であろうと結局ただ肉体と少しばかりの息と内なる指導原理より成るにすぎない。書物はあきらめよ。これにふけるな。君にはゆるされないことなのだ。そしてすでに死につつある人間として肉をさげすめ。それは凝血と、小さな骨と、神経や静脈や動脈を織りなしたものにすぎないのだ。また息というものもどんなものであるか見るがよい。それは風だ。・・・」(第2巻、二)

また、「善く生きること」と同じ意味になるかと思いますが、「死」についてもどうそれを迎え入れるかの考え方も随所に示してくれています。

「死を軽蔑するな。これもまた自然の欲するものの一つであるから歓迎せよ。たとえば若いこと、年取ること、成長すること、成熟すること、歯やひげや白髪の生えること、受胎すること、妊娠すること、出産すること、その他すべて君の人生のさまざまな季節のもたらす自然の働きのごとく、分解することもまた同様の現象なのである。したがってこのことをよく考えぬいた人間にふさわしい態度は、死にたいして無関心であるのでもなく、烈しい気持ちをいだくのでもなく、侮蔑するのでもなく、自然の働きの一つとしてこれを待つことである。」(第9巻、三)

二つ目は、机上の空論や頭で考えるだけのことではなく、実際に行動に移す、実践を勧める具体性や力強さがあることです(実践性)。

以下のようなフレーズが見られますが、これらはそのごく一部です。

「存在しないものを、すでに存在するものと考えるな。それよりも現存するものの中からもっとも有難いものを数えあげ、もしこれがなかったら、どんなにこれを追い求めたであろうということを、これに関して忘れぬようにせよ。」(第7巻、二十七)
「なによりもまず、いらいらするな。なぜならすべては宇宙の自然に従っているのだ。そしてまもなく君は何ものでもなくなり、どこにもいなくなる。」(第8巻、五)
「君がなにか外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。ところがその判断は君の考え一つでたちまち抹殺してしまうことができる。また君を苦しめるものがなにか君自身の心の持ちようの中にあるものならば、自分の考え方を正すのを誰が妨げよう。」(第8巻、四十七)
「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。」(第10巻、十六)

三つ目は、比喩や例えがとても美しいフレーズがところどころ見られ、文学書としても味わえる書でもあります(美的な文学性)。

以下がその例ですが、これもごく一部でしかありません。

「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。」(第4巻、四十九)
「・・彼は葡萄の房をつけた葡萄の樹に似ている。葡萄の樹はひとたび自分の実を結んでしまえば、それ以上なんら求むるところはない。あたかも疾走を終えた馬のごとく、獲物を追い終せた犬のごとく、また蜜をつくり終えた蜜蜂のように。・・」(第5巻、六)
「未熟な葡萄、熟した葡萄、干し葡萄ーすべて変化である。それは存在しなくなるためではなく、現存しないものへの変化である。」

自然、宇宙や変化するものの描写や思索のつぶやきが多々あり、日本人の持つ自然観、無常観に近いものを感じます。

今に活かす(現代において連想したこと)

さて、以上長くご紹介をしてきました『自省録』ですが、この拠って立つストア学派の哲学自体には目新しさ、革新性など、新しい要素は見出しにくいものがあるかもしれません。

それでも今の世の中にあって古典としての価値があるとすれば、常識的なこと、普通と思われることを粛々と実践していくことの大切さを説いてくれていることにあるのではないかと思います。

この著者マルクス・アウレリウスは哲人皇帝としての評価がありますが、この一人の人物がおそらく戦場や孤独な環境の中で「善く生きること」と向き合って格闘し続けたことの記録がこの『自省録』として生まれ出たと思います。その実践性からくる具体的な記述が我々の気持ちを動かすのでないかと考えます。

さらには、自分のコントロールできることと、できないことを峻別して、コントロールできることに集中していこうというメッセ―ジが本書にはありますが、複雑で不透明な時代にあってこの態度はシンプルに生きることの大切さを教えてくれていると思います。

最後に、現在も続くロシア・ウクライナ侵攻など、世界においては「平和」の実現には程遠い現実が目の前に繰り広げられています。この『自省録』の中に以下のようなフレーズがあります。

「ソクラテスはこういうのをつねとしていた。『どちらをあなたがたはお望みか。理性的動物の魂を持つことか、それとも理性のない動物の魂を持つことか』『理性的動物の魂』『どんな理性的動物?健全な、それともよこしまな?』『健全な』『ではなぜそれを追い求めないのかね』『私たちはもうそれを持っていますから』『ではなぜ戦ったりいい争ったりするのだろう』」(第11巻、三十九)

西暦121年、今から1900年以上前に生まれたマルクス・アウレリウスの生きた時代と、今の我々の世の中を比べてみた時に、どちらが「進歩」して、どちらが「発展」しているなどと簡単に言えるものかと、心もとない気持ちになります。

それだけ我々人間が、「理性的な動物」として善く生きることが難しく、だからこそ永遠のテーマとして今も考え、実践していかなければならないのだとあらためて考えさせられた書物でした。

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