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クリプキを巡って

現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』本論 第3章 <非-思量>という<次元/場> Ⅰ <私-誰 I-Someone/Who>と<私-今>の「附論」を転載

 クリプキは、『ウィトゲンシュタインのパラドックス ――規則・私的言語・他人の心』(Wittgenstein on Rules and Private Language, 1982)において、「クワス算 quus(以下*)」というこの私にとって予想外である/あった演算を想定している。彼の記述によれば、「クワス算 quus」は以下の規則に従う。

x*y=x+y (x<57 ∧ y<57)
=5 (x≧57 ∨ y≧57)
(x+yのxとyがともに57より小さい場合足し算と同じ演算結果になり、xとyのいずれか一方でも57以上である場合演算結果は5となる)

 この「クワス算」という演算は、この私がそのメンバーである/あった(はずの)我々の共同体にとって未知の存在である/あったものとして、「プラス算」のような我々にとってこれまで自明であった(はずの)事実の規範性/規範の事実性そのものを掘り崩す無根拠性を照らし出すものとしてクリプキによって想定され、目に見える形で記述されている。つまり、ここでクリプキは、プラス算とクワス算という二つの変換同士の変換規則を我々の言語で記述してしまっている。すでにそのことの内に潜む根底的なパラドックスに、彼は気づいているだろうか。もちろんこのパラドックスは直ちにこの今の私の記述においても出現する。
 ここで私/我々は、クリプキのこの想定よりも以前から知られている、この想定とアナロジカルな二つの変換同士の変換規則の(意味の)理論的定式化の最も著名な事例を想起する。それはほかでもない、アインシュタインの特殊相対性理論におけるローレンツ変換とガリレオ変換(ガリレイ変換)の変換規則の(意味の)理論的定式化である。
 
永井 均氏は、クリプキによる「ウィトゲンシュタインのパラドックス」について、以下のように延べている。

「彼が依拠している懐疑の根拠を一般化するなら、それは彼の首を絞めることになる」(永井 均『転校生とブラックジャック』41頁)

 であるなら、彼/クリプキは、プラス演算とクワス演算の相互変換規則をガリレオ変換とローレンツ変換のそれと同様に既に前提している。だからこそクリプキは全体構図を想定し記述するあの本を書けた。

 クリプキによれば、この相互変換規則それ自体に関しては、共同体の各成員はみな同じ解釈/答えを出し、かつそれに暗黙の裡に固執すると仮定することができる。であるならば、共同体のメンバーの誰もその変換規則自体を訂正することは出来ない。すなわち、その共同体の内部には、訂正者はあり得ないことになる。また、もし訂正者がその共同体の外部にいるとすれば、彼は何らかの訂正をする「権利」を有しない。
 こういったクリプキのロジックのコアをなす共同体の内部と外部の先鋭な分割は、嘗てマックス・ウェーバーが『古代ユダヤ教 Das antike Judentum』において共同体の同胞倫理(対内倫理と対外倫理の分割)として分析した。このテーマに関してはジュディス・バトラーも論じているが
[注16]参照)、クリプキのロジックはユダヤ教の倫理の基盤を成すロジックでもある。
 ところがクリプキの独創性は、この共同体の内部と外部の分割のロジックを「個人の自分自身に対する訂正」という思考実験によって自己矛盾的に瓦解させている点にある。クリプキは、共同体の成員達がお互いに訂正するように、ある個人が自分自身を訂正することがあるのであろうかという問いを放つ。そしてその問いに対して、クリプキは、人は単に幾つかの相矛盾する、野蛮な傾向性を持っているだけかも知れず、共同体においては、ある人がその共同体に受け入れられたならば、人々は彼の反応に信頼することが出来ると判断するが、個人の自分自身に対する関係においては、この様な信頼は存在しないと述べている。
 共同体という権利上の、その意味で完全な訂正可能性の地平を暗黙の前提としたクリプキが、ある個人つまりより正確にはこの私が(根源的にはこの<私>が)私自身を訂正する可能性に関しておそらくは彼にとっても解消不可能な懐疑を提起しているのだ。
 すでに共同体のメンバーとなっている私/我々人間の生活世界においては、当該共同体にとって他なるもの/他者に対する共同体の閉鎖の基準に関する議論の無限背進(開放と閉鎖の二項対立の帰結)を認めず、実践的に適宜打ち止めにするという現実が存在する。この適宜打ち止めにする実践の現実は我々人間の現実そのものだが、一見それと異なるカント的定言命法(「異邦人を受け入れよ」)と表裏一体である。こうした実在世界における我々人間の共同体の動的構造は、カントに着想を得たデリダの「歓待の哲学」にも接続可能である。共同体の閉鎖の基準を訂正可能性に開いておくという開放性は、その都度の開放性の打ち止めという現実に裏打ちされていなければならない。さもなければ閉鎖か開放かという二項対立の無限背進に陥る。共同体とは、閉鎖と開放の均衡点をその都度実践的に探索するという運動またはその動態そのものである。
 だが、クリプキによれば、この私自身が単独でプラス演算とクワス演算の相互変換規則のような権利上の(その意味で完全な)規則を創設することはできない。そのできなさは、任意の私/我々に波及する。言い換えれば、任意の共同体がその自己創設のできなさを共有している。つねにすでに、この私/我々にとって共同体という終わりなき運動自体は不動の与件として与えられているのだ。その共同体の「同じなにか」(東浩紀『訂正可能性の哲学』genron 2023年 80頁参照)性は、任意の実在世界におけるこの私/我々にとっては訂正不可能なものになる。
 与えられた任意の共同体が可塑的で柔軟な「訂正可能性」を内包するのは(超越論的な可能性の条件として)事実だろう。だが、禁止または排除としての制限、すなわち実効的な、通常の法的機能を有するその限界領域の設定は、法的レベルそれ自体の措定及びその維持――同時に象徴的レベルにおける任意の文脈の設定行為――として、ベンヤミンの『暴力批判論』の枠組みを借りるなら(「暴力批判論」『暴力批判論 他十篇』 ヴァルター・ベンヤミン著 岩波書店 1994年 所収参照)、「法措定的暴力」または「神話的暴力」と呼ぶことができる。それは共同体という「同じ何か」が成立し維持され得る地平それ自体を「否定」し破壊する「神的暴力」(同上参照)ではない。
 この私が(根源的にはこの<私>が)私自身を訂正する可能性が解消不可能な懐疑に晒されクリプキのロジックから排除されるのはそのためである。この私が(根源的にはこの<私>が)創設するのは、実在世界のあらゆる共同体を創出し支える相互変換規則ではなく、それらあらゆる共同体または相互変換規則のシステムに先立つこの現実それ自体だからだ。

 クリプキがその全体構図を想定し記述したプラス/クワス演算とそこで登場する数の意味は、我々が共有し得る意味でありながら、クリプキまたは我々が言おうとしても、そしてこの<私>が言おうとしてもその意味を言うことができない、無内包の<意味>なのである。

参考
『本論』[注16]
『名指しと必然性』におけるクリプキには、「この<私>の現実性との不可避的な遭遇-衝突への促し」に対する何らかの感性があると思われる。彼の探究が、「ぢつと手を見る(石川啄木『一握の砂』)」「私は今---と考えている」といった現に/現実性の場を完全に消去することなく遂行されているからだろう。だが、クリプキは、「我々によってそう言われる(または呼ばれる)」の超越性を抽出し得たからこそ、アリストテレス『形而上学』の全ての記述の根底的な土台でもある「我々によってそう言われる(または呼ばれる)」という説明方式/ロゴスの圏域にとどまり続けた。その意味で、彼は極めて忠実なアリストテレスの弟子であると言える。そうであっても、彼は「ある人が共同体に受け入れられたなら人々は彼の反応に信頼することができると判断するが、個人の自分自身に対する関係においては、このような信頼は存在しない」(cf, Kripke,1982)というパラドックスを完全に消去することはなかった。以下の著作を参照
Naming and Necessity, Harvard University Press,1980. 邦訳『名指しと必然性――様相の形而上学と心身問題』産業図書、1985年
Wittgenstein on Rules and Private Language, 1982. 邦訳『ウィトゲンシュタインのパラドックス――規則・私的言語・他人の心』産業図書、1983年

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