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上座部仏教界隈への提言

こんにちは、トミボーディです。
2024年になりましたね。
まずは新年のご挨拶をと思っておりましたが1月1日の元旦に起こりました能登半島地震に見舞われた全ての被災者の方々にお見舞いと亡くなられた方々にお悔やみを申し上げます。
まだまだ大変な状況でありますし強い余震がありますが、皆様が一刻も早く平穏な日常に戻れますように願っております。

さてタイトルにあります様に今回は日本の上座部仏教界隈への提言を書こうと思うのですが、そんな大した事ではありません。
ですがこの半年あまりの活動の中で思った事感じた事を少しばかり文章にしてみようかなとおもい文字をタップしています笑
提言というのはつまり「ストイックな在り方を仏教の在り方と思い込んではいないか?」という事です。
仏教はやはり解脱、涅槃を目指す悟りの境地に至るまで修行(至った後も修行する)するために
様々な欲望から離れ、もしくは断絶し自身の精神を瞑想の禅定によって清め日々精進するかなりストイックさをイメージさせる宗教であります。
但し一方で仏教には「出家」と「在家」という二つの側面があります。
出家は前筆した様な修行をする為、生産活動から離れ欲望(煩悩)から離れた世俗から隔離された環境で修行する在り方や生き方であります。
一方在家というのは生産活動を日常の中で行いつつお坊さんを影でサポートし時には自身の悩みや苦しみについて僧侶に相談したり、または功徳として来世は天界に生まれ変わるという話でまぁそこまでストイックではないのです笑
(というより主に信仰の世界ですね)

しかしながら日本の上座部仏教界隈では在家の身でありながら時折すごくストイックに修行に励んだり(それ自体は素晴らしいです👏)そのような在り方を他者に押しつけたり要求したりしてしまう方々も見受けられます。
その中でも仏教徒たるもの、ましてや実践者ならばアニメや漫画、音楽など諸々の消費を前提とした商業的文化的な物から離れなければならないという様な意見もあります。
わからんでもないです、ないのですがちょっとどうなんやろか?と私は思ってしまいます笑

アニメや漫画、アイドルや音楽、夜に溢れた消費文化に染まるのは仏教的にどうなの?というのは一件正しいようにみえます。
ですが、但し仏教だって仏教本を買ったりや坊さんや寺に布施するのもある意味消費文化だし推し比丘経済だといえます。
人間というはフィクションに生きる生き物です。
ですがフィクションは悪者ではなくむしろ人の本質だともいえます。

その上でフィクションから離れフィクションからノンフィクションに決定的に立ち位置が変わる体験をするには瞑想や修行が必要ではありますが、
「それはあくまでも切実に必要としてる人間の話」であり在家で生きる人にそれを求めるのは本当に猫に手を借りようとするくらい無茶な話だと私は思います。
人の本質から離れるのはある意味社会から孤立するという事であり、それは人間との決別でありある意味では断絶という極端な在り方にもなりかねます。
そんな事を普通の人(在家)に求めるのはかなりやばい事です。
だからこそ出家という制度があるんでしょう。
世俗では難しいから出家という生き方の中にブッダの伝えたかった本当の解脱に至る修行を実践する生活ができる。
世俗の流れと逆行する生き方も仏教サンガの中では許容され寧ろ推奨されるのは戒律を宗とし修行に励む比丘であるからで、これを在家でやれとなるとかなり厳しいでしょう笑

このことを日本の上座部仏教界隈は忘れがちではないかとおもいます。
ストイックな在り方が仏教の本質ではない在り方ではない、ましてや在家仏教徒はそうではないという事です。
仏教の修行は大変厳しいものですが、個人個人抱えてる問題や苦しみは違いますし一概に瞑想をして解決に至れるかはわかりません。
人によっては仏教的な在り方によってもっと深刻になるかもしれません。
ですからあまりにも極端な在り方ストイックさを在家の身でありながら自分や他者に課すのはよっぽどの切実な事情がない限りは辞めておいたほうがよいのだろうと思います。
仏教はあくまでも心のホスピタル(病院)です。
仏教で治療しまた社会に還ってくることが仏教の役割であり姿なのだとおもいます。

今年初めてのブログ、この辺にしときます笑

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ではまた

#仏教
#上座部仏教

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