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インドの道端で出会った熱きハート


(文5300字)


 タージマハールやカジュラホといった魅力溢れる建築物。ガンジス川流域の独特な風習。シタールに代表される古典音楽のエキゾチックな響き。そして魅惑のインド料理。数えきれないほどの魅力に溢れるインドは今年中国を抜き、人口世界一となった。混沌の大地インドと呼ばれる背景には、経済発展や文化的華やかさの影にある、激しい貧富の差、差別、健康問題などを抱え、日本とはまた異なった社会問題が根深く存在する国でもある。

若い頃、私はこのインドに長く滞在していた時期があった。このことは今までに何回か記事にしているが、初めて読まれる方のために、何をしていたかを少しだけ説明させて頂きたい。

インドに行く前の私は、仕事も人間関係も、何もかもが行き詰まり、八方塞がりだったところに、ダメ押しの追突事故をくらい鞭打ち症。万事休すだった。
自分自身を一から見つめ直そうと覚悟を決めた。
仕事を辞め、預金を全て引き出し、向かった先がインドのアシュラムと呼ばれる探求施設だった。

のべ2年間にわたり、様々なセラピーを受け、瞑想し、ヒーリングワークを学び、最後の半年間は、訪問者相手にボディワークの施術をした。後に日本に帰ってからはその施術を生業とすることになる。
この施設は宗教的な修行をするのではなく、純粋に人間を探求する場。その探求の手法は、インドのみならず、西洋やチベット、そして日本で生まれたものだった。

中心にあるのは「瞑想性」を深めること。
私が参加していたのは7つあるデパートメントの一つ、主にヒーリングやセラピーを探求する場。他には瞑想、絵画制作、音楽、武術、ダンス、チベット系の癒やし等々、様々なアプローチ方法があり、参加者は自由に選択できた。

当時アシュラムには、世界60か国から老若男女数千人が訪れていた。そのうち女性が7割。ほとんどが欧州からで、日本からも数十人が訪れていた。
各デパートメントの運営を任されていたリーダーは、すべて西洋人女性。
女性がリーダーシップを発揮することで、施設全体はとても柔らかなムードの場が形成されていた。

朝6時から夜9時まで続くプログラムは、砂上の楼閣が、ガタガタと崩れ去るような条件付けの解除ディプログラミングとなった。自分の中に抱えていた感情や思い込みを丸ごと吐き出すことで、やがてその先に見えてきたのは、内なる静寂だった。


こうしたアシュラムでのことは、今までいくつかの記事に書いたが、今回はその話の続きではなく、アシュラム近くの道端で出会った地元インド人の想い出に触れてみたい。
これらの出会いは、アシュラムとはまったく別の意味で、自分の現実を見せつけられ、目を見開かせてくれた。

ふとしたきっかけで道端で知り合った多くのインド人たち。
過酷な環境、困難な境遇、先行きの見えない現実。
その中で、日本では味わえないような、人の命の輝きを見るような思いがする出会いがあった。





道端の土産物売り

 当時、暮らしていたのは、アシュラムまで歩いて15分ほどの所にある、閑静な住宅街の4階建て賃貸アパートの一室。3DKのフラットを西洋人の女性とシェアしていた。

住宅街を抜けた沿道の一角には、カフェや雑貨店、食料品店、両替商などと共に、アシュラムに通う外国人目当ての、いろいろな「出店」が毎日ずらりと並んでいた。
衣料品、果物、チャイ、揚げ物、ココナッツ、花、クリスタル、土産物等々。それぞれ数軒ずつ連なっていた。ちょっとしたバザールのような賑わいだった。

顔馴染みになると、店によってはおまけしてくれたり、いいものを取っておいてくれたりもした。
その中に、買い物をするわけでもなく、他愛もないお喋りをするためだけに立ち寄るイスラム教徒ムスリムの店があった。店主は当時同世代の、彫りの深い顔立ちと、口元は笑っていても、目つきがやたら鋭い男。遠くカシミール地方から親友と共に出稼ぎにやってきたと言っていた。



カシミール地方は、インド北部とパキスタン北東部の国境付近の8000m級の山々がそびえ立つ山岳地帯。インド、パキスタン、中国の間で国境紛争が絶えず、またイスラム教系組織による分離独立運動が今も続いている政情不安定な地域だ。当時も国境紛争で戦闘が行われている真っ最中だった。

彼は道端に二畳ほどの薄いカーペットを敷き、その上にインドやチベットの土産物を所狭しと並べていた。
最初の頃、睨みつけるような鋭い眼つきがうっとおしかった。しかし実はとてもフレンドリーな若者だとすぐに分かった。道行く顔馴染みを見かけると、遠くからでもやたら大声で名前を叫ぶ。
「ハロー!元気にしてる?」と大袈裟な位に手を挙げて挨拶する。
ちょっとでも立ち止まるや否や、「まあまあ、ここに座っていけ」と言い、すかさず近所で店を開いているチャイ屋に指笛を吹き、出前のチャイを注文する。それはムスリム流の顧客をもてなす作法の一つだったようだ。

道端に座り、道行く人々や疾走するリキシャを眺め、チャイを飲む。故郷に残した奥さんや子供たちの家族写真を見せてもらう。カシミールの話を聞き、日本での暮らしを話す。互いに驚き合い、笑い合う。楽しく、また何とも不思議なひとときだった。



話す機会が増えていくうちに、彼とは店主と客という関係性というよりも、友人同士のような寛いだ関係になっていたような気がする。
インドでよく出会う物売り達が、巧妙な話術で商品を売りつけようと近づいてくる狡猾さが、彼にはまったく感じられなかった。
時には日本から持ってきて、不要になった物を転売目的で買い取ってくれたりもした。

ある日、日本製の白いカシミアセーターを買い取ってもらった。10年も前に都内のデパートで買った使い古しのものだった。12月だけは朝晩セーター、マフラーが必要な位に寒い。帰りには捨てようと思いながら、持ってきたものだ。

そのセーターを見た時、彼は初めて見る日本製の品質の良さに目を丸くした。
いつも大声で陽気なお喋りをし続ける彼が、その時だけは手に取ったセーターをじっと見つめ、しばらく黙り込んだ。
そしてぽつりと小さな声で囁いた。

「これは家に持ち帰り、俺のワイフに渡そう。」

視線の先には、年に一度だけの里帰りを心待ちにしている奥さんが、その白いセーターを着て、喜んでいる姿を思い浮かべていたに違いない。

いつもは決して心の隙を見せようとはせず、厳しい環境を生き抜いてきたカシミール人特有の鋭い眼力で、じっとこちらを見据えていたような彼の眼差しの光が、その時、大きく変わったのを見た。
子供のように純粋な、潤んだ瞳。
初めて彼のハートに触れたような一瞬だった。

***



道端のフルーツ屋

 ムスリムの店の近くに、地元のフルーツを売る一軒の出店があった。隣接するスラム街から、毎朝リヤカーを手で引いてやってくる、30代の女性が切り盛りしていた。小柄でとても控え目な人だった。毎日のように立ち寄った。リンゴやオレンジ、バナナなどを買い求め、持ち帰り、ベランダで外を眺めながら食べた。いつも品物が多めに入っていた。

彼女には小学校低学年の、とても可愛い年子の娘二人がいた。学校が終わると、いつも屋台の周辺で暗くなるまで仲良く遊ぶ姿を見かけた。遊び疲れると二人は屋台の下で、猫のように丸くなって眠り、そのまま揺られながら家路につくのだった。

この子たちとは、いつの間にか仲良しになった。遠くから私の姿を見つけると、名前を呼びながら駆け寄ってくる。そして二人を両腕に抱きかかえながら出店まで戻る、ということもあった。



ある日、母親とこの子たちに向かって、私はある申し出をした。
二人にサンダルを買ってあげたいと言った。いつも素足のまま学校に通い、素足で遊んでいた。靴を持っていなかったのだ。住宅街とはいえ、舗装はデコボコ、石がごろごろして、道行く牛たちが辺り構わず糞をしているような道だった。雨季になると、冠水して川のようになった。

貧しい家庭の子どもたちは皆素足だった。せめて、この可愛い二人にはサンダルを履かせてやりたい。母親も子供たちも、目を輝かせてその申し出を喜んでくれた。そのまますぐに彼らの住む隣のスラム街へ、子供たちと手をつないで一緒にでかけた。



スラム特有の細い路地の中にある小さなサンダル屋で、二人は可愛いピンクの花柄のサンダルを選んだ。足首のところでボタンを留めるお洒落なデザインだ。生まれて初めて履くサンダルにキラキラの笑顔がこぼれ、バレリーナのように踊りながら母親の屋台まで戻った。母親もそれを見て、嬉しそうに笑った。
親子3人が喜ぶ姿を見て、つくづく買ってよかったと思った。

ところが、それから3日ほど経った時、驚く光景に遭遇した。
二人の足からサンダルは消え、再び素足になっていた。
どうやらサンダルより素足の方が歩きやすかったようだ。
彼女たちにとって、サンダルは足枷あしかせにしかならなかったのだ。

再び素足ではしゃぎまわっている二人を見て、恰好ではなく、素足を選んだことがショックだった。



サンダルを買ったことが、思いやりだったのか、それとも余計なお世話だったのか、そんなことはどうでもよかった。
自分の他者への想いというものが薄っぺらに見えた。
物に溢れていることが当たり前の文明社会の価値観を尺度にして、外では靴を履くのが当たり前、裸足で歩くのは哀れな姿と決めつけ、貧しい人を無意識の内に憐れんで見ていたのだ。

過酷な環境に生き続けるインド人の底力の原点をそこに見た気がした。サンダルを履く前よりも、もっと楽しそうに、生き生きとして遊んでいるように見えた。
サンダルは役に立たなかったが、二人の逞しい姿を見ることができて、よかったと思った。


***




道端の笑顔

    アパートからアシュラムに向かう途中、いつも物乞いをしていた50代位の男がいた。彼は毎日、朝から夕方まで道端にたった一人で座っていた。

インドの街中では物乞いの人と頻繁に出会う。時にはしつこくお布施を要求しながら追いかけてくる者もいる。きっぱりと断り、追い払う強い言葉が必要なこともある。

しかし、この男は、ほかの物乞いの誰ともまったく違っていた。
道行く人に、とても人気があったのだ。

粗末な服と帽子と靴は、もう数十年間、一度も着替えたことがないと思えるほど、土色と一体化するまで汚れ、ボロボロに破けていた。
一見健康そうにも見えた。がしかし、すぐにハンセン病を患っていたために、両手ともすべて指がなく、布で手のひらをぐるぐる巻きにして肌をカバーしているということが分かった。

インドは世界一のハンセン病大国。新規患者数は毎年10万人を超え、世界の60%を占めるという。インドのハンセン病患者は「不可触民ふかしょくみん」というレッテルを貼られる。患者や回復者に対する差別的な法律や慣習も未だに根強く残っている。彼らに職が与えられることはない。物乞いだけが、生き残る為の唯一の手段だ。

当時、夜の繁華街には、多くのハンセン病患者がずらりと並ぶ一角があった。両足とも切断し、小さな木板の上に乗り、手のひらに巻き付けた木片で地面を押しながら移動する。目の前の小皿に入るお布施をひたすら待つ人々だった。暗闇の中で顔形が分からず、唯一眼だけがこちらを強烈に睨んでいた。



しかしアパート近くに座っていた男が人気だった理由、それは彼がいつも笑顔だったことだ。

人が近づくと、彼は手のひらを顔の前に掲げ、合掌する。
キラキラとした目を輝かせ、微笑みながら、こちらをじっと見つめる。
そして他の物乞いの人と違い、彼はお布施を乞う言葉を一切発しなかった。

道行く人は彼のその静かで純粋な笑顔に惹かれ、立ち止まり、お布施をしていく。
中には合掌しながら、その場を離れる西洋人の姿も見かけた。人が誰もいない時は、顔を上げ、ただ遠くを静かに眺めていた。

私は週に一、二度だけ、少額のお布施を渡した。せいぜい1ルピー硬貨(当時約3円)か、5ルピー紙幣(15円)だ。1ルピーでチャイ一杯、5ルピーはスラムの食堂での一食分だ。

手のひらの中身を見た時の彼の表情は、金額によって多少の違いはあったものの、いつも嬉しそうに、無邪気に微笑んだ。
今日はないよ、と素通りした時も、片手を上げてにっこり微笑む。
こちらも手を挙げて、また今度と言う。



ある時、数日間姿を見なかったので、いつも食事の世話をしている近所の女性に、彼はどうしたのかと尋ねた。すると、しばらくの間実家に帰っているとのこと。お布施が貯まり、持ち帰って手渡すためだったようだ。

その金額がどれほどのものだったのか知る由もない。
しかし唯一確かなことは、彼は一日中ただ静かに道端に座り、輝く笑顔一つで自分の人生を支え、家族を養っていた、ということだ。

やがて彼が実家から戻ってきた時、久しぶりに会えて、私は彼を見て笑った。彼も私を見て笑った。
日本に帰る直前、彼の所に出向いて行った。
これが最後になると言って、100ルピー紙幣を手渡した。

一言も声に出さずに合掌し、うっすらと目を滲ませ、彼は静かに微笑んだ。

この世に蔓延る不条理の中、「何があっても生き続ける」その姿は脳裏にしっかりと焼き付いて離れない。日本にはないものがあるからこそ、インドの人々から学ぶことは多い。彼らの中にある熱いハートは、インド4000年の歴史が育んだ崇高さから生まれたものではないかと思う。






1983年インド一人旅の時に撮った写真

オールドデリー
アグラ
オールドデリー
カジュラホ
バラナシ
アグラ







Prayer In Passing
Anoushka Shankar





ありがとうございます





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