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続 湖畔にて

 8月7日に投稿した「湖畔にて」は、主に1980年代初期にバリ島で過ごした数日間の想いを写真と微かな記憶を頼りに記事にした。
今回は同じ旅で撮った別の写真と、いくつか写真にまつわる補足的な文を投稿したい。これらの写真もフィルムカメラで撮ったもので、40年近く無造作に保管していたため劣化が酷く、かなり変色が進んでいる。また前回の記事で使った数枚のカットも説明を補うために再投稿している。

前回の記事はこちら。



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 ウヌン・ダヌ・ブラタン寺院。1634年にこの地を治めるメングイ王によって建立された。バリ島の中でもここは山間の辺境の地。当時はまだ観光客の姿は見かけなかった。静まり返った森の湖にメル(塔:世界の中心、神の住む所)が建ち上がる。ただそこに寺院が存在するというだけでバリヒンドゥの宇宙観を眺めているような摩訶不思議な光景となる。


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 ブラタン湖畔。神聖な湖であっても、地元住民の生活に密着しているところがバリらしい。島では子供たちが家事の手伝いや幼子の面倒をみる姿をあちらこちらで見かけた。


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 島内の移動は徒歩以外すべて宿にある125ccのレンタルバイクを使った。日中の強い日差しを避けるために所々こうした木陰で休める場所があるのが嬉しい。


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 農村部や高原地域に点在する民家は、大きさの大小に関わらず個性的なデザインと色合いが美しい。どこの家も庭を美しく整え、花や緑を飾り、毎朝の清掃と清めの祈りを欠かさない。


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 バリでは米の栽培は二毛作、三毛作。島を巡ると田植えと青い棚田と稲刈りの風景が同時期に見ることができる。祭りと同じように農作業もまた村人による共同作業。ここでは多くの村人による脱穀作業が行われていた。食料自給率100%を誇るバリ島ならではの、豊かな田園風景がどこまでも続く。


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 農作業もまた信仰と共にある。土地は神の所有物であり、人間にはその土地の上で働くこと収穫物を得ることが許されているという。


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 山間の道沿いに立つ巨木とその下にある風変わりな祠。そして巨木の日陰で暑さを凌ぐ祖母と孫。


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 タナロット寺院。バリ島中西部の海岸に建つバリ六大寺院の内の一つ。干潮時には陸続きとなり、歩いて渡ることができる。16世紀にジャワ島から訪れた高僧ダン・ヒャン・ニラルタが、「この地こそ神々が降臨するに相応しい所。海の守護神を祀る寺院を建てるように。」と住民に勧めたことが建立のきっかけとなったとのこと。


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 南部クタビーチの子供たち。辺りが暗くなるまで遊びに夢中だ。今ではリゾートホテルが立ち並び、浜にはビーチパラソルが連なっているが、この頃はまだ旅行者の姿はほとんど見かけず、広大な浜辺で憩うのは地元の人ばかりだった。


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 島の北部を走っている最中、本線を外れ海沿いの路地に迷い込んでしまう。辺りを見回すと、この付近一帯が独特なデザインと色使いで統一されていることに気づいた。子供たちは石けりのような遊びをしていた。


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 海の守護神への祈祷。この海辺の村には神社はなく、海岸の草むらにござを一枚広げただけの所で執り行われていた。祈りの先には大海原が広がる。儀式を執り行うリーダーは村の長老。神官や宮司のような存在はいない。村人総出で祭りを創りあげる。若者たちは老人たちや年配者のサポートに徹する。それ故に伝統が途切れるということはなく、祈りのエッセンスが途絶えることもない。儀式の最中に広がる人々の静寂と波の音のハーモニーが美しい。祭りの後の人々は、祈りの場を共有した何かしらの一体感のようなものに満たされている様子だった。


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 島民の誰もが何かしらの芸術を探求すると言われるほど、多彩な作品が島全体に溢れる。ウブドという村には芸術家村という一角があり、そこでは多くのアーティストが集まり絵画や木彫、石像などの作品造りが盛んだ。デンパサールの中心街近くには国立芸術大学がある。敷地内に一歩踏み入れるとどこからともなく天上の調べのようなガムランの笛の音が、そよ風のように流れてきた。


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 バリ島中央部の山間で葬儀の一団に出会う。賑やかなガムランが谷間に鳴り響き、色とりどりの正装を着た村人たちが、谷間に埋葬された先祖の墓の周囲を激しく回る棺を見守っている。楽団員にしろ参列者にしろ皆、陽気に儀式を楽しんでいるようにすら見える。バリの人々にとって死とは魂にとっての新たな旅立ちの時であり、儀式は魂の旅立ちを祝福する時となる。


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 中心街デンパサールの路地裏を歩いていると、住宅街にこぢんまりとした幼稚園があった。窓の外から中の様子を伺っていると、教室にいた先生がどうぞ中へ入ってと言う。可愛い制服を着た、大きなクリクリとした瞳の園児たちは、こちらのことが気になって授業どころではなくなってしまった。



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 ブサキ寺院。聖なる山アグン山の広大な南斜面に大小30社の社寺がずらりと並び、荘厳な景観が広がる。それぞれの寺院に祭りがある。1年に1度、全ての寺院が協力するバリ島で一番大きな規模の儀式が行われる。
写真に写る階段の最上部には垂直に切り落とされた一対の門柱が立っている。バリでは至る所に同じ形の門柱を見る。この門をくぐることによって人の邪悪な心が浄化され清められるという説と、邪悪な心を持つ者がこの門を通ろうとすると、この門柱が閉じてしまうという説がある。


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 クタビーチの夕暮れ。地元の漁師が獲ってきたばかりの魚を浜辺に投げ落とす。村の女性たちがそれを受け取りに籠を持って集まってきた。


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 バリ島北部にあるバトゥール湖畔を、バリ島最古の部族が住むトルニャン村を目指して歩く。平地がほとんどないために住民の移動はすべて小舟を使う。歩いていく場合は車道の終点クディサンから、この湖岸沿いのわずかな道なき一本の線を辿っていくことになる。所々に点在する小さな民家の庭先を通り抜け、またジャングルの険しい山道を歩く。
地元住民が食用にするための猿を捕獲しようとしている現場に出くわしたり、岸辺で自然と共に在る生活を営む人々と出会ったりしながら、ひたすら歩くこと2時間。やがて他の地域とは明らかに顔も体つきも違う屈強そうな男たちが住む陸の孤島トルニャンに辿り着く。
40年近く経った現在ではジャングルの中を舗装道路がトルニャンまで続き、その道をバイクが走り抜けていく若者の姿をストリートビューで見ることとなる。またこの写真に写っている民家はすべて消え、大規模ハウス農場へと変貌している。また湖岸の温泉地トヤブンカでは当時地元の子供たちが自由に遊んでいたが、それも観光客向けの施設へと様変わりしている。


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 湖岸ぎりぎりの一本の線上を歩き続ける。はるか遠くの崖下にトルニャンの部落がかすかに見える。


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 バトゥール湖にそびえるバトゥール山は日本の富士山やハワイのキラウエア山などと並んで「地球に13あるチャクラのうちの1つ」と言われるそうだ。そして女神が住むと言われるバトゥール湖は、バリ島文化の象徴的存在として、2012年にバリ島初の世界遺産に登録された。


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 バトゥール湖岸東側の急峻な断崖の間にできたわずかな平地に、巨木が数本立っている。ここはバリ島最古の部族トルニャンの墓地。村からは船でしか渡れず、村人の小船で案内してもらう。他の地域では土葬や火葬が主流だが、この部族だけは世界でも珍しい風葬だ。日本でも明治時代までは風葬が残っていた地域があったようだ。桟橋に上がるとすぐ墓地の入り口があり、しゃれこうべが皿の上で墓守をしていた。薄暗い参道を進むとそこに細い竹を立てた囲いが数か所設けられ、中にいくつもの亡骸が服を着たまま重なって横たわっていた。死者は時の経過に身を委ね、静かにゆっくりと地面に溶け落ちていくのを待つことになる。
「地面に浸み込んだ死者のエキスは、この巨木を育てる栄養となって、巨木は先祖の化身となるんだね」と村人に言うと、ニコニコ笑って頷いた。


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 バリ島では、生と死に関する示唆に富んだ思想が人々の中に浸透し息づいていた。また以前は白魔術と黒魔術の呪術師同士の戦いが闇の世界で繰り広げられるという奇怪な霊性を背後に忍ばせてもいた。
40年近く経った今では世界中の人々の暮らしが変わってしまった。それはバリにおいても例外ではない。これら40年前の写真はバリのほんのわずかな表面的な断片しか捉えていないが、しかしながら今日においても尚、バリの人々が同じような独自の宗教文化伝統を生活ベースで守り続けている様子がネットからは伝わってくる。

 バリヒンドゥ教の教えによれば、人間は本質的に神自身であるという。バリ全土で執り行われている宗教的儀礼はその中心的思想を体現するための技法である。それは他宗教のような神と人間とを切り離し、神を崇める対象とすることとは対照的だ。神と人との関係性や人間の霊性について、人々が日々暮らしの中にある神聖さを拠り所として真摯に向き合い続けている姿というものは、世界を見渡してみても少数派を除いて今ではバリ島でしか見ることはできないものではないか。
このことは逆説的に、人間は神であるという信念を持っている人たちが集まった時にはどういう社会が出来上がるか、ということを見せてくれる生き証人であるとも言える。混迷を深める世界の中で、バリは依然として精神的支柱を見失わず、健康的な地域社会を存続させている稀有な島だと思う。


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 最後になったが参考までに、バリでの儀礼について解説した河野亮仙・中村潔両氏による論文の一部と、ガムランの動画を引用させて頂く。

 このような儀礼は8世紀頃を中心に成立したヒンドゥ教(シヴァ教)のアーガマと呼ばれる文献に規定されているものである。イニシエイション(ディークシャ)を受けた行者が毎日行うべきシヴァの崇拝の儀礼であるが、その本質はむしろ自分自身シヴァになることにある。
そのことは「シヴァとなってシヴァを供養すべし」と明確に述べられており、シヴァを崇拝する部分よりも、その前に行われる自己浄化の部分の方が大きな位置を占めている。
これは、人間は本質的にシヴァと同じものでありながらそのことを忘れているために輪廻や苦しみの生存があるのであり、自己の本質がシヴァと同一であるということを再認識すれば死後に(すぐれた人は生前でも可能だが)シヴァと一体となって解脱に到ることが出来るという教理によって、毎日シヴァとの同一性を実感出来るようにシヴァの供養を行うということである。
シヴァとの同一性の意識を持つために、マントラの力の「炎」で汚れた身体をまず焼きつくし、念を込めた指先でマントラの力を身体に「入魂」し、存在の階梯を積み重ねた玉座の上に神を呼び下ろして一体化する技法が入念に行われなければならない。

 儀礼のこうした本質は現在のシヴァ教のプダンダによっても明確に意識されている。我々の観察したシヴァ教のプダンダの場合、例えば冠をかぶるのも、自分がシヴァとなったということをはっきりと意識するためだと答えてくれた。これは二つの意味で非常に驚くべきことである。
一つには、本家であるインドにおいても、こうした教義を維持している人々はごく少数であって、シヴァ教の儀礼が広く行われている南インドにおいては、自己とシヴァの同一性など実際の意識に登ることはなく、ひたすら偉大なる神を讃え奉仕することが中心となってしまい、シヴァのリンガに対して食事等の供物を捧げることのみに重点がおかれているからである。
リンガに対する供養は、バリ島では文献にはあっても実際には行われていない。この点のみを見ると、一見バリ島のヒンドゥー教においてシヴァへの信仰が弱まっているように見えるかも知れないが、シヴァ教の本来的立場からは外的な目に見える供養は二次的なものでる。最も重要なのは、先に述べたような形で自己の内部において自己をシヴァとして供養することなのである。

『神々の島バリ --- バリ=ヒンドゥーの儀礼と芸能』河野亮仙・中村潔編(春秋社 1994)



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