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分類その19「叙述トリック」

叙述トリックは、作者が直接的に物語の偽装に関わる、物議の多い手法である。
実際、クリスティが「アクロイド殺し」を発表した際、フェアかアンフェアかは喧々諤々の議論となった。

ノックスの十戒その1(犯人は、物語の当初に登場していなければならない。ただしその心の動きが読者に読みとれている人物であってはならない)にも、ヴァン・ダインの二十則その2(犯人や探偵自身にたいして当然用いるもの以外のぺてん、あるいはごまかしを、故意に読者にたいしてもてあそんではならない)にも違反している。
しかし私は、真に作者と読者が戦い合う知的ゲームとして、これほどフェアな戦いはないとさえ思うのだ。
話が上手な人というのは、相手を自分の論理に巧みに誘導し、その枠組の中でしか考えさせようとしない。手品師や占い師、セールスマン、ネットワーク・ビジネスの講師などがそうだ。
文学や小説というもの自体、須くその世界に没入する精神的活動である。私小説などは尚の事だ。叙述トリックの多くが一人称小説として書かれている事でもわかるように、「私」という存在が既に、欺瞞に満ちた隠蔽の構造に加担しているのだ。
ウクライナを支援する人はロシアを「悪」として疑わないし、近所の主婦が噂にする不審人物は、実はまるでその実態に迫ってはいない。全ては「一つのバイアスのかかった視点」に過ぎないのである。
作者はその文才の限りを尽くして、読者をハメようと努力する。あらゆる固定観念や先入観、あるある、伏線、フラグ、思い込み、錯覚、ミスリードなどなど、老練な読者であればあるほど、その罠にハマりやすい。何故なら、読書という経験は、他人の論理を受け入れるという姿勢から始まるからだ。

「アクロイド殺し」という古典的名作が存在するおかげで、現代に生きる私達には、一つだけ除外して良い可能性がある。
あまりにもシンプルかつストレートな手法だけは、今となっては、ある意味禁じ手と同等に扱われていると言って良い。
実はこれも、創始者ポオがクリスティに先んじて「お前が犯人だ(Thou Art the Man)175p−196p」という短編で、既に行っていたりする。
究極の方法が最初に使われてしまった為、後の推理作家は、一人称と神視点を組み合わせたり、複数の一人称を総合的に判断して推理させるなど、より複雑な構造を持った作品を排出せざる得なくなった。夢オチとか、仮想現実とか、入れ子式の劇中劇とか、様々な手法が試されて来ている。

このジャンルが持つ最大の弱点が、映像化だと言える。それでも実写映画作品やドラマ作品になっているものも沢山あり、工夫しているなあ、と関心するものもある。

しかしながら、このジャンルはどんどんミステリから乖離して往く運命にあると言っても過言ではない。
それは単に「意外な結末」が用意されているだけでは、読者の知的好奇心や探究心を満足させられないからだと、私は分析している。

初めに「これは叙述トリックによる小説です」と断って始まる作品はない。論評などが先んじて発表されているなどは、それはもうネタバレに相当しうる罪深い行為だ。
一度原点に還り、この叙述トリックというジャンルを、より高位な小説技法に昇華させるような作品を、私達は待ち焦がれているのかも知れない。


2023.3.9

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