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『阿蘇神社展』の感想 〜南北朝時代の文書と蛍丸を中心に〜

こんにちは。今回は熊本市内の肥後の里山ギャラリーで開催中の『楼門修復記念 阿蘇神社展』のレポートです。楼門修復記念ということで、今回の展示は熊本地震で倒壊し、去年の12月に修復が完了した楼門についての展示物が多かったのですが、その他にも阿蘇神社や阿蘇家所蔵の古文書類、それから阿蘇神社に奉納された刀剣類が多数展示されていました。

本記事ではその中で個人的に印象に残った南北朝時代の3点について所感を書き留めたいと思います。本当は南北朝シリーズ阿蘇氏編を書き終えてからUPしたかったのですが(その方が背景がわかりやすいので)、近くの方で記事を読んでGW中に阿蘇神社展に行ってみようと思われる方もいらっしゃるかもしれないと思い、本日UPしました。
いつも記事を読んでいただいている方にとってはフライング気味で何言ってるか分からない独りよがりの記事になっているかもしれませんが、ご興味があればお付き合い頂ければ幸いです。以下No.は出品リストのNo.になります。(3300字)

阿蘇神社展の開催期間は2024年5月11まで

No.6 足利尊氏軍勢催促状(髻文)

こちらは元弘3年(1333)4月29日、足利尊氏から前大宮司•阿蘇惟時に宛てた軍勢催促状です。「伯耆国より勅命(後醍醐天皇からの挙兵命令)を頂いたので(京に)参じました。合力頂ければ本意です。」といった内容で、最後に尊氏の花押があります。

Rose注釈)足利尊氏は1333年当時は後醍醐天皇方として鎌倉幕府を滅亡に追い込みましたが、その2年後の1335年、北条時行が起こした中先代の乱を契機に後醍醐天皇に叛旗を翻し、光明天皇を擁立(北朝)しました。一方、後醍醐天皇は吉野に移り(南朝)、南北2人の天皇が並立する南北朝時代となります。

この催促状はわずか7×6.7cmの絹布に書かれたもので、髻(もとどり)に隠して持参した密書という意味で「髻文」と呼ばれていますが、本展の解説書きによると、実際は服に縫い付けて運ばれたとのことです。私はこの催促状は文献中の挿入写真では見たことがあったのですが、今回実物を見ることができて感動しました。実物を見た最初の感想は、小さい!ということです。密書が見つからないように苦慮したんだろうな、ということが伝わってきました。そして次に印象的だったのは筆跡です。足利尊氏の字は上手くないとよく言われるようですが、この催促状の文字もひとつひとつの文字がふにゃっと踊っているような、個性的で味わい深い文字でした。写真撮影禁止だったので画像でお見せ出来ないのが残念です。肥後の里山ギャラリーのFacebookで写真画像を見ることが出来ますのでご興味のある方は検索してみて下さい。

因みに『中世の阿蘇社と阿蘇氏』によると、この催促状が書かれた元弘3年(1333)4月29日という日は、足利尊氏が京都の神社に願文を捧げて鎌倉幕府への叛意を正式に表明した日にあたるそうです。そして同種の催促状は全国に数通現存しているとのこと。並々ならぬ決意を持って、小さな布切れに1字1字丁寧に筆を走らせる尊氏さんの姿が目に浮かぶようです。

No.7 足利尊氏御教書

展示されていた実物は撮影不可だったので
画像はパンフレットから拝借しています。

こちらの文字は達筆だな、と思ったら足利尊氏の直筆ではありませんでした。この御教書の奉者•武蔵権守(花押)とは、足利尊氏の執事であった高師直です。文書の内容を説明する前に、背景を説明させてください。No.6髻文の注釈の通り、建武2年(1335)後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏と直義兄弟は、翌建武3年(1336)北畠顕家軍に敗れて九州に落ち延び、後醍醐天皇方の菊池氏、阿蘇氏の軍勢と多々良浜(現福岡市東区)で一戦を交えます。(多々良浜の戦い)結果は足利軍が勝利し、深手をおった若き阿蘇大宮司•惟直は天山(佐賀県)で自害して亡くなってしまいました。

この御教書は多々良浜の戦いから1ヶ月後に、架空の阿蘇大宮司「阿蘇大宮司太郎入道」に宛てて出されたもので、内容は、死去した阿蘇惟直の後継者になる大宮司候補を一族の中から選んで報告するように、というものです。この嫌味というか意地悪さ、分かりますでしょうか?自分では上手く説明出来ないので、『中世の阿蘇社と阿蘇氏』から解説を引用させていただきます。↓

この御教書は、前大宮司惟時やその親戚がいることを承知しながら、惟時に後継大宮司の指名権を認めないという方針を明示したのだった。つまり、尊氏は阿蘇氏の分断をはかったのだ。
 この御教書からわずか2日後の4月5日、阿蘇孫熊丸を大宮司に補任するという、尊氏の袖判を据えた将軍家下文写がだされた。

柳田快明『中世の阿蘇社と阿蘇氏』p.77

つまり足利尊氏は架空の人物宛に御教書を出すことで、依然力を持っていた前大宮司•阿蘇惟時に対して、南朝についた貴方には後継の大宮司を指名させないよ、後継はこっちで選ぶから宜しく!的なことを伝えてきたわけです。阿蘇氏はこれから先、紆余曲折を経て南朝方•北朝方に分かれて内部分裂の道を辿る事になりますが、ここらへんの話は後日、南北朝阿蘇氏編の記事でもう少し詳しく描き出せればと考えております。(複雑で難しいのですが。。)

No.18  大太刀 頼国俊蛍丸(復元刀)

蛍丸復元刀は唯一写真撮影OKでした。

「蛍丸」は鎌倉時代の名工•来国俊の作で阿蘇大宮司家に家宝として伝わる大太刀です。(旧国宝)蛍丸の名前の由来は南北朝時代、多々良浜の戦いで足利尊氏と戦った阿蘇一族の恵良惟澄(のちに大宮司となる)が、激戦で刃こぼれした大太刀に蛍が群がって修復する夢をみて、目が覚めると本当に刃こぼれが直っていたという伝説によります。蛍丸の原物は太平洋戦争後のGHQによる刀剣接収後、行方不明となったままです。展示されている復元刀は2015年に現代の刀鍛冶がクラウドファウンディングで資金を調達して復元し、2017年に阿蘇神社に奉納したものです。この数奇な運命をたどった蛍丸については、今後の南北朝阿蘇氏編の記事で詳しく取り上げたいと思っています。

あとがき

本展覧会は、開催日が阿蘇散策シリーズの投稿期間と重なっていて、個人的にタイムリー過ぎてまるで導かれているように感じました✨(実際は展覧会タイトルの通り、楼門が復旧したのを記念してこの期間に開催された訳ですが。)本展覧会では南北朝時代以外の展示物もたくさんありましたが、個人的な興味から南北朝時代の書状と蛍丸を取り上げました。その他、阿蘇大宮司宛の後醍醐天皇綸旨や、蛍丸の所持者とされる恵良(阿蘇)惟澄の南朝に宛てた軍忠状にも心惹かれました。

阿蘇家文書は九州における南北朝時代の貴重な史料となっており、関連書籍には必ずと言っていいほど引用されています。当時肥後守護だった菊池家は後年断絶してしまったことから家相伝の文書が残ってないので、阿蘇家文書から菊池氏の動向がわかるという意味でも貴重なものです。そんな古文書の実物を、数点ですが今回見ることができてとても貴重でしたし、当時の武将達の直筆の書状をこの目で見て心が震えました。戦乱や一族の対立などの混乱をかい潜り、よくぞ貴重な文書類が残ってくれたと感嘆の念に堪えません。ひとえに歴代大宮司さん方の尽力によるものでしょう✨

阿蘇神社は肥後一の宮として県内では知らない人はいない有名な神社ですが、その昔、阿蘇大宮司家が後醍醐天皇や足利尊氏と少なからずやり取りがあり、重要視されていたことは熊本の人も知らない人が多いと思います。『阿蘇神社展』は熊本市中央区の肥後銀行本店ビル1F  肥後の里山ギャラリーにて2024年5月11まで開催中ですので、お近くの方は是非行ってみられてください。

最後に、南北朝動乱の時代は阿蘇社だけでなく、各地の大宮司家も南北どちらかに属していたと思われます。(九州では阿蘇大宮司以外にも、宗像大宮司や武雄大宮司が北朝方としてよく史料に登場する印象です。)皆様の地域の一の宮大宮司が南北朝時代どちらについたのか調べてみるのも面白いのではないでしょうか?

【参考文献】
•柳田快明『中世の阿蘇社と阿蘇氏』ー謎多き大宮司一族 戎光祥出版 2019年

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