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九州南北朝の史跡巡りシリーズ🌹宇土編 前編 (宇土市歴史さんぽ④) 【中世宇土城】

こんにちは。今回は熊本県宇土市散策の4回目です。宇土市には二つの城があります。中世宇土氏&戦国名和氏の居城・中世宇土城と、秀吉の九州平定後に宇土領主となった小西行長の本城・近世宇土城です。今回は九州南北朝の史跡巡りシリーズ(久しぶり!)前編と称して、中世宇土城跡をご紹介します。

今回の散策地はここ!

今回はまえおきとして最初に南北朝時代の宇土について説明しておきたいと思います。最初の宇土城主である宇土氏は、宇土庄の庄官として宇土を治めていた一族で、早くに菊池氏から分かれた一族と伝えられています。それゆえか、南北朝時代の当主・宇土高俊(うとたかとし。のち改名して道光)は、鎌倉幕府倒壊後はほぼ南朝方の立場を全うしました。宇土高俊は1348年1月2日、薩摩から肥後入りした征西将軍宮・懐良親王一行を宇土津に迎えています。(多分、菊池武光さんも一緒に宮さまを出迎えたことでしょう💓当時武光さん20代半ば、宮さま19歳。嗚呼初々しき出会いかな✨)そして宇土は、太宰府→菊池征西府陥落後は、後征西将軍宮・良成親王と菊池武朝が宇土氏を頼って一時征西府を移した地です。前後征西将軍宮・懐良親王と良成親王及び菊池武光、武朝については、菊池散策記事【予告編】の人物紹介にて詳述しておりますのでまだの方は是非ご一読下さい↓

散策地と散策ルート紹介

最初の画像では、中世宇土城と近隣史跡の位置関係を示しています。2番目の画像は、現地案内板の中世宇土城の縄張図上に今回の散策ルートを赤線で示したものです。

赤丸が中世宇土城。画面右手には目と花の先に小西行長の近世宇土城がある。1回目で紹介した轟水源は画面左端。

上の「現在地」表示の場所にある駐車場に車を停めて、主郭「千畳敷(せんじょうじき)」→次に大きい曲輪「三城(さんのじょう)」→「大手」と伝承される区画手前から左折して「西岡神宮」でフィニッシュです。それでは早速、行ってみましょう🏃‍♀️

中世宇土城跡

中世宇土城は国指定史跡のこともあり、綺麗に整備されています。トイレのある駐車場のすぐ裏手が、主郭である千畳敷への登城口となっております↓ 早速案内板を見つけましたので、読んで事前勉強しましょう✏️少し長文になりますが、例の如く引用します。

      国指定史跡 宇土城跡
位置と歴史
中世宇土城跡は、通称「西岡台」と呼ばれる標高約39mの小高い丘陵上にあります。西岡台の東約500mには、キリシタン大名・小西行長公が16世紀末に築城した近世宇土城跡(城山)があるため、西岡台の宇土城跡を「中世宇土城跡」や「宇土城跡(西岡台)」、「宇土古城」などと呼んで区別しています。
 中世宇土城南側に位置する西岡神宮の古い記録によれば、平安時代の永承3(1048)年に宇土城が造られて以降、菊池氏の一族が代々城主であったとされています。室町時代には宇土氏と名和氏が城主となりました。
 宇土氏は宇土庄の庄官の地位にあり、菊池氏の一族と伝えられる武家領主です。古くから宇土に勢力を置いていましたが、文亀3(1503)年に守護職・菊池氏との争いに敗れて滅びました。
 一方、名和氏は室町時代の初め頃から八代市付近に勢力をおき、古麓城を本拠としていましたが、文亀4(1504)年、相良氏と菊池氏に攻められ、八代を出て宇土へ移り、宇土氏滅亡後の宇土城に入城しました。以来、80年余り名和氏は宇土城主になりましたが、名和氏が宇土を拠点としてからも、相良氏とは豊福城(宇城市松橋町)をめぐって何度も争いました。
 相良家の古文書『八代日記』によれば、宇土城は天文7(1538)年と同11(1542)年の2度にわたって火災が発生したことが記録されています。また、天正3(1575)年に薩摩の島津家久公が京都への旅の途中、松橋から道を北へと進んでいる時、左の方角に「宇土殿の城見え侍り」(宇土殿〔名和氏〕の城が見える)と言ったことが『家久君上京記』に記されています。城を使わなくなった時期は行長公が近世宇土城の築城を開始した16世紀末頃と考えられています。
縄張り -城の構造-
戦国時代を中心に日本列島に数多く作られた中世城は、自然地形をできる限り活かし、重要な場所や守りが弱い場所に堀や土塁などを作って敵の侵入を防いでいました。熊本城のように石垣を備える近世城は「石造の城」と呼ばれるのに対し、中世城は「土造りの城」と呼ばれる理由となっています。また、「曲輪」と呼ばれる堀や柵で防御された広場には、天守閣のような立派な建物はなく、瓦さえも使わない掘立柱建物が建てられるのが普通で、中世宇土城も例外ではありませんでした。
 西岡台の頂上部には東西に並ぶ2つの曲輪があります。東側の曲輪は「千畳敷」と呼ばれており、人工的に削り出した切岸という崖や堀を配置し、敵の侵入を防ぐ工夫をしています。同じく西側は「三城」と呼ばれ、堀は確認されていませんが、切岸で守りを固めています。また三城の西側には幅約10m、深さ約7mの巨大な堀と、その西側に平行して土塁が築かれています。
 西岡台の南側斜面は、幅広い平坦地が連続しており、「オオテ」(大手)と伝えられる地点や麓には中世以来の古道「三角道」があります。この周辺に領主(殿様)や家臣が生活していたと考えられます。
発掘調査から分かったこと
中世宇土城跡は、昭和49年度から平成23年度まで計24回に及ぶ発掘調査が行われ、多くの成果が得られています。
 千畳敷の調査では、掘立柱建物跡•柵列跡•門跡•井戸跡•横堀跡•竪堀跡が見つかりました。なかでも、千畳敷を囲む堀が未完成であり、小間割と呼ばれる掘削単位が残されていたことや、曲輪の出入り口である虎口付近で、城の生命を断ち切る儀礼行為「城破り(しろわり)」を確認するなど重要な成果が得られています。三城の調査でも、掘立柱建物跡、門跡、道跡、溝跡などが見つかっています。
 建物の柱穴や、堀に堆積した土の中から、土師質土器や摺鉢•火鉢などの瓦質土器、備前焼や瀬戸焼、中国で焼かれた白磁•青磁•染付などの13〜16世紀を中心とする陶磁器が出土しました。これらの出土品から中世宇土城における人々の生活の様子を思い浮かべることができます。また、中国製だけでなく、朝鮮半島製やタイ製陶磁器の出土は、東南アジア規模で行われた当時の交易を物語ります。その他の遺物として、鉄砲玉や鉛などの金属を溶かす容器の坩堝などが出土しています。
 なお、古墳時代前期には(4世紀)には、千畳敷に「首長居館」と呼ばれる豪族の住まいがありました。周辺を断面「Vの字形」をした大きな壕で防御しており、敷地の広さは東西約80m、南北約93mと九州の首長居館でも最大規模を誇ります。首長居館の壕からは、生活に使った土師器の壺•甕•高杯などが出土しています。 
 また.居館が使われなくなった5世紀には古墳が作られ、埴輪や副葬品と見られる鏡が出土しました。首長居館の建物跡や古墳は、中世の城造りで大規模に土地が削られたために無くなったと考えられています。西岡台の西の端には西岡台貝塚(縄文時代)があり、発掘調査でドングリを貯蔵した穴が5基見つかっています。

別の案内板から拝借した航空写真。画面下の住宅が集まっている箇所が城主や家臣団の居館があったと伝わるオオテ

因みに、現在復元されている建造物は、最後の城主•名和氏時代のものになります。城は城主を変えて再利用されるので、建造物等は上書きされますもんね。でも、南北朝時代の城主•宇土高俊さんの逆修碑文「天平5年(1350)19日壱岐守高俊為逆修建立」が書かれた五輪塔も中世宇土城跡からしっかり出土しているそうですよ💡前置きが長くなりましたが、城跡散策スタートです🏃‍♀️

復元された土塁と柵列が威圧感ある虎口
の前の堀に、何やら石造物と案内板が見えますよ。
下記に引用します。

    堀に投げ込まれた大量の石塔
千畳敷の出入口(虎口)付近の発掘調査で、五輪塔や宝篋印塔などの石塔(墓石)が内堀跡から大量に出土しました。出土状況から意図的に投げ込まれたものと推定され、石塔の投棄による「城破り」(城の生命を断ち切る儀礼や儀式)を具体的に示す貴重な事例として注目されています。
 城破りに関係する石塔の投げ込みは九州で初めての発見で、全国的にも数例しか確認されていません。出土した石塔の大半は、保護するために埋め戻しましたが、一部は風化しないように石材強化処理を施して野外展示しました。

「城破り」(しろわり)って初めて知りましたが、廃城にするためにこんな儀式をしていたんですね。その背景には、歴代城主や一族の霊が城を守っているという考え方があったのかなと想像しました。

それでは早速、主郭•千畳敷に入ります。
千畳敷に入ると、早速復元された掘立柱建物がお出迎え

千畳敷は標高約38m、規模は東西約50m、南北約60m。取り囲む大規模な横堀跡や竪堀跡から三城より防御性に優れていることから宇土城の「主郭」(中核となる曲輪)と考えられています。千畳敷周辺では数多くの掘立柱建物跡が見つかっており、16世紀後半頃(戦国名和氏)の建物跡の一部が復元されています。

千畳敷の南側にも建物跡(柱跡)が復元されている。

それでは次に、千畳敷の西側にある曲輪、三城に向かいます👟

三城に向かう途中、屋根付き展示物と案内板発見!
出土した石塔を集めたもの?
ピンク色は強くないけど、馬門石っぽい質感。
発掘された五輪塔や宝篋印塔の一部みたいですね。
阿蘇溶結凝灰岩ということはやはり馬門石かな?
そしてこちらの小高い曲輪が三城(さんのじょう)です。

三城は標高約39mに位置する曲輪で、規模は東西約65m、南北約35mです。周りには連続する切岸を配置して防御性を高めています。三城周辺では、数多くの掘立柱建物跡とともに、導水状遺構などが発見されています。

復元された掘立柱跡と案内板。
掘立柱建物群の西側に位置する導水状遺構と水溜め状遺構(画面中央の丸い窪み)。それぞれ、流れ込んだ雨水を排水するための施設と、雨水を溜めるための施設と考えられているそう。
南側の一段低くなった曲輪。ここにも建物があったらしい

それでは三城を降りて、領主や家臣の館があったという伝•大手手前から左折して、最後の目的地•西岡神宮に向かいます。

道の先の住宅が建ち並ぶ区画が伝•大手。
十字路を左折して神社に向かいます。
西岡神宮前の通り。石垣が趣がある。

西岡神宮

中世宇土城の南東に位置する西岡神宮の創建は和銅6年(713)。御神祭は春日大神•八幡大神•住吉大神で、代々の宇土城主が崇拝し、現在も三宮さんの名で親しまれているそうです。市史によると、西岡神宮は本来の荘園鎮守から、宇土氏や名和氏が知行した宇土領の鎮守へと性格を転化したとのこと。中世山城にはだいたい小さな無人の神社が併設されていることが多いイメージですが、こちらの神社さんはとても立派でビックリしました。それでは境内を見学しましょう!

立派な神門
拝殿。細川九曜紋と鶴丸紋⁈ 鶴丸紋の由来はなんなのか気になったがわからずじまい(宮司さんに聞けばよかった。。)
社殿を横から見た図。ピンク色の馬門石の玉垣が綺麗❣️
駐車場に戻って駐車場から宇土の市街地を望んだ図。
画面右手前の小高い丘が小西行長築城の近世宇土城。

あとがき

中世宇土城跡にはあまり南北朝時代の城主•宇土高俊(道光)の痕跡が残っていないことは残念でした。また、宇土城主一族の五輪塔は「城破り」によって、綺麗な形で残っていないのは残念に思います。菊池氏や相良氏の本拠地には古い五輪塔(墓石)が綺麗に残っているものが多いので、本拠地を守り切るというのは、先祖の墓を守るという意味でも大事なのかもしれないと感じました。思えば最後の宇土城主である名和氏は、南北朝時代に遠く伯耆国(鳥取県)から肥後八代にやってきて、戦国時代に相良氏に八代を追われて宇土に移り、最後は秀吉の命で小早川氏の家臣となって宇土を出ることになり、気の毒な流転の一族のように感じました。また、西岡神宮の歴史資料館には、文亀3(1503)年に守護職・菊池氏との争いに敗れて滅んだ当時の当主•宇土為光の子息と思われる菊池重光によって寄進された宝剣が展示されていました。(重光も父為光と共に敗死し、宇土氏は滅亡)総じて中世宇土城は歴代城主一族(宇土氏•名和氏)の悲しい歴史が垣間見れる山城だと感じました。

次回は、南北朝宇土編後半と称して、征西将軍宮ゆかりの神社をご紹介する短め?の記事を投稿予定です。その後、小西行長の近世宇土城の記事を投稿したいと考えています。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献】
•  阿蘇品保夫『菊池一族』新人物往来社 1990年
•『新宇土市史』通史編第二巻 中世•近世 2007年
•  西岡神宮パンフレット
•  西岡神宮ホームページ




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