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酔芙蓉と横井小楠と (徒然日記)

こんにちは。今回はタイトルに関して徒然なるままに書いた日記記事になります。たいして面白味の無い記事に仕上がっていますが、お時間あればお付き合い下さい。(3000字)

今日は月一の歯科通院日でした。予約が夕方からだったので、昼に近くの行きつけの美容院に寄ってから歯科に行くことにしました。小泉八雲旧居横にある蓮政寺公園を通って美容院に向かいます。

蓮政寺公園は、熊本市中心部の中央区安政町にあります。鳩と買い物客と市民がくつろぐ繁華街の中のオアシスです(奥の日本家屋が小泉八雲旧居)
というよりタバコ休憩している近隣のサラリーマンが多くて若干アンニュイな雰囲気。(ゴミは持ち帰りましょう)

この公園には酔芙蓉(すいふよう)の木が何本か植えられています。私は酔芙蓉の花が大好きなので、毎年この時期にここで酔芙蓉の花を見るのを楽しみにしています。酔芙蓉の花は朝は白色で夕方になるにつれピンク色に変わる不思議な花です。名前の由来は、花色が変わる姿からお酒を飲んで酔ったように見えるからだそうです。なんだか色っぽい花ですよね🍶

酔芙蓉の花。PM13:00頃。花びらはまだ白い。

そして美容院が終わって15:00に公園に戻って同じ花を撮った写真がこちら↓

15:00頃の酔芙蓉

ほんのりピンク色になっているのがわかります。この薄い花びらに繊細な色づきが日本の花っぽくて好きなのです。残念ながらこれ以降の色の変化は撮っていません💦歯医者が終わって17:00頃の酔芙蓉の濃いピンク色の写真も撮ればよかった〜😭いつもなら公園を通って帰るのですが、この日は近くのデパ地下で夕飯を買って帰ろうとルート変更してしまって、思いつきませんでした。(花より団子)因みに酔芙蓉は朝開いて夕方萎む一日花で、萎んだ後の花はこんな濃いピンク↓

13:00頃。白の花と萎んだピンクの花が同居

因みに私は下戸なので、無理して飲むとこれくらい真っ赤になります笑 花が終わって萎んでるところも自分に重なってちょっと悲しくなってきました。。が、しかし酔芙蓉の木は、花盛りを過ぎた濃いピンクの花と純白の花とのコントラストが綺麗なんです✨(因みにネットを見ていると芙蓉は枯れた後の姿も「枯れ芙蓉」と呼ばれて愛でられているようです。)

私の中で酔芙蓉で思い出すのは、20代の頃、奈良旅行で訪れた『橘寺』です。明日香村にある橘寺の境内にはたくさんの酔芙蓉が植えられていて、酔芙蓉と古刹の織りなす景色は夢のように美しく、ずっと心に残っています。機会があれば花が咲く時期にまた訪れたいものです✨

さて、15:00に公園に戻って、歯医者まで時間があったので公園内をブラブラしていると、今まで気づかなかった史跡案内ポールを発見しました。↓

以下、記載内容を引用↓

小楠の父時直は、文政5年(1822)に内坪井の屋敷からこの地に移り、天保2年(1831)には兄時明が家督を継いだ。小楠はこの家から時習館に通い、後に居寮長になる。江戸にも留学したが、天保11年に帰国を命ぜられた。その後3年間は、この家の六畳の部屋で勉学に励み、また初めて子弟を教えた。ここから東側の道と立体駐車場付近が旧居の場所である。横井家は弘化3年(1846)相撲町、安政2年(1855)沼山津に移っている。

※時習館は熊本藩の藩校です。

横井小楠の旧居もここら辺にあったんだ〜!と初めて知ってちょっと嬉しかったです。横井小楠は数少ない肥後出身の幕末の偉人(思想家)です。↓

儒学者・政治思想家。父は熊本藩士。天保14(1843)年頃、実践的朱子学「実学」を提唱し、私塾小楠堂を開く。安政5(1858)年には福井藩主松平慶永(春岳)に政治顧問として招かれ、『国是三論』を著した。文久2(1862)年松平春岳の幕府政事総裁職就任を期に江戸で幕政改革に関与、公武合体運動を推進するが失脚。士籍を剥奪されて熊本に蟄居し、勝海舟大久保一翁や諸国の志士との交流を続けた。維新後は政府参与に就任するが、保守派の手で暗殺された。

出典:国立国会図書館ウェブサイト
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/345/

といっても、私は歴史詳しくないので、横井小楠が具体的にどんな思想を持っていって、何をしたかもよくわかってないのですが、横井小楠には小さな頃から親しみがありました。というのも小楠先生が47歳の時熊本市東部の沼山津に開いた私塾『四時軒』が現地に復元されているのですが、私は小学生の時近くに住んでいたので、近隣の友達としょっちゅう遊びに行っていたからです。(週2、3回ペース)

四時軒(横井小楠旧居)は横井小楠記念館に併設されていて、記念館の入り口受付で記帳して、当時確か子供は入館料100円払って入館していたと思います。(うる覚え。無料だったかも)高齢の館長さんは、訳もわからないくせにしょっちゅう遊びにきて旧居内を走り回るガキに文句も言わず優しく迎えてくれました笑 四時軒は前に秋津川が流れていて(坂本竜馬が訪れた際釣りをしたとか)、名前の通り座敷から見える四季折々の景色が美しい所で、子供時代の私は座敷に座ったり縁側に座ったりして何とはなしに過ごすのが好きでした。(そして狭くて暗い厠跡に籠るのも好きでした。子供って変😅)
子供の頃感じた史跡・四時軒の雰囲気が明るく温かかったので、小楠先生がどんな思想の持ち主だったかはよく知らないけれど、きっといい人だったんだと思います!(結局フィーリングが全て)
四時軒は熊本地震で倒壊してしまったのですが、今年の2月に復元が完了して公開が再開されたようなので、今度は小楠先生についてちゃんと勉強した上で、また訪れて記事にしたいです✨

さて、蓮政寺公園付近の水道町界隈を歯科までの時間つぶしに歩き回っていた私ですが、なんだかちょっと気分が悪くなって来てしまいました。どうやって時間まで過ごそうかと思案して、そうだ、小泉八雲旧居で休憩しようと思いつき、蓮政寺公園横の小泉八雲旧居へ。

玄関で靴を脱いで上がったすぐのところで、またしても横井小楠関連の興味深い展示を見つけました!(以下引用)↓

横井小楠は日本の武士(熊本藩士)、儒学者。
本名は平氏で、北条時行の子孫を称していた。
「小楠」は彼が使った号。楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる。

まさかここで南北朝時代の偉人たちの名前に出くわすとは思いませんでした〜😳ネットで調べたところ、横井小楠の本名は時存(ときあり)さんだそうです。案内ポールにもあった通り、父も兄も名前に「時」がついてますが、時行の「時」から来てるんでしょうね。そしてこの時気づいたのですが、いつも見慣れた小楠先生の肖像画の肩衣の家紋が北条家の丸に三鱗。↓

画像はWikipediaより

横井小楠は鎌倉幕府の執権北条氏の出だったこと初めて知りました。
(上の展示では「子孫を称していた」、熊本市のウェブサイトでも「北条氏と言われています。」との表現なので、確定されてはないかも知れませんが。)
そして「小楠」の名前が楠木正行にあやかったものだということも初めて知りました。南北朝時代の偉人たちは幕末の偉人達に多大な影響を与えているんですね。

さて、気分がすぐれなくてこれ以上展示物を見る余裕もなく、小泉八雲旧居の座敷に座り込み、お庭を眺めながら休憩する私。(←無料だからといって記念館で自宅のようにくつろぐのはやめましょう⚠️)

旧居内では、なんだかほのかにいい香りがしています。お香の香り?いや、庭木の香りかも。しっとりとした古い日本家屋の座敷の風情と、芳しい植物の香りですっかり元気を取り戻した私は、この後無事に歯医者さんに行きましたとさ。

小泉八雲の執筆室だった部屋の縁側から、庭園を通して
蓮政寺公園方面を望む

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊
因みに小泉八雲と小泉八雲旧居をちゃんと紹介した記事は以下になります。ご興味があれば是非↓

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