相良700年の隠れ里💛人吉球磨歴史さんぽ② 【国宝 青井阿蘇神社】
こんにちは。今回は熊本県球磨郡人吉市にある青井阿蘇神社の散策レポートになります。昨年の9月25日に球磨郡の湯前町に行った際の帰りにたまたま青井阿蘇神社の標識を見つけて立ち寄ったのですが、その荘厳さに圧倒されてしまいました😵
青井阿蘇神社は国宝に指定されていて、TVでもたまに取り上げられているので、映像としては見たことはあったのですが、やはり実物を目の前にするとその素晴らしさに震えが来るほど感動しました✨
因みに人吉市は、人吉市と球磨郡9町村からなる人吉球磨地方の中心地で、鎌倉初期より明治維新まで約700年余にわたり人吉球磨地方を統治した相良氏の本拠地です。長きにわたる安定政権を確立した相良家は神社仏閣を多く作り、さらに自分たちがこの地域に来る以前の神社仏閣をも大切にしたことから、人吉球磨には平安時代からの仏像群や建物が数多く現存しています。2015年には、~日本でもっとも豊かな隠れ里-人吉球磨~として文化庁の「日本遺産」にも認定されているんですよ✨それでは、そんな人吉球磨の日本遺産の一つにして国宝指定されている青井阿蘇神社の散策レポート、早速行ってみましょう🏃♀️(今回は4500字)
国宝・青井阿蘇神社
神社の駐車場は楼門のすぐ横にあるのでそちらに停めたのですが、せっかくなので門前にある蓮池にかかる禊橋(みそぎばし・登録有形文化財)から散策をスタートしたいと思います↓
といっても、この時(2022/9/25)禊橋は3年前の豪雨災害からの復旧工事中で渡ることは出来なかったのですが。(現在は工事は終わって通れるようになっています。)因みに神社の前には日本三大急流の一つに数えられる一級河川・球磨川が流れています。令和2年7月の豪雨で球磨川が氾濫し、人吉球磨地方にも甚大な被害をもたらしました。青井阿蘇神社でも、画像の鳥居の半分の高さ位まで水に浸かり、社殿も床上浸水したそうです。楼門から社殿のある境内は水害があったのか分からないくらい綺麗だったんですが、復旧作業に従事された方々の苦労が偲ばれます。文化財を守っていくのは本当に大変ですね。
この時は9月だったので、残念ながらハスの花の時期は終わっていましたが、花の咲いた蓮池と禊橋の織りなす風景はよくメディアでも取り上げられる青井阿蘇神社の映えスポットとなっています🪷
因みにこの蓮池は神社の南に位置し、東に川(球磨川)、南に池(蓮池)、西に道(大路)、北に山で囲まれた風水でいう四神相応の地に青井阿蘇神社は建てられているそうです。(青井阿蘇神社HPより)青井阿蘇神社の創建は大同元年(806年)だそうですが、そんな早い時期にこの地域でも京の都の様な四神思想が根付いていたんですね〜😳さて、それでは境内に向かいましょう👟
最初にこの楼門を見た時、その大きさと絢爛豪華さに度肝を抜かれました😵この本物のみが持つオーラは、まさに国宝級だと感じました✨それも見たこともない独特の色使い😲人吉球磨地方独自のものだそうですよ💡写真では素晴らしさが伝わりにくいのが残念です。是非皆様にも実物を見て頂きたいです。あの司馬遼太郎さんも、『街道をゆく』の中で、「人吉の町で驚いたのは、青井神社の桃山風の楼門だった。(中略)青井大明神という額を高くかかげたこの楼門は、京都あたりに残っている桃山風の建造物よりもさらに桃山ぶりのエッセンスを感じさせる華やぎと豪宕さもっているのである」と絶賛されているそうです。(青井阿蘇神社HPより)さて、楼門の横に案内板がありましたので例によって下記に引用しますね↓
さてここで補足説明しますと、この社殿群を造営した20代当主・相良長毎という方は、宇城市散策⑤でご紹介した、響が原で戦死した18代相良義陽の次男にあたります。義陽さんの死後、家督は長男の忠房さんが継ぎましたが、4年後に急死したため島津氏に人質に出ていた長毎さんが当主となりました。長毎さんは当初島津氏に従っていましたが、豊臣秀吉が島津征伐に九州に乗り込んで来ると家臣の機転で一転して豊臣方に着き本領安堵され、秀吉の九州平定後に肥後の領主となった加藤清正並びに小西行長とも良好な関係を築きます。関ヶ原合戦では最初西軍方でしたが、またまた家臣の機転で東軍に寝返り本領安堵されて江戸時代を迎え、初代人吉藩2万石の藩主となります。父君の非業の死をばねにして、先の見えない激動の時代を優秀な家臣たちと乗り切り、人吉相良藩を磐石にした長毎さんは、人吉市で最も有名なお殿様のように感じました。そして、次回ご紹介予定の日本100名城・人吉城を近世の石垣造りの城にリフォームしたのも長毎さんですし、この国宝指定の社殿を造営したのも長毎さんです。戦乱の世が終わり世の中がようやく安定してきて、領地人吉の建造物の作り替えにも着手したということでしょうかね。因みに人吉市は人吉城を中心に風水を基にデザインされており、青井阿蘇神社は人吉城の天門(北西)にあたるそうですよ💡人吉市には風水の他にも独自の思想・宗教感が感じられる不思議な遺構がたくさんあるのですが、この青井阿蘇神社の独特な様式も、相良家の長い歴史が育んだ独自思想の表れなんでしょうね❣️それでは楼門を潜って中に入りましょう🏃♀️
分かりにくいですが、屋根の下の端に白いマシュマロ(失敬)みたいな彫り物がついてるの見えますか?これらは楼門屋根の四隅の軒下に取り付けられた、陰陽一対(阿吽(ア・ウン)の形相)の計8つの神面の彫り物です。これも全国的に類を見ないもので、専門家により「人吉様式」と名付けられたそうです。面白いですよね❣️(神面の拡大画像は青井阿蘇神社のHPで見れますのでご興味のある方は検索してみて下さい。)
そしてこちらが拝殿になります!↓
そしてこちらも青井阿蘇神社の驚きポイント、今まで見たことの無い様式の幣拝殿内部↓
奥行きの広い座敷に御簾。これはもう幣拝殿というより御殿といった雰囲気ですね😳全面黒漆塗が渋カッコいいです〜✨社殿の外壁もまた開いた口が塞がらないほど素晴らしいんですよ!↓
先ずは幣殿の外壁から見ていきましょう♪ ↓
黒漆塗りの外壁を基調に、赤と緑の彩色、そして軒下の彩色の無い絵画的な彫り物とのコントラストがなんとも言えず美しいですよね❣️絵画的な彫刻の下に、赤と緑に彩色された雲の様な特徴的な紋様がありますよね。青井阿蘇神社のHPによると、これは格狭間(こうざま)と呼ばれる模様で、本来は仏像や厨子を安置する須弥壇の基壇部分に用いられ、仏教の聖地である須弥山を摸したものだそうですが、建物の上部に設えてあるものは他では見ることができないこの地方独特のものだそうですよ💡それでは次に、本殿の側面外壁を見てみましょう。↓
こちらも黒漆塗りを基調にしつつ木組みに赤漆の差し色が超絶クールですね〜✨写真でははっきり写ってないのが残念なんですが、中心の飾柱?の蔓系植物の彫刻と、屋根に沿った両側の龍の彫刻も素晴らしいんですよ🐉
そして個人的に特筆したいのが、随所に嵌め込まれた餝金具です❣️↓
こんなところにまで細かく美しい細工がしてあって、青井阿蘇神社の社殿は細部まで隙のない美しさだと感じました〜😵
それでは最後に、神社の前面を流れる球磨川を観に行きたいと思います🏃♀️
人吉市街地の球磨川沿いにはたくさんの温泉宿が建ち並んでいます。私は旅する時は史跡本位なのですが、人吉観光では全国的には人吉温泉と球磨川急流くだりが有名です♨️
そして、対岸の中洲の先の画面中央に見えるのが日本100名城・人吉城(繊月城)になります🌙↓
あとがき
青井阿蘇神社は全国のどこの神社とも似ていない、渋さの中に華やかさのある独自の様式美を持った、確かに国宝の輝きを持つ神社だと感じました。人吉球磨の人々の美的センスに脱帽です😵
人吉は九州山地に囲まれた山深い盆地です。今でこそJRや高速を使って簡単に入れますが(それでもやっぱり遠いけど。)、昔は幾つも山を越えて苦労して入国していたと思うんですよね。そして昔の人達も、人吉球磨については湾岸の大都市と比べたら、山の中の小国なんて何ほどのことやあらん。と思ってたんじゃないかと想像するのですが、(私もそう思ってました、すみません🙇♀️)人吉を訪れた客人達は、独自様式の絢爛豪華な神社仏閣や素晴らしい仏像群、そして強固な城郭に圧倒されたことだろうと想像します。
この日、名城人吉城も是非散策したかったのですが既に夕刻で、両親も一緒だし、熊本方面へは高速で1時間以上かかるので、城を目前にして「相良さんごめんなさい、もう無理🙏」と泣く泣く帰路に着いたのでした。ところが帰ってしばらく経ったある日、友人から人吉の有名なカフェに行かない?と誘われて、友人の運転で人吉を再び訪れることができたんです😳結局そのカフェには運悪く貸切で行けなかったのですが、代わりに人吉城散策を堪能することが出来ました〜🏯やっぱり人吉相良氏にも縁を感じますね✨と、いうことで、次回の人吉球磨歴史さんぽは、人吉城周辺の散策レポートをUP予定です。次回も宜しくお願いします❣️
最後までお読み頂き、ありがとうございました😊
【参考文献・ホームページ】
・人吉市史第1巻 人吉市史編纂協議会 1981年
・青井阿蘇神社HP
・人吉球磨ガイドWebサイト
・人吉球磨 風水・祈りの浄化町Webサイト
・日本遺産 人吉球磨Webサイト
アクセス情報はこちらから↓
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