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〜天草の﨑津集落〜 【世界遺産:長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産】

こんにちは。最近リモートワーク続きで広々とした海が見たくなった&晴天と祝日が重なったという訳で、先週金曜日に以前から訪れたかった熊本県天草市の﨑津集落に行って来ました!熊本市方面から宇土経由でひたすら天草の海岸線を車で4時間走って、天草半島の南端に程近い漁村・﨑津に向かいます。(途中、有料道路や山道を使えばもう少し時間短縮できますが、海を満喫したかったので、海岸線を走りました。どちらにしろ時間がかかるので、行くのには気合いがいる場所です。)

はじめに、世界文化遺産 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産について、天草市観光文化部の「天草の﨑津集落」パンフレットより引用させて頂き、軽くご説明します。

大航海時代、フランシスコ・ザビエルにより日本に伝えられたキリスト教は、繁栄、激しい弾圧と250年間の潜伏、そして奇跡の復活という世界でも類を見ない歴史をたどります。
 なかでも、布教の中心地だった長崎・天草地方には、キリスト教関連の遺跡や集落、教会が数多く残っています。
 世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、禁教時代にも密かに信仰を継承しキリスト教に復帰するまでの、日本独特のキリスト教信仰を育んだ歴史を示す文化遺産です。

潜伏キリシタン関連遺産は、下の地図で示される通り、長崎と天草地方の半島や離島に点在する12の構成資産から成っています。今回ご紹介する﨑津集落は地図上の一番下にありますね💡(地図もパンフレットより拝借)

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﨑津に向かう途中にも、興味をそそられる史跡の看板が道沿いに沢山ありましたが、立ち寄っていたらとても日帰りでは帰れないので、一路、﨑津を目指します。そして、はるばるやってきました!﨑津集落✨⛪️✨

まずは、国道沿いの﨑津集落ガイダンスセンターに車を停めて、散策の情報収集します↓散策マップをここでゲットし、所要時間などを確認。

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ちなみに今更ですが、私のnoteは、実際に散策している気分を味わっていただける様な記事作りを心がけております。長めの記事になりますが、一緒に世界遺産散策を楽しんで頂ければ幸いです😊

散策ルート紹介

今回は頂いた散策マップ通りのルートで散策します。地図の右端ガイダンスセンターからスタートし、旧網元岩下家→資料館みなと屋→﨑津教会→海上マリア像→﨑津諏訪神社→チャペルの鐘展望公園の順に散策します。(小さくてスミマセン💦拡大してご覧下さい🙇‍♀️)

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南北に伸びるメインロードは約1km。歩いて2〜3時間でメインスポットを見学できるコンパクトで観光客フレンドリーな集落です。猫ちゃんもたくさんいるそうですよ!それでは散策スタートです

国道を渡って集落に入りますが、早速、その手前で子猫たちに遭遇🐈‍⬛可愛い💕早速気分が上がります。

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横断歩道を渡って集落に入ってすぐ、散策路沿いにバス停があり、そこからの風景↓先の方に教会の尖塔が見えますね!ワクワク感が高まります💓

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趣のある漁村のメインロードをてくてく歩いて👟

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暫くすると、旧網元岩下家「よらんかな」が左手にあります。※よらんかな とは熊本弁で寄っていきませんか?の意。

旧網元岩下家(復元)のカケ

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建物の中には昔の﨑津集落の写真などがパネル展示されついます。柱には何やら古そうな木札が。「船功符」と記載があるようですが、どんな用途だったんだろう🧐

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外には、魚をさばいたり干したり、漁具の手入れをするために使われた「カケ」と呼ばれる作業場が設置されているそうです。早速、外に通じる引き戸から外に出てみます。

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わ〜!梅の花が咲いていますね〜(*´∇`*)
カケの説明板もありました↓

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カケから教会の方を望んだ風景です↓  のどか〜

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さて、それでは散策路を先に進み、資料館みなと屋を目指します。途中、海側に向かう道にまた猫ちゃん発見♪どこを切り取っても素敵な雰囲気。

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暫く散策路を進むと、東西に伸びる、海と教会と神社を繋ぐ参道に突き当たります。そうしたら左折して、まずは教会の向かいにある資料館みなと屋で事前勉強します📚

﨑津資料館 みなと屋

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このみなと屋さんは、昭和初期の旅館を改修した建物で、間取りなどは建築当時のままだそうです。因みに﨑津は、海産物や隣町の木材などの交易により繁栄し、街中には木賃宿や旅館が建ち並んで三味線の音が響く港町だったそうです。菊池寛や司馬遼太郎など、多くの作家・文人も﨑津を訪れたそうですよ💡早速中に入ってみましょう!

1階は板張りの展示スペース、2階は畳敷の映像ブースと展示室になっています。2階の様子です↓

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当時の旅館の面影が残る趣のある館内ですね✨沢山の貴重な展示品や展示パネルがありました。撮影禁止の物もあり、写真は撮らなかったのですが、以下に﨑津の歴史について学んだ内容を時系列で要約しますね。(ちょっと歴史の話が長くなりますが、よろしければお付き合い下さい🙇‍♀️)

﨑津は、戦国時代以降に形成された漁村です。天草地方は豊臣秀吉の九州平定以前は、天草五人衆という土豪が支配していました。(因みにみんな受洗してキリシタンになっています。)1549年イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが初めて鹿児島に上陸してから17年後の1566年に天草五人衆の一人、志岐氏が洗礼を受けたのを皮切りに天草で布教が始まり、﨑津には1569年にルイス・デ・アルメイダ修道士により布教が開始され、村人のほとんどがキリスト教徒となりました。天草五人衆の後に天草を支配した小西行長(後に関ヶ原の戦いで敗北)もキリシタン大名だったので天草のキリスト教文化は繁栄します。1591年から1597年には﨑津の近くの河内浦に宣教師を養成する神学校、コレジヨが設置され、ヨーロッパから帰国した天正遣欧少年使節団の4人もそこで学んだそうです!彼らが持ち帰った印刷機によりローマ字活版印刷が行われるなど、きらびやかな西洋文化が花ひらきました。歴史の教科書にも載っている、天草本『平家物語』『伊曾保(イソップ)物語』は有名ですよね📕﨑津周辺は今でこそのどかな漁村ですが、キリスト教文化の最盛期は南蛮服を身につけた人達が闊歩するきらびやかな雰囲気の地域だったのでしょうね、めちゃくちゃロマンを感じます〜😆✨

そんなに栄えたキリスト教文化も、戦国時代後期には雲行が怪しくなります。九州を中心とした布教が進む一方で、キリスト教の影響力が強まる事を恐れた豊臣秀吉は、1587年「伴天連(バテレン)追放令」を発布、禁教政策を引き継いだ徳川幕府も1614年に「禁教令」を発布し、宣教師達はマカオやマニラに追放され、キリシタン迫害により多くの信者が殉教、棄教します。それでも各地のキリシタン達は密かに信仰を続けていましたが、1637年、幕府の厳しい探索に加え飢饉や重税に苦しんでいた領民達の不満はついに爆発、「島原・天草一揆」が勃発します。領民達は長崎島原の原城跡に立て篭もり、激戦の末、女性と子供含む約3万7千人が討死しました😢😭
 さて、﨑津の領民達はというと、島原・天草一揆には参加しなかったそうなんです😲島原に距離的に近かった上天草の領民達と違って、﨑津のような下天草の領民達は情報も少なく、蜂起しなかった集落も多かったみたいです。考えてみたらそうですよね、島原の乱でキリシタンが全滅していたら、潜伏キリシタンやかくれキリシタンは存続しないはずですから。長崎島原と熊本天草の信徒が一致団結して全員で戦ったと勝手にイメージしていた私には、ちょっと目から鱗でした😲

一揆の後、天草は幕府直轄の天領となり、代官が置かれます。生き延びたキリシタン達は、宣教師不在の中、表向きは仏教徒や神社の氏子となりながら密かに独自の信仰を育み継承し、禁教が解かれるまで250年以上もの間、信仰を守り続けました。﨑津の信者も潜伏キリシタンとなり、独自の信仰を生み出します。﨑津では漁業と信仰が密接に結びつき、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見立てて崇拝するなど、漁村特有の信仰を育みました。因みに、長崎・天草に点在しているキリシタンの集落は、それぞれが独自の信仰を育んでいったんですよ💡例えば、﨑津は貝殻や身近にある物を拝みましたが、山や島を信仰の対象として拝んだ集落、聖画図を拝んだ集落、天使に見立てた石像を拝んだ集落など。この事実も、潜伏キリシタン集落をどこも同じような信仰形態だろうと一緒くたに考えていた私には目から鱗でした。考えてみればそうですよね、幕府による禁教下で命懸けで隠れているのに、危険をおかして集落同士の横の交流なんて無理ですよね。自然と、自分達の集落だけで結束して、その土地に合った独自の信仰を育んでいったのでしょうね🤔

しかし、これまで潜伏していたキリシタン達もついに発覚する時が訪れます。1805年、﨑津ではクリスマスに牛肉を祭壇に供えていることがきっかけとなり、代官所の役人が、後ほどご紹介する﨑津諏訪神社で取り調べを行い、﨑津とその周辺の村の5千人余が信徒として検挙されました。(これを「天草崩れ」と呼びます。)もはやこれまでかと思いきや、幕府側は彼らは「異宗信仰者」であって「切支丹」ではなく、「宗門心得違い」であると認定し、無罪放免としました。良かった〜😮‍💨
これは事件を大ごとにしたくなかった&一揆の発生を恐れた幕府が取った苦肉の策と言われています

時代は降って幕末、日本は欧米の圧力によって開国。外国人居留地が作られた長崎で、1864年には大浦天主堂が建てられますが、そこに潜伏キリシタン十数人が訪れ、当時のプチジャン神父に信仰を告白します。(信徒発見)涙涙、辛い潜伏期間長かったね〜😭😭この「信徒発見」の一報は、ヨーロッパ諸国に驚きと感動をもって伝えられました。しかしまだ禁教中であったため、弾圧に対して西洋諸国の強い抗議が相次ぎ、明治政府はついに1873年禁教を撤廃、潜伏キリシタン達はカトリックに復帰します。

ちなみに皆さんは「潜伏キリシタン」と「かくれキリシタン」の違いをご存知ですか?私も初めて知ったので共有させてくだい。潜伏キリシタン:禁教期に表向きは仏教徒になりつつも、キリスト教を信仰した人。かくれキリシタン:明治に入ってキリスト教が認められた後もカトリックに復帰せず、江戸時代から続けてきたやり方で信仰した人。だそうです。ちなみに﨑津の人達は明治になって禁教が解かれると、カトリックに復帰しますが、隣の今富集落では、キリスト教が認められた後もカトリックに復帰せず、潜伏時代に自分達で生み出した独自のキリシタン信仰を続け、かくれキリシタンとなる道をえらんだそうです。本当に集落ごとに特色が異なるんですね💡

さて、キリスト教が認められると各地で次々と教会堂が建設されます。﨑津では諏訪神社の近くに最初の教会が建てられましたが、これから見に行く﨑津教会は、絵踏が行われた庄屋役宅跡に、昭和9年に建てられたものです。

はい、散策レポートでありながら、気づけば歴史の説明がかなり長くなってしまいました💦ごめんなさい🙏ここまで読んで頂いた皆様、本当にありがとうございます。事前学習が済んだところで、いよいよ﨑津散策のハイライト、道を挟んで反対側の、﨑津教会に向かいます。

﨑津教会

圧倒的な存在感✨教会上空にはトンビが何羽も旋回し、ピーヒョロヒョロと鳴いています。

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﨑津教会は、1934年にハルブ神父と住民の寄附によって建てられた教会堂です。初代﨑津教会堂の老朽化により現在の場所に新築されました。
 コンクリート造りの計画で建築されましたが、資金不足により途中で木造に切り替えられたため、灰色のコンクリート部分と白色の木造部分が混在する特殊な教会となりました。
 教会の設計は、多くの教会設計に携わった上五島出身の鉄川与助によるもので、外観にはゴシック様式の特徴が見られ、堂内には建設当初から
日本の生活様式を取り入れて畳が敷かれており、信徒達は床に座ってミサに参加していました。

そしてこちらが斜めアングルの教会全景です↓

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ゴシック様式というと、ゴツくて荘厳なイメージですが、こちらの教会は素朴で可愛らしい感じがします。後方の白色の部分が木造なんですね〜。

中も見学出来るのですが、現役の教会で信者の方々の神聖な祈りの場なので、写真撮影は禁止です。中は畳敷で真ん中に赤絨毯の通路があって、祭壇上方にキリストの像が、両側の黄色のステンドグラスに挟まれる形で配置されていました。ご自由にお取り下さいのカトリック福岡教区報🗞が置いてあったり、ローマ教皇のイベントのパンフレットが貼ってあったりして、カトリック教会の雰囲気を堪能しました✨皆さんも教会内部見たいですよね?資料館にあった写真を以下に載せますね↓(光が反射して見にくいですけど😅)

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教会の横にはルルドの泉を模した池も作られていました↓鯉もいる日本庭園風の池なのが面白い❗️

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さて、そろそろ次の目的地、海上マリア像に向かいます🏃‍♀️ 途中、旧旅館跡に作られた素敵な観光交流広場があります。ベンチに座ってボーッとしたい🐚

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また、途中トウヤと呼ばれる家屋と家屋の間にある海に続く幅約90cmの小路が複数見られるんですが、これがまたいい味だしております。

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海に面したトウヤの突き当たりには船を繋ぐビットが↓

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別のトウヤwithミーちゃん🐈↓

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また、山側を眺めると斜面にお墓があったのですが、墓石が十字架でした✝️

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そうこうしていると、天草漁協﨑津支所に着きました。この先に海上マリア像の展望所があるはずですが、どこだろう〜と先に進むと

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あ、ありました!マリア像の展望デッキ

海上マリア像

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デッキに上がりマリア像を望むも、ち、小さい💦

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スマホ最大拡大↓

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朧げながら、マリア様の立ち姿、確認できました😅このマリア像は比較的新しく、キリスト教信仰のシンボルとして1974年に建てられたもので、漁船の運航の安全を見守っているそうです。ここからは遠くて小さくしか見えませんが、クルージングで船上からマリア様を眺めるプランもあるようです。また、マリア像の向こう側に夕陽が沈む風景が綺麗で、天草夕陽八景の一つにもなっているそうです。

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それでは次に、前述の「天草崩れ」の舞台、取り調べが行われた﨑津諏訪神社に向かいます。散策路を、東西に交差する参道まで戻ります。そして山側に左折すると、立派な鳥居が見えます⛩

﨑津諏訪神社

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本殿に続く参道の脇には、旧﨑津教会跡があります。下の写真の赤煉瓦の門の方です。現在は階段の上に教会のシスターが寝泊まりしていた修道院(1957年建築)が建っています。

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参道を進んで、神社に向かいます。階段の上からの集落の風景がまたフォトジェニックなんですよね〜📸 参道が教会の横を通って海まで続いているのがよく分かりますね🌊

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ここで、この参道にまつわる興味深い伝承を、資料館みなと屋の展示パネルから引用させて下さい

﨑津諏訪神社と﨑津教会を繋ぐ参道は、「海中から水神が現れ、﨑津諏訪神社の社殿を通り、山頂の金毘羅宮に入った」という漁業に関係する伝承が残っています。
 この参道は、﨑津諏訪神社の例大祭や、﨑津教会の聖体行列など、神道・仏教・キリスト教が共存する空間となっています。
 また、﨑津の漁師は豊漁を願う際には宗教の壁を超え、今日も﨑津諏訪神社で祭事を行っています。

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こちらが階段を登った先にある本殿です↓

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本殿にお参りした後、本殿の裏から更に上に続く500段の階段を登って、現在はチャペルの鐘展望公園として整備されている金比羅宮のある山頂に向かいます。ここから鳥居の額が金比羅宮に変わっています↓

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ひたすら急な階段。かなり足にきます😵息を切らせて登りきり、まず金比羅宮の祠にお参りします。(写真は撮りませんでした)

すぐ隣に円形劇場のような施設があり、チャペルの鐘が設置されています🔔

チャペルの鐘展望公園

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ここから眺めた風景↓  気持ちい〜い🍃

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集落方面を望むとこんな感じ↓

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ここは津波の避難所にもなっています。なるほど、ここまで登ればだいぶ高いし、集落から急いで駆け上がれば10分程で着くかもしれません。とても機能的で考えられた避難場所だと思いました。きっと昔からの集落の知恵なんでしょうね💡

さて、だいぶ日が暮れてきました。この時16時半、これからサンセットの海岸線を楽しみながら安全運転で帰りま〜す🚙

まとめ

世界文化遺産・天草﨑津集落の散策、いかがでしたでしょうか?同じ熊本県でも、天草は潜伏/かくれキリシタンの歴史もあり、風土・風習がだいぶ異なるイメージがあります。天草は今回訪れた﨑津集落以外にも、天草四郎や島原・天草一揆関連の史跡がたくさんありますし、キリシタン関連の資料館や歴史民俗資料館も複数あります。潜伏キリシタン関連遺跡は、歴史学・宗教学・民俗学などが絡み合ってとても奥が深く、興味深いと感じます。世界遺産の潜伏キリシタン関連遺産は半島や離島に点在していて、全てを見て回るのは大変そうですが、旅行が気軽に行ける状況になったら、長崎の一部の史跡まで足をのばしてみたいと思っております。

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最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考資料】
天草市観光文化部文化課世界遺産・文化財係編「天草の﨑津集落」パンフレット/ 﨑津資料館 みなと屋 展示パネル / Wikipedia など

熊本県公式観光サイト 﨑津集落
https://kumamoto.guide/spots/detail/11358

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