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"あいひこくん"と喫茶ピース

渋谷で人と会う予定が、急になくなった。すでに待ち合わせ場所に着いていた私はひまになったので、思い立って、人でぎゅうぎゅうのスクランブル交差点を渡りTSUTAYAへ向かう。
かなり久しぶりの渋谷は煌びやかな人たちがみんな誰かと大きな声で笑っていて、"あれ世界ってこんなんだっけ…?!"と大げさなことを考えたりもしたのだけれど、TSUTAYAへ辿り着き、3階のCD/歌謡曲コーナーまで来るとほっとした。がらんとしたすずしいフロアで、ひとり、ひとりと、手に持った目当てのCDの在処を印刷したレシートを、律儀に棚と見比べたりして好きに時間を過ごしていた。

"渋谷のTSUTAYAは少し前の年代のCDも豊富なんですよ"と教えてくれたのは、以前アプリで知り合ったひとつ年下の"あいひこくん"という眼鏡の男の子だった。
あいひこくんは個性的だった。
落ち合って居酒屋に入るなり《ぼくは神経質なんです》と、おもむろに鞄からアルコールティッシュを取りだしてテーブルやメニューを拭いていた。本当ならお皿やお箸も拭きたいんですが、と小さく笑って。それから、いい大学に入って留学もして周りよりも優秀だという自信があるけど、ひくい身長や声などコンプレックスだらけなんですと言った。たしかにほんのすこし高い声を気にしてなのか、話す時は口元を手で隠していた。
肩書きでいえばほこっていいものを持っていると自分で分かっているはずなのに、あいひこくんはあまり幸福そうには見えなかった。
それよりも、身長なり、声なり、何かもっと別のものの方が彼にとっては長く致命的にからみついているものなのじゃないか。
だから、少しニヒルなものの見方とか、いっけん謙虚とは遠いような発言も、アンバランスで、わるい人じゃないな、と私は思った。

そんな彼だけれど、好きな80〜90年代の音楽の話になるとすごく無邪気にコーフンする男の子だった。私がユーミンの"遠雷"が好きだというと、「はぁ!!そうですか!」と感嘆して、うれしそうに荒井由美時代から今までの作品のうつりかわりを熱をこめて語ってくれた。
「荒井由美時代がいいのはもちろんですけれど」
口元に手をあてがったまま、
「"松任谷"になってからもこの遠雷という曲は初期の暗さみたいなものを残しているめずらしい、かくれた名曲なんですよ」と。

渋谷のTSUTAYAのことを教えてくれたとき、あいひこくんは笑顔を少しひきつらせて、"ま、ぼくの目当ての歌謡曲コーナーはいつもガラガラなんですけどね"と自嘲気味につけ加えた。その表情はどこかほこらしそうでもあった。そうですよねと笑ってうなずく私も、もしかしたら似た表情だったかもしれない。

そんなことを思い出して、あいひこくん、いいねぇここ…としずかに興奮しながら棚を何度も行き来する。ああこのアーティストまだ知らない曲が沢山あるなとか、このアーティストの名前は○○の歌詞で出てくるなとか、初めて見る名前もあったりして本当にカルチャーって果てしないんだなと思う。
おもにフォークコーナー、90年代コーナーで厳選したCD5枚ほどを抱えてセルフレジに向かう。
画面をタッチしてはじめのステップではたと止まる。TSUTAYAカードが、ない。
えっ……!と財布の中をあせって探すも見つからない。やがて、節約生活を極めていたときに"すぐにレンタルしない"と決めてカードを鏡台の引き出しに封印したことを思い出す。
えらい。そしてがっかり。
結局CDは1枚ずつ戻した。

緊急事態宣言明けで渋谷は人がはちゃめちゃに多かったのですぐに退散。まだまだ時間はあるしどこへ行こうかと考えて、とりあえず新宿へ。
新宿の駅前はそれほど混んでなくって、みんな、なんでもないふうにのんびり歩いていた。新宿の喧騒の方が肌になじむなあと、肩の力が抜けたような和やかな気持ちになる。小滝橋通りに沿っていくと小田急の大きな高級ブランド広告看板がいくつも並んでいて、ぴかぴか光るヴィトンの広告の正面にはホームレスのお爺さんが座っていた。
話してみたい、と思いながら通りすぎる。

しばらく歩いて、小田急の1階の路面店"喫茶ピース"へ入ってみる。
席はほとんどうまっていて、若い男の子たちのグループに素朴なカップル、思い思いに喋る声が店内に満ちていて賑やかだった。
こういう大衆に開かれている喫茶店ってあまり知らなくって、ちょっと昔ながらの食堂みたいな雰囲気がすごく良かった。店員さんは派手髪の人が多く、みんなやさしげだ。初めて入ったけれど好きになった。

無念にもレンタルできなかったバンドのひとつ、あぶらだこ をSpotifyで聴きながら、頼んだコーヒーフロートに口をつける。
ガンガンガンガン、心地良い爆音がイヤホンから流れて喧騒と混ざる。それに合わせてちょっと体をはずませながら、スプーンをコーヒーに浸して、バニラアイスを掬う。ひんやりと丁度いいあまさでしあわせな気持ち。
突然の手持ち無沙汰は、いつかのあいひこくんと喫茶ピースにすくわれたのだった。

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♢コーヒーフロート越しのピース店内♢

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