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【全編ネタバレ】これは「トイ」ストーリーではない【トイ・ストーリー4】

『おもちゃ』ではない。『ウッディ』の物語だ。

ネタバレ全開で作品全体の感想を書き留めておく

この記事の目的は「観賞1時間後時点での俺のトイ・ストーリー4に対する印象と心の動きをざっくり記録しておくこと」であり、それ以上の意味はない。この映画の是非を問うつもりは毛頭ないし、細かい話もしない。

というか、まず言っておくとめちゃめちゃいい映画だった

今までのトイ・ストーリーをあくまで“一般家庭のお子さん”として普通に楽しんできた自分が、『本当のトイ・ストーリー』とまで銘打たれたこの作品にどんな感傷を覚えたのかを、なるべく未整理なままで残しておきたい。

それだけです。それじゃ早速いこうか。

『トイ・ストーリー4』は、ウッディ・ストーリーだ

今回の物語ではウッディはほとんど仲間のおもちゃと行動を共にしない。そして、最後には別れの決断をする
3までのウッディにはありえなかったことだ。仲間を決して見捨てないカウボーイは、ずっと他のおもちゃたちと一緒に冒険してきた。
もちろん一人で突っ走ることもあるけど、それだって「自分にしかできないこと」だったりして“おもちゃ代表”としてのアクションになっていた。

というか、ピクサーはぼくらにウッディを通して『おもちゃ』を見せてくれていたのだ。ウッディの葛藤や決断が、そのまま『おもちゃとはどうあるべきか?』という作品テーマに昇華され、ぼくらの胸を打つ。
トイ・ストーリーというシリーズの根底には、常にその構造があった。

ところが、今回のウッディは、おもちゃの規範的な在り方を象徴してくれるような“ただの”おもちゃではない。

アンディに可愛がられ、仲間に恵まれ、いくつもの冒険を乗り越えてきたカウボーイ人形のウッディだ。
ボーを愛し、バズとの友情を育み、周囲のおもちゃたちの幸せを願う、ぼくたちのウッディなんだ。

そんな特別なおもちゃになってしまったウッディは、もう『トイ・ストーリー』のトイという立ち位置に収めきれなくなってしまった。

おもちゃは人に依存するけど

そもそも、アンディによって形成された役割と世界を持つ“ウッディ”というキャラクターのアイデンティティは、ボニーとは適合しない。
彼女には彼女の世界があるのだ。フォーキーをつくる。そこから彼女のイマジネーションが生まれている。
だから、ウッディの(おもちゃとしての)役目はそこにない。
役立たず、まさしくtrashだ。

だが、ウッディという存在は、既に充分に確立されている
彼はもう『おもちゃ』でさえなくていい。物語はそのように展開していく。

ウッディを通して何を見るべきか?

いまや、彼を通して何も見るべきではない。仲間と子どもの幸せを願い、力を尽くし時に無茶する、ちょっとマヌケな優男。それがウッディだ。
もう、彼を表現する言葉は“アンディのおもちゃ”でも“ボニーのおもちゃ”でもない。家庭の“トイ”を投影する対象ではないのだ。


だから『おもちゃが冒険する映画シリーズ』としてはいささかトリッキーすぎる結末だと感じる人も少なからずいるかもしれない。
だが、ぼくは『ウッディの大冒険シリーズ』として、この結末にいたく感動した。バズとの友情物語としても、最後の二人は切なすぎて泣けてしまう。

さらば、カウボーイ

昔から、カウボーイはノスタルジーの象徴だった。
『トイ・ストーリー』でも彼に対してそういう見方をすることができた。
でも、今回は違う。今回のカウボーイは、孤高と成熟の象徴だ。
カウボーイ人形の彼は、ノスタルジーの一部ではなく、真の冒険家になったのだ。

内なる声に従え

ぼくたちはよく「かくあるべき」だと言う。
学生として。大人として。社会や家族の一員として。そして、人として。
そうして言われることが、ぼくたちの存在を構成し、確立していく。

いつしか。

そうして確立された自己が、いつしか自分だけの決断をするようになる。
それが、内なる声だ。それそのものを問うことは、他の誰にもできない。

何度でも言おう。ウッディはもう、ただのおもちゃではないのだ。

..とはいえ

にしたって、他のおもちゃたち(バズ以外の『トイ・ストーリー3までのパラダイムに残った』おもちゃ)の扱いは薄すぎたけどね!!!
本当に、徹底的に『ウッディ・ストーリー』だった。これまで一緒に活躍してきた仲間のトイを観に来たお客さんたちが、可哀想だろ!!!!

以上です。
今度は1作目から通して観たいな。

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あくび侍@日常のこじつけと、非日常の筋立て。
常に前よりダサい語りを心がけます。