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あなたを苦しめる力は、あなたを救う力でもある

あなたは今、自分の人生がどこにも辿り着けないような気がして、必死に道を探している人でしょうか?

「自分が居て良い居場所がないんです」
「自分が生きている意味がわからないし、この程度の自分が社会の中で居場所を見つけられるとは思えない」

「人生をやり直せたらいいのに。やり直すには遅すぎた……」と絶望していますか?

私もそんな風に思っていました。
自分自身の出発点である家族という存在が私の人生を狂わせてきました。

幼稚園のお誕生日会の時に「Nikoちゃんの夢はなぁに?」と聞かれた時、幼稚園にして既に私は無邪気に答えることができなかったのです。
感受性が育たなかったのでしょうか。それとも、家にいる時の居心地の悪い感じから感じることを無意識にやめたのでしょうか。。。

「この世はもうすぐ滅びて、楽園が来る」
「だから、この世での地位や名声を得ようとして、良い学校に行くことは無意味」
「誕生日は、異教の祭りと関係があるから祝ってはだめ」
「親に従順でいなさい。親が間違っていると思える時でも。親はこの世で一番、子供の福祉を気にかけているから」

そう、これは聖書に基づいた、とある集会で話された内容。
内容は一部正しいと思えるものもある。親が聖書という武器を盾に取って、子供を自分の言う通りに従わせる武器として、子供に振りかざしたとしたら?
そして、それに加えて母親に抱っこされたり、笑いかけてもらったり、優しい声で話しかけてもらえる……などなかったら???

子供の心は壊れるでしょう。自分の感情を知ることができなくなるでしょう。
自己を確立するのは難しいでしょう。そして、自分のことがわからずに苦しむでしょう。

自分が当時、楽しいのか、悲しいのか、怒っているのか、悔しいのか、段々わからなくなりました。能面のような顔をしていたと思います。

大人にとって心地よい行動を取ることのできる子供が、評価される。

子供の頃、大人の世界を知りませんでした。ある意味当然なのですが。
しかし、早い段階で……小学校1年生の頃には大人の評価基準というものを知ったのです。教わったのは、母からでした。
「あんたがちゃんとしていないと、私が恥ずかしい思いをする」
「やりたいことと、やるべきことがあったら、やるべきことを優先しなさい」
「自分よりも、他人を第一に考えなさい」
と言われたのを覚えています。大人の世界の話です。思い当たるところありますよね?

それがわかってから、私は徹底的に自分が何も感じないロボット、リモコンでボタンを押されれば、前を向いたり、後ろを振り返ったり、そういう単純な作業ロボットのようになっていきました。”私の気持ちは関係ないんだ”
そう思って感受性の蓋を閉じてしまったのかもしれません。あまりに辛い現実から逃げたくて、自分の心を殺そうと決めたんです。その時は、感受性を閉じることが
自分にとっての救いと思ったのですが、違いました。

私はその後、楽しくて心の底から笑える体験……が少なくなりました。当然です。感受性を閉じるということは、辛いことはもちろん、楽しいことも感じないようにするのですから。楽しいことだけ感じることが出来る”感受性のボタンをオン”にできるのなら、喜んでそれを選びました。。。現実にはそういうことはなく、、、、30歳を目前に、そろそろ「心から幸せだと思える自分になりたい」と思いました。

そもそも、私を苦しめていたのは何だったのか?
まずは、それを知る必要がありました。
感受性が強いので、喜怒哀楽もはっきりしている。さらに、物事を深く突き詰めるタイプ。
まさに、苦しむタイプの典型とも言えるかもしれません。

でも、これが自分の原型です。この原型を全部捨てるなんて、そもそも現実的ではないし、やってみたところで、また作り物のロボットのような、自己不在の自分になってしまうだけ。

「心があるから苦しむんだ……」

「ならば、ネガティブなエネルギーを真逆のプラスに転換したらどうなるんだろう?」

ある時、こう思ったんです。そして、私を苦しめていた「心」というものが、この世の中で一番簡単に変えることができ、心に描く絵を書き換えることで、外側の世界が変わっていく、ということを知るようになったのです。

心というものに翻弄され、苦しめられ、一方で心の力に救われた。

自分はこんな人間だ、というセルフイメージが自分を苦しめたり、幸せな気分にする。そのことがわかりました。

つまり自分で自分をどう見るか、という具体的な像、イメージ、雰囲気を変えることが、心から湧き出る輝きを取り戻す方法であることもわかりました。

最初は、違和感がありました。でも、それを毎日、習慣的に、ありたい私、本当はこうだと思う私。そして未来が今ここに実現しているかのような体験を、イメージの中でたくさん経験するようにしました。思い描くのにお金はかかりません。
お金をかけずに、自分を変えられるなら何だって試そうと決めていました。後戻りはできない。まるで、外科医がガン患者から腫瘍を取り除く手術を行うかのように、断固として自分の腫瘍を取り去り、生まれ変わろう。そう決めていたんです。
10日くらい……毎日アファメーション(ありたい姿をイメージしながら気持ちを込めて言葉を唱えること)そのイメージが段々、ただのイメージなのか、現実に起きていることなのか、わからないほどに自分に浸透していくのがわかりました。
自分の使っている言葉が自分を作るって本当ですね。
そして、友達からは雰囲気が変わったね。と言われました。

感受性を取り戻す手がかり

分かったことは、私たちは、負のトレーニング、人の期待を生きることとか、自分が人と同じでなければ変な目で見られることへの恐怖とか。。。そういうネガティブなトレーニングを知らずに積み重ねてきただけなんだと。

感受性を開くことは、人生の豊かさを受け取る準備をすること

自分の居場所が無い……誰とも繋がっていなくて孤独……と感じていたら、それはあなたが、感受性が強いという強力な武器をよりよく使う技術を磨く時なんだと気づいて欲しい。
感受性が強くて、落ち込みやすいことは、弱さのしるしではありません。むしろ、どんな時でも、感じ取れる心の力があるということは、心を鈍感にして、物事を見ないようにしたり、感じないようにするよりも勇気のいることです。
自分が弱い……と感じられるのは強いから。だという事実をまずは認めてください。そして、そこを起点に考え直してみてください。

自分にダメ出しを10日間だけ、やめてみよう

格差社会ーそう言われる事が多いですが、自分を内省する、自分と向き合うことが自分の幸せにつながる、ということはみんなに平等に与えられた強力なリソースです。

自分の幸せの定義を”心で”考えてみる

自分が幸せでいれば、人からどう見られているか、なんて気にならない。いえ、そもそも気にする必要がないと思うんです。今度、人のことが気になった時、心にそっと聞いてみてください。心ではどう思ってる?って。頭の中が騒がしくても、心に聞いてください。

大人になればなるほど心で感じることが出来ずに、頭の知識、これまで身につけた経験、パターン、世間の常識でしか考えていなかった、ということに気づくかもしれません。昔、どうでしたか?本当にやりたい!って思ったことがあった時、人の目を気にしたりしましたか?うまくいかなかったらどうしよう??と思ってやめてしまいましたか?
そんなことはないはずです。できるかどうか、ではなく、体と心の一致感を感じられたから、誰に言われたわけではなく自然と力がみなぎってきたのではないでしょうか。心配したり、気にしたり……することにエネルギーを使ったのではなく、自分がやりたい!こうしたい!という心の中にある自分なりのイメージに沿おうとしたことでうまくいった。そんな経験ないですか?
大人になった私たちは、人からどう思われるか、自分は劣っているのではないか、をあまりにも気にすることが多い社会で生きています。だからこそ、自分を幸せにするためには、他人や社会からの評価で自分を定義するのではなく、自分の感受性を軸に自分の幸せについて考えられる思考力。それが大切です。
もっと自由でいていい。頭も、心も。奇抜でも良い。破茶滅茶でも良い。それがあなたの個性なら。今は道が見えなくても、あなたの中に内在する価値観こそが、点と点を結んで線になり、道が作られていく。そのことを忘れないでください。

自分らしく生きている時だけが、他人を幸せにすることができます。社会的な常識に従って、形だけ整えたところで、どうして心からの充足感を得られるでしょう?

他人を幸せにしたいのなら、まずは自分が幸せに生きることです。あなたのその幸せな姿や雰囲気を見た人はあなたから自然と勇気づけられ、幸せとは何かを学び、自分の生き方を変えることができるのです。

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