医療、福祉の哲学1

現代の福祉医療はどんどん障害者の人権を締め上げる方向に向かっていると感じます。利用者同士の交流禁止、職員とのプライベートでの交流も禁止。「何かあった時責任取れるの?」という無能な医療福祉従事者に声を大にして言いたいのは、「貴様らが1度だって責任なんか取った事あるのか!」と。

何度も何度も同じことを言わせる所が「無能」だというのですが。人間関係というのは傷ついて、トラブルを起こして当たり前なんです。健常者同士だってSNSで知り合って殺人事件にまで発展するのが日常茶飯事なのですから。障害者だから揉め事を起こすだろうというのはただの偏見(´・ω・`)

障害者はトラブルを起こした時に対処できない、責任を取れないだろうと。そのために医療福祉従事者がいるのでしょう。彼らは問題が起こってからはじめて介入すればいいのであって、起こる前から何もかも禁止しておけばいいというのは、ただの面倒臭がり、思考停止である(´・ω・`)

障害者も健常者も同じ。たとえ人間関係がこじれて殺人事件に発展しようが、それはある意味仕方のないことなのです。人間と人間が関われば傷つきトラブるのが自然なこと。障害者だけ色眼鏡で見て何もかも未然になどというのは健常者の思い上がりだし自然の摂理に反することなのです(´・ω・`)

多くの障害者は医療福祉のネットワークの中から抜け出せない。医療福祉のネットワークの中で友情を築き恋愛をし人間らしい豊かな人間関係を構築していくしかないのです。その障害者の人生の豊穣を医療福祉が安易に奪ってしまうから、障害者は人生に絶望し自死する。その責任は誰か取るのか(´・ω・`)

昨今声高に叫ばれてるインクルーシブ(包摂的、包含的)、ダイバーシティ(多様性社会)という哲学の起源は20世紀末に哲学者のジャック・デリダらが唱えた「差異の哲学」にある。差異=違いを認め合うことの本当の意味は、違いを持った人たちを1人の人間として認めるということではあるまいか(´・ω・`)

すなわち障害者を1人の人間として扱うということ。力が足りない、助けを求めている部分ではじめて医療福祉が介入する。それ以外はできるだけ一人前の大人として扱うべきである。当然我々障害者もそれ相応の責任は負う。自分の人生は自分のものなのだから。誰も誰かの為に戦場には行けないのである。

それから原病院の職員。お前らが風呂場やトイレで勝手に覗き見たひとのペニスの情報とか外部の右翼に売り渡すんじゃない!普通に犯罪だからな。看護師免許剥奪じゃ済まないぞ(´・ω・`)

デカければモテると思ってるのがモテないヤツの発想だ。美少女はペニスの形状に惚れる訳じゃない。その男の生き様死に様を見て判断するんだ。まあわたしのは普通サイズではあるが。美少女によるとわたしのは実際に使ってみると普通のヘテロのとは違うらしい。やはりペニスも天才であると(´・ω・`)

最後は笑いに換えるから今の右翼に嫌がられるかな(´・ω・`)

わたしは普通のおじさんにはなれないんですから(´・ω・`)

わたしは立教大学法学部や日大経済学部をしばしば褒められるのですが。立教も日大も決して実力ではない。現役時代の本命は東大文I滑り止めが早稲田政経。どちらも滑っているので大きな事は言えませんが、立教が実力相応であったという世間の目には納得がいっていない(´・ω・`)

海城で上位40%に入るというのはハッキリそういうこと。わたしの従兄弟のお兄さんは法政大学を出て非正規雇用を転々とした後、原病院の看護助手として薄給激務をこなしている。親戚の贔屓目かもしれませんが他の正看護師と比較してもずば抜けて仕事ができる(´・ω・`)

「看護師をするのに英語や数学が必要なのか?」という連中は伊東乾が指摘していた「哲学や文学をするのにベクトルや関数が必要なのか?」というB級東大教員と同じ人種にわたしには映る。養老孟司先生の指摘するように「すべては繋がっている」のである。

学術の素養が多いほど良い仕事ができるのは当たり前のことです。別にできない人間にやれとは言っていない。できる人間に権限を集中させればいいと言っているのである。インテリというと語弊があるので碩学としますが。この碩学をないがしろにしてきたのが平成の失われた30年ではなかったか(´・ω・`)

平成の失われた30年の正体は緊縮財政の30年であったが。一方で、碩学をないがしろにしてきた30年。わたしも就職活動を進める中で様々自己分析してきたが、わたしが就職できない理由はスペック足りないのではなく逆にハイスペックすぎるから(´・ω・`)

われわれの世代はロクに学校も出てないような連中が正規社員、既得権益層としてのさばっていて、中途採用のインテリ、碩学たちを意図的に排除しようとしているという印象を受ける。原病院の従兄弟の例、或いはみらいずでのわたしの仕事ぶりを見ても明らかに凡人とは違う。見る人が見れば分かるはずだが。

現在の既得権益層が自分の能力に自信があるというのなら試しにわたしを採用しても問題ないのではなかろうか。或いは文学賞の選考委員にしても。疫病から逃れるようにわたしが世の中に出ることを避け続ける理由の真意はどこにあるのだろうか。

仕事をやらせてできないからクビ、本を出して売れないからクビならまだ分かるが。今のままではわたしも納得のしようがない。わたしを否定するというのならばわたしを超える仕事を成功させてからするべきだ。現状が正当な評価とは思えない(´・ω・`)。

誰に対する怒りか?基本的にはLGBT研究職で不採用だった株式会社明日葉や博報堂傘下のLGBT研究所などである。彼らは「LGBTの研究」を読んでいるはずだ。ジェンダーに関してわたし以上に正確な科学者がいるであろうか(´・ω・`)

「LGBTの研究」だけではない。「イトー派経済学」「マルチアカウントの研究」「恋愛哲学」「多則の研究」「コロナの研究」「気候変動の研究」「統合失調症の研究」「神々の正体」「21世紀のフェミニズム」「ヘテロの哲学」「ホモの哲学」「社会民主主義革命」。そして「碩学の研究」。まだまだある。

なぜ企業の人事担当は専門家しか想定していないのか。「LGBTの研究」「イトー派経済学」「恋愛哲学」などは単体でも専門性に耐え得るが。わたしは基本的には文理横断、総合知。そもそも人生の究極の目的も「碩学の研究」である(´・ω・`)

もし9年前わたしが祝一を追い出されることなく勤め続けていたら、今頃取締役になって家庭も築いていたであろう。デタラメを並べわたしをクスリ漬けにして6年間も強制入院させて人生を破壊した医療や行政に憎悪が募る。ただもう引き返せない段階までクスリ漬けにされてしまった(´・ω・`)

精神医療のやり口というのは監禁(強制入院)させてクスリの服用を強要する。拒否すると、絶対に退院をさせない、場合によっては筋肉注射などをして薬物治療を強制する。精神医療の本質とはクスリと暴力である(´・ω・

精神医療に人生を破壊されすべてを失った人間はどこへ行けばいいのか(´・ω・`)。

結局9年前、「碩学のファインマン事件」のときに断薬し精神医療と決別するのが唯一の正解であったのだと思う。本当に。医療や福祉というのは責任責任うるさい割りには実際に責任など取らないし。みんなデタラメである(´・ω・`)。

もう文学界全体で情報共有されているそうです。わたしには絶対に文学賞を与えるなと。どうやらわたしが敵対している相手は想像以上に巨大らしい。松井財閥もわたしを排除する方向で結託している。八方塞がりです(´・ω・`)。

わたしが「学」を強調するので学歴至上主義者のように思われているかもしれませんが、決してそんなことはなく。学歴も職歴もその人間の価値観や時の運に左右されるもの。学があれば当然評価の対象にはなりますが、ないならないで違う長所を探します(´・ω・`)

学校なんか全然出てなくても、深い見識鋭い洞察力を持った賢人おられますよね。或いは朴訥でも仕事をさせるとズバ抜けてできる背中で語るタイプも。当然リスペクトしていますし、誰が何をできる人なのか早めに見極めておくのはチームで仕事をする上でとても大切なこと(´・ω・`)

福祉の世界には「ストロレングス」という考え方があるそうですが。できるだけその人間の弱点ではなく長所にフォーカスしていく。ストロングポイントに注目してできる仕事をなるべく与えていく。これは人間を肯定的に見るために素晴らしい哲学だと感じました(´・ω・`)

わたしも就活であり文学賞の選考であり。枝葉末節のウィークポイントばかり指摘されて誰もわたしの本質を見て評価してくれない、誰もわたしと正面から向き合おうとしない。そういう48年間の人生であったので。「ストロレングス」という概念には膝を打つ部分があった(´・ω・`)

私の創作研究は基本的に無料ですが、経済的に余裕のある大人にはサポートして頂けると大変ありがたいですm(_ _)m。