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ホン雑記 Vol.156「病まないためにやってたこと」

おととい、こんな記事を書いた。
死にたがる若者を捕まえて、タグで生きろ生きろと煽っている記事だ。本文よりもタグ群のほうがメインというウワサもある。ない。


なんでこんなに無責任に生きろ生きろと言うのかというと、文中にも書いたが父親に死なれたからだ。
いまとなっては、重症急性膵炎で死にかけたことと同様、自殺者遺族であることは自分の輪郭を確かめられるなんとも適切な烙印になったが、それは遺族だからそんな頭に変容しただけであって、まだ生きている者に対してはそりゃぁ厳しくあたるぜーって話なのだ。そう簡単には死なせないよーってな。

死にたがりのおまえらが死ぬことで、どれほどの苦痛をたらい回しにするのか考えたこともないだろう… って、そりゃ考えられるわけもないわな。自分の命を絶つなんてことは、生物としてあまりにも異常事態なんだから。「そっか分かった。たらい回し良くない。僕、死なない」なんてことにならんのは痛いほど分かる。

それは死なれた人間も、自殺を意識するからだ。
だから死なれた人間にしか「たらい回され」は意識できないんだろう。それでも、これ以上たらいを回しちゃいかんことだけは分かる。なんとしても自分が、生に対する負の感情の連鎖を止めなければならない。


親が離婚すると子の離婚率が上がると言われる(ともに離婚した親を持つ夫婦同士だと3倍近くまで上がる)。
長年の研究で分かったことらしいが、その理由は「離婚に対する概念が変わるため」だという。両親の仲の良さなどは関係なく、簡単に言えば「離婚という解決方法を目の当たりにした」ということだろう。

面白いもので、親が自殺した子の自殺率は離婚の場合の比ではなく、24倍にまで跳ね上がるというデータがある。いろんなデータがあるんだろうが、オレが絶望の中ネットで辿り着いてしまったのはその数字だった。
って、全然おもろないわ。

とにかく、「知る」ということはそれだけの影響をその者に与える。24倍という数字を見ることでも、その影響はまた濃くなる。
「あぁ、やっぱり自分もダメなのかもしれん」というあの感覚は、筆舌に尽くせるものではない。まさに腑に落ちてしまうという感じだ。事実なのだと理解してしまうのだ。あとにならないと、それが自己洗脳だとは気づけない。死にたがりと一緒で。

前置きが長すぎた。
そんなわけで、オレが闇落ちしないように当時していたことを挙げていってみよう。


五感を使う

まず、落ち込んだその頭では、ロクなことは考えない。その死にたい病はあなたの精神の産物ではなく、脳の誤作動なのだ。生物として自殺なんてことは明らかに異常事態なので、人間の脳のほうがおかしいのだと早く気づくことだ。
ネズミの集団自殺説とかもあったが、あれもウソで自殺する生物は人間しかいない。細胞死のアポトーシスは除く。
なので、人間の脳が異常。異常事態に脳なんかいらん。

仏壇があんな形式なのは、営々と続いてきた、先祖たちの死者への慰めなどではない。生者への励ましだ。
あの金ピカや色とりどりの花、お鈴の音、線香の匂い、手を合わせたり数珠を持つ儀式、これだけでも四感を押さえている。そのあとはみんなでご飯を食べて味覚を刺激して完成だ。
誰に聞いたわけでもないけど、結構イイ線いってるんじゃないかこの説。五感を使え、考えるなと先人たちは教えてくれているのだ。
それは「大切な人に死なれるのはつらいよなぁ。でもなんとか生きてくれな」っていう祈りにも感じられないだろうか。ってか、感じろ。

これを続けるには、小学校の頃の時間割のようなものを作って、それに従って生きるのがいいかもしれない、と思っている。


プライドを捨てる

まぁ、これが難しいのは百も承知だ。でも、陳腐な言い方だけど、死ぬぐらいならできるだろう。
黙ってやれ。ってか、やってくださいお願いします。

オレは猛烈な劣等感と罪悪感のなか、「よし、もう一度赤ん坊からやり直そう」と腹をくくった。「もうこの頭では無理だ、一度死んでみよう」の境地だ。瀬戸内寂聴氏が「自殺するのとまったく同じエネルギーで、出家しました」と言っていたが、それと同じぐらいの決意だった気もする。

どうせ肉体的に死ぬぐらいなら、プライドや自我など一度捨ててみようかと思えたのだ。これができないと、小学生の時間割に沿って生きるのはしんどいかもしれない。劣等感がえげつないからだ。でもどうせ死ぬ気なんだったら別にいいじゃないか。自我だけ殺せないものなのか、実験してみれば。

童話に触れたり、朝顔を育てたり、数字パズルしたり、工場見学に行ったり、鉄棒やったり、ねんどをこねてみたり、絵の具を買って来ておえかきしたり、歌ったり、料理作ったり、釘を打ってみたり、歩いて道草くってみたり…。
本当に鬱症状に効く項目のオンパレードだ。一度騙されてみなさい。

頭で考えずにやってみることだ。散歩中にフェンスなんかを見かけたら、指を這わせてブルブルブルブルと遊んでみるのだ。「なぜそれで良くなるのか」と考えないことだ。いったい何度言わせるつもりだ。


ふざける

まぁ、これが難しいのは千も承知だ。
いや、でも仕事だからさ。これ落ち込んだ時のさ。重要なさ。

あなたの気分とかどうでもいいんだよ。仕事なんだから。ステージでスポットライトを浴びてるあのスターにだって、歌いたくない日があるなんて考えたことがあるかい? スポーツ選手もそう。でも仕事だからね。

ひとまずは生きることが当面の課題であるあなたには、ふざけることが最重要作業だ。これが少なかったからこそ死にたい脳になりやすいってのもある。脳は効率しか考えてないんだから。会社や社会の縮図は、脳。
そんな成果主義の臓器のいうことを聞いていてはいかん。脳を従えなさい。いち臓器に従ってどうするんだ。

オレはウルフルズの「ええねん」の替え歌で結構気分が良くなったことがある。気分が良いから歌い始めたわけでは決してない。
「○○○(下ネタがいい)もぎとったらええねん」「すりつぶしたったらええねん」「取り揃えてみたらええねん」などなど、コツは「やめないこと」だ。やめられなくなる感じを掴むまでは。30分ぐらいはやるといい。
アホくさくなっても、とにかく続けるのだ。これがなんになると、理由を問うてはいけない。そのうち既存の何かが崩壊しはじめる。瞑想に似ていたのかも知れない。
常識で測ってはいけない。脳に「この主アホなん?」と思わせよう。


ホーミーをマスターする

ふざけているわけではない。モンゴルのあの歌唱法、ホーミーだ。
そう、低音を歌いながら、口笛を吹いているかのような倍音が聞こえてくるあのホーミーだ。極めてくるとひとりでハモれるようになる。死ぬぐらいならこれをマスターしてみることだ。

これ、間違いなくホーミーじゃなくてもいいと思う。が、カラオケに行けというのとはまた違う気がする。ひとつの音をずーーーーーーーーっと出し続けるのだ。同じ音程で同じ音量で、延々とやる。ただ、やる。

個人的には、声帯の振動が脳なのかカラダなのかに影響を与えているのではないかと思う。死に向かいたがる脳を、無理矢理カラダを振動させることで真反対に向かわせるイメージだ。微視的には固体の中でさえ物質は動いている。ともかく動こう。

ガムを噛む、ドラムを叩くなども効果的だ。風船を1日100個膨らませるとかでもいいかもしれない。絶対に、やる前とは気分が違うはずだ。やり終えてまた落ち込みに気づいてきたら、またやる。
とにかく束の間でも脳を黙らせよう。


冷たい、寒いをさける

意外に温度はだいじだ。こんなものにさえ精神は影響を受けている。寒いのは心さえもそうさせてしまう。南国人は明るいというのはあながち思い込みでもないのだ。常に汗ばんでいるといい。
ロシア人があんなにエネルギッシュなのは、しらん。



正直、書ききれんわ。このへんにしとこ。
実は「泣き続ける」のも最高にいいんだけど、これは人を選ぶかもしれない。泣くことに、弱さや恥や「うわぁ、自分泣くほどつらいのか」を感じてしまう人は余計落ち込んだりするかも。

プライドをすでに捨てられているなら、そうは思わない気もするけど。


ちなみに結婚してからオレが勝手に作った家訓は「ふざける」だ。個人的には、何を差し置いても最優先すべきことだと思っている。地に足つけるとか、オレはパス。


その背中から、「べき」と「ねばならない」の積み荷を降ろせるといいね。




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