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闇に病んだ世界

人生相談の様子を記した動画や文章にハマっている。最近はもっぱらYouTubeでの武井メンターの受け答えがお気に入り。
いやいや、咲のほうではない。壮のほうだ。


「なんか死にたがるヤツ多いなぁ」と嘆いていた。オレも少々嘆いている。
武井氏にしてみれば「死にたい」というメンタリティなど微塵も理解できないだろうが、日本一頭のいい彼は(あれ、西野氏は?)、自分のマイナス点や反省点などから思索をたどって、リアルな経験を踏まえたかのように的確にアドバイスする。

「いつかいいことあるさ」などといった前向きなことは一切言わず(この優しさももちろん好きよ?)、相談者がいかにいまの自分の幸福に気づけていないのか、この国に生まれたことがいかに幸せなことなのか、そして、感情のことはさておいて、具体的なやりようや数字を交えたりして、ひとつずつ闇を潰していく。
言い尽くせることはもう全部言った、というようなアドバイスのあとで、「それでもどうしても無理だったら好きにしな。根本的には死にたいとか分かんねーヤツだからこんなアドバイスしかできねーんだわ」と締める。
「厳しいかな?」と付け足して。

本音中の本音だと思った。
釈迦が蜘蛛の糸を垂らしても、それを掴んで登っていく気力のない者は、釈迦にだって救えない。
武井氏を釈迦になぞらえるわけではないが、少なくとも自分で助かろうとしない者は、誰も救いようがないのだ。

その気力のない者を、いったいどうしたらいいのだろうと常日頃から思う。
わりかし身勝手なオレがこんな考えに囚われ続けていられるのも、父親の自殺という一大事イベントの賜物である。
オレも機嫌というかバイオリズムというか、そんなものが低次元である時は「死にたいヤツのことなんか知らんがな。なんでエネルギーのないおまえらのことを引き上げたらなあかんねん」と思うのだが、皮肉なことに、彼らに掴み取ってほしいのはそんな身勝手さなのだ。
やわらいだ分のオレの身勝手さを分けてあげたい。


自殺の話が出るたびにいつも思うことがある。
「盗賊」というなりわいについてだ。

海賊でも山賊でもなく、最初に盗賊という仕事を知ったのは小学生の頃だったか。初期の頃からロールプレイングゲームの舞台に見られる、戦士や魔法使いなどに次いで頻出する役割だ。

当時のオレは「なんでこんなもんが職業なんだ? ダサっ」と思っていた。力も魔力もなくて、移動方法や開錠に長けていたりするだけの、ファンタジーらしからぬまるで普通の人間なのだ。

何より、「そんな悪いヤツ、いたらダメじゃん」という思いが激しく強かった。排他的なオレは「悪いことするぐらいなら死ねばいいのに。なんで生きてるの?」とさえ思っていた。
ほんのわずかの酸いと甘いを飲み込んできて、そういう風に世の中は回っていないことを思い知った。その時に、実は自分の中にさして善性がなかったこともついでに思い知った。


こんな考え方は人としては間違っているのかもしれないが、そんな盗賊たちの生きる意志をもっと見習うべきだと思うのだ。日本人は特に。

細胞が入れ替わってひとつの生命体を営々と維持していくことと同様、究極的には個よりも種のほうがだいじなのかもしれない。
だが、生命は、人を殺してでも糧を得なければいけないと思うほどの意志のかたまりなのだということを、思い出してほしいのだ。

それほどに、生を与えられた生命体は生きなければいけない。あーだもこーだもない。
ちょっと気取って「生だけがすべてではない」と飛躍してしまう安い心根も分からんではない。
いや、だいぶ分かる。こんな身勝手なオレでさえ、生きるのに向いてないといったい何度思ったことか。
それでもそんなことは脇に置いといて、生きなければいけない。あーだもこーだもない。

人は人を殺してでも生きようとすべきだ。
これは善悪や正否の話をしているのではない。人を思いやらないという話でもまったくない。

手段を選ばず、生きなければいけないというのだ。なにがどうあろうと。
その上でこの説を転じれば、それは他人の命にももちろんそれほどの重みがあり、殺すなということだ。我も人も。



この口下手な訴えよりも、もっと刺さりやすい作品がある。藤子・F・不二雄氏の「カンビュセスの籤」だ。

生命がなぜそんなにまでして生きねばならないのか、その答えに迫るような想いが詰まっている。
古本でもちょっと高いが、生き苦しい人には、あらすじだけでも目を通してほしいと思う。


それでも、どーーーーーーーしても無理だったら、好きにしな。




いや、やっぱり生きろ。







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