【音楽】今こそ聴くべき”いとうせいこう”の名曲『噂だけの世紀末』
先日の夜、弟とラップ(ヒップホップ)について話をして盛り上がっていた。弟はヒップホップについて私よりはるかに詳しい。色んなアーティストを知っているし、技術論についても私よりはるかに精通している。
一方の私は、最近で言うと、Creepy Nutsやヒプノシスマイク等を聴くようになったが、それは単に耳に心地よいからで、特に詩の内容を味わったり、技術的にどこがすごいのか、どこで韻を踏んでいるのかなどはまったくわからない。
「フロウ」という言葉もヒップホップを評価するときによく使われる言葉であるが、私は最近になってようやくこの言葉の意味するところを理解したばかりである。フロウというのは音楽に対する言葉ののせ方のことである。たとえば、同じ音楽であっても言葉ののせ方が人によって違う。その違いを楽しむのである。もっと平たい言葉でいうと、歌い方、歌い回しのことである。
このようにヒップホップの超初心者の私が弟とヒップホップの話をしていると、弟から「兄貴はどんなヤツが好きなの?」と聞かれた。私は好きと言えるほど聴き込んでいるヒップホップアーティストがいなかったものの、こう答えた。「私はいとうせいこうが好きだな」
いとうせいこうはラッパーとして1985年に活動を開始し、1986年にアルバム『建設的』を発表するなど、日本でヒップホップカルチャーが普及する前からラップで表現を行っていた(しかも単なる海外のラップの模倣ではなく、日本語の表現方法の一つとしてラップを追求した)表現者の一人であり、日本で先陣を切ってヒップホップカルチャーの普及に尽力した、いわば、日本ヒップホップの始祖の一人である。
いとうせいこうは、1988年に作家デビューした『ノーライフキング』や1999年に発表し、講談社エッセイ賞を受賞した『ボタニカル・ライフ』、そして近年では、2013年に発表された東日本大震災について描かれた小説で、野間文芸新人賞を受賞した『想像ラジオ』など、文筆家としての方が名前が売れているだろう。
また、最近(といっても10年くらい前?)ではバラエティー番組でくりぃむしちゅーと絡むおもろいおじさんとか、みうらじゅんと仏像めぐりをしている仏像マニアなど、「文筆家でちょっとおもしろいこともやってるおじさん」くらいが世の中の大多数の認識であろう。
最近のヒップホップ事情に詳しい弟からしても、私から”いとうせいこう”という名前が出てきたのは驚きだったようで、「いとうせいこうってラッパーなの?本書いてる人じゃないの?」という反応が返ってきた。近年のヒップホップに精通している人たちの間でもいとうせいこうを聴く人はそんなに多くはないようだ。
そんなことは置いておいて、私はいとうせいこうの中でダントツに好きな曲がある。1989年に発表されたアルバム『MESS/AGE』に収録されている『噂だけの世紀末』である。
この曲が発表された当初、日本は今のような文明的に発達した国家になってから(特に第二次世界大戦後、テレビをはじめとするマスメディアの発達により世の中に情報が溢れるようになってから)、初めての世紀末(2000年)を経験する前であり、その2000年が近づく頃には、「ノストラダムスの大予言」や「2000年問題(Y2K問題)」などが世間を騒がせていた。発表時期的にこれらの問題を具体的に想定して、いとうせいこうが歌詞を書いていた可能性は低いと思われるが、この種の危機・問題が起こることは予見していたのではないかと私は思っている。
この曲は、アルバムタイトルにもあるように、MESS(混乱)なAGE(世代)に向けたMESS/AGE(メッセージ)であり、上記のような「21世紀に移行するときの混乱」について、そして、「実体のない噂をたてて騒ぎ立て、実際にはいろいろやり方はあるのに、自分で自分の出口を塞いでしまうということ」について歌った曲だ。
歌詞全文を以下に示す。私はこの歌詞が非常に好きだ。
作家らしい力のある言葉が並んでいる。1行1行にメッセージが込められていて、それに圧倒される。私はこの歌詞の以下の部分に自分を重ね合わせた。
私は悲観的な人間で、何かに追い込まれる(たとえば、仕事でミスをするとか)とすぐに「もう終わりだ…死ぬしかない」みたいな気持ちになる。この曲は「そういうものも自分でつくった噂に過ぎない。実体のないものに踊らされてはいけない。いちばん出口を塞いでいるのは噂をつくって騒ぎ立てているあなた自身なのだ」ということも言っているのだ(と私は解釈した)。自分は卑近な問題に照らし合わせてそう受け取った。
歌詞の中に「これは私のことを言っている」という部分があると、人はその歌詞につよく共鳴する。私もその一人だ。いとうせいこうの放った力強い言葉の一つ一つが私に突き刺さった。
もう少し、スケールの大きな話で言うと、東日本大震災のときの「食料をはじめとする物資の買い占め」なんかもそうなのではないか。また、2020年に入ってから起こった(主にSNS上での)新型コロナウイルスの蔓延によって紙の生産工場がストップしてしまうという噂に端を発した「トイレットペーパーやティッシュペーパー等の紙製品の買い占め」や「消毒に必要なアルコール製品の買い占め」なんかもこの歌詞を思い起こさせる。
この曲の最後は一気にバイブスが上がり、「絶対の孤独を」というフレーズを連呼して終わる。この「絶対の孤独」というフレーズは坂口安吾の一篇『文学のふるさと』からの引用であることがいとうせいこう本人からTwitterにて明かされている。
恥ずかしながら、筆者は無学のため、この記事を書くまで『文学のふるさと』については未読であった。しかし、手元に坂口安吾の代表作『堕落論』があり、その中にこの『文学のふるさと』が収録されていることを知った。分量もたった10頁であったので、その場で読んでみることにした。たった10頁の一篇ではあるが、坂口安吾の文学の捉え方や感じ方について語られていて、その鋭敏な感覚を理解することは私には難しかった。よって、この「絶対の孤独」というフレーズの真に意味するところはわからないというのが正直なところであるが、せっかく読んでみたので、その一節を引きつつ「絶対の孤独を」が意味するところを考えてみようと思う。
坂口安吾は『文学のふるさと』にて、モラルのない作品の美しさ、つまりむごたらしい美しさについて語っている。シャルル・ペロー作の童話『赤頭巾』を次のように評している。
一見モラルがなく、むごたらしい物語ではあり、戸惑いながらも、そこに美しさや、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を感じると坂口安吾は述べている。
また、坂口安吾はこうも述べている。
これはモラルがないこと自体は一見むごたらしく、凄惨であるが、美しさを孕み、我々人間の「ふるさと」である。それは文学として成り立たないように思われるけど、我々が生きる上でモラルのない事象に遭遇することは避けられない。だから、モラルがないということは、我々の人生のリアルを映しだすということでもあり、それはむごたらしくもあるが、本質的には我々の心の内にある、「絶対の孤独(生存の孤独)」とリンクしており、そこにおいてはモラルでもある。そこに著者(坂口安吾)は救いを感じ、「ふるさと」を感じる。
さらに、坂口安吾はモラルのなさやむごたらしさだけでは、簡単に凄然たる美しさは生まれないとも述べている。そして、『赤頭巾』を含めた3つの物語をモラルのない、むごたらしい物語(しかし、美しさを孕む物語)として紹介した上で次のように記述している。
いとうせいこうは、最後のフレーズ、「絶対の孤独を」で、「世の中に溢れる情報(噂)に踊らされて自分で出口を塞ぐようなことをしてはいけない。本当に大事なことは自分で考えましょう」という表のメッセージとともに、「最後に、ここで述べたことは現実に起こるモラルのなさやむごたらしさを含んでいる。だけど、それは同時に美しくもあり、我々の『ふるさと(生まれた場所)』でもある。我々が現実のむごたらしさの中に美しさや救い、そして『ふるさと』を感じるのはそれが我々の心の中にある『絶対の孤独(生存の孤独)』にリンクしたものであるからだ。この『絶対の孤独(生存の孤独)』は、むごたらしく、(現実とは異なり)救いのないものであるが、救いがないことこそが同時に救いでもあるのだ(心的世界に救いがないことによって、救われることもある)。文学というのはそのような人生の救いのなさ、モラルのなさ(「ふるさと」)を意識・自覚した(直視した)ところに生まれる。これはそうして生まれた作品(文学)だ」という、いとうせいこう流の文学観を表現しようとしたのかもしれない。
因みに坂口安吾は『文学のふるさと』の最後をこう書き記して締めている。
正直なところ、私も坂口安吾の『文学のふるさと』を引用した、いとうせいこうの意図というか、心の内はハッキリとはわからない。坂口安吾の文学観も(私にとっては)理解しがたい部分が含まれている。特に「絶対の孤独」について語った箇所で述べられている「救いがないことこそが同時に救いでもあるのだ」という箇所については、私もあまり意味を汲み取れていない。これはいったいどういうことなのか?まだ、謎がある。ただ、坂口安吾の文章を読んでいて、いとうせいこうはヒップホップを一つの文学として捉えているのだろうとは思った。我々がモラルのない物語を見たときに、モラルのなさやむごたらしさを感じるとともに、そこに美しさや「文学のふるさと」を感じる。これは我々の心的世界である「絶対の孤独」とリンクしているから、そこに共鳴して起こる現象であり、文学はそのむごたらしさ、救いのなさ(「ふるさと」)を意識・自覚したところから生まれる。そして、そのようなモラルのなさやむごたらしさ(「ふるさと」)の意識・自覚から生まれた(それらを意識的に含ませた)文学は美しさを孕んでいる。それを象徴する言葉として「絶対の孤独」というフレーズを使ったのだろう(もちろん、先ほど言ったダブルミーニングの意図もあっただろう)。いとうせいこうは、このような坂口安吾に近い文学観をもっている(少なくとも影響を受けている)のかもしれないと私は思った。
弟によると、いとうせいこうのラップの技術じたいは今のラップの技術と比べると「大したことはない」そうだ。それは当然のことだ。どんな分野でもそうであるが、先人たちの作った土台の上に立って今の人たちは作品を作っている(あるいは活動している)のだから。先人の肩の上に乗って高みを望んでいるということなのだから。ただ、この曲に込められたメッセージの強さには感銘を受けたらしく、「今のラッパーでここまで強いメッセージを1フレーズ1フレーズにのせて歌える人は少ない」とも言っていた。
この曲は今こそ聴くべき曲だと思う。仕事など個人の問題で悩んでいる人にも、今世界を不安に陥れているコロナウイルスの問題にも、そして、これから起こるであろう様々な社会問題にも、あらゆる問題に通ずる普遍的なメッセージが込められた楽曲だと思う。ヒップホップに留まらない文学、アートの域に達している傑作だと私は評価している。
最後にせっかくなので、この曲を埋め込んでおこうと思う。この記事の私の文章には大して目を通す価値はないが、この曲を一度聴くことには大きな価値がある。
『噂だけの世紀末』/いとうせいこう
できれば、公式チャンネルからアップロードされた動画を使いたかったが、この動画しか見当たらなかったので、申し訳ないがこの動画を貼らせていただく。4分弱の楽曲なので、聴くのはそんなに手間ではないはずだ。ぜひ一度お聴きいただきたい。人それぞれ、どこかに突き刺さるメッセージ(MESS/AGE)が含まれていると思う。
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