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才能のない自分がつらい

父がブログを始めるらしい。内容は『リタイア後に副業で稼ぐ方法』みたいなことを書くらしい。始めから有料でやるつもりだと言っていた。

父は、もともと会社員のときから文筆活動でお金を得ていたし、会社を退職してからはそれを本格化させ、今では俳句や短歌等の講師業もやっている。今度は、そうやって稼いできた経験を売ってさらにお金にしようというわけである。

何にせよ、「特化した専門分野がある人は強いなあ…」と思う。父のブログが売れるかはまだわからないが、「稼げる◯◯」というのは、みんなが知りたい情報なんじゃないだろうか?どの媒体でやるのかは知らないが、noteでやるなら、たぶん、ある程度は売れると思う。

対して私はというと、毎日の出来事や思ったこと、そして「有益性」も「娯楽性」もない情報をただ漠々と書き連ねることしかできず、もちろん1円にもなっていない。

「芸は身を助く」とはよく言ったものだ。私には何の芸もない。マネタイズできる能力が存在しない。私が何十記事も書いて1円にも換えられなかったものを、才能のある人は一瞬でお金に換えてしまう。

最近、文章を書いていて「つらい」と思うことが増えた。それは、決して「文章が書けないからつらい」とか「ネタがないからつらい」というものではなく、「鋭利な文章が書けない自分の才能のなさ」とか「自分のお金を稼ぐ能力のなさ」を他人との比較によって、否が応でも感じてしまうからである。

私は再三、ウザいくらい、自分の文章についてこのnoteで(主に批判的に)言及してきた。私の文章には、先述のとおり、「有益性」も「娯楽性」もなければ、自分の人生経験の浅さゆえに「独自性」もない。しかも、人様の貴重な可処分時間を奪う「冗長」な文章だ。内容も薄いし、表現のバリエーションも乏しい。深い洞察に基づいた考察もできなければ、「専門性」もない。このように、私の文章の欠点なんていくらでも挙げることができる。

一方で、ネタさえ切らさなければ、そしてこのnoteみたいにくだらない内容であれば、書き始めさえすれば、あとは作業興奮である程度の文字数をある程度の時間で生産することができるというのは、この2ヶ月半くらいでだいたいわかった。

けれども、1円にもならない文章を書き続けて何の意味があるのだろうか?私の文章を読んで、何か刺激を受けたり、新しい分野に飛び込むきっかけにしてくれたり、ちょっとした暇潰しにはなったなと思って頂けていればいいが、どうもそれも実感できない。

noteはPV数やスキの数で、自分の記事にどれくらいの反響があるのかは、簡単にわかる。他人のnoteは、PV数は(著者が自ら公開しない限り)わからないが、付いているスキの数から、だいたいの反響がわかる。

このnoteを始めてから、およそ2ヶ月半が経つので、私より後からnoteを始めた方の記事もちょくちょく目にするようになった。あまり、他人と比較するのは、精神衛生上よくないのはわかってはいるが、どうしても比較してしまう。「noteを始めたばかりなのに、私よりもはるかにたくさんのスキがついている」「この人の書く文章良いなあ。私にはない視点だわ」とか思ったりして、「やっぱり私とは持って生まれた才能が違うのかな?」「私ホンマに才能ねえな」という自己無力感に襲われるばかりである。

また、人の文章を読んで、その美点や私の文章との差異を見つけることはできても、それらを元に自分の文章を改善したり、他人の文章の素晴らしい所を取り入れて、自分の文章にポジティブな方向への変化を引き起こすことができない。これも、私の無能力さゆえだろう。(何か変えようと思っても自分の能力によって制限されることが多い)

私は結構、苛烈に自己批判をするタイプの人間だと勝手に思っているが、その原因は、本質的には、自分に厳しいからというよりは、元々、他人に厳しく、他人を評価するときの眼差しをそのまま自分に向けたときに、自分の難点をたくさん見つけてきて、自己批判を始めるからということなのかなと思っている。他人に向けた刃は、自分に向かって返ってくる。基本的に、私は心理学の「OK牧場」でいうところの「④私もあなたもOKじゃない」領域に属する人間なのかなあと思う。(最近は「②私はOKじゃない、あなたはOK」の領域に移ってきているとも感じる【下図参照】)

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画像引用元:https://allabout.co.jp/gm/gc/301501/

やはり、私の精神性、「基本的に自分は無能力者で他人より劣った生物である」というのは、社会人になって働くようになってから変わっていないのだなと思う。

仕事をやっていたときも毎日が辛かった。同期が当たり前にできることが自分にはできない。物覚えが悪い。指示されたことすらできない。完全に「お荷物社員」である。会社にお金を引っ張ってくる能力が全くないのに、会社は私にお金を払って雇ってくれている。その罪悪感で日々いっぱいだった。今は今で自分の食い扶持を自分で稼ぐことすらできず、人様から支援を受けて生活が成り立っていることの罪悪感に日々苛まれている。でも、今のところ、自分の能力では何もできない。苦しい。

「自分は何もできない人間だ」と思いながらも、「その中でも少しくらいマシな能力、使えそうな能力はないか?」と思って、色んな抽斗を漁ってみて、やっと見つけたのが、文章を書く能力だった。もともと、自分の文章を書く能力に関しては、「文章を書く習慣のない人や書くのが苦手な人も含めた上で、平均を取った場合に、僅かに平均を上回るくらいの能力なんだろうな」くらいにしか思っていなかったから、大きな期待はしていなかった。自分の中で、僅かでも平均を上回る能力がそれくらいしかなかったから、仕方なく引っ張り出してきただけである。noteは一応、「趣味」として続けてはいるが、別に書くことが特段好きなわけではない。何か発想して、それを書き始めたら、自然と筆が止まらなくなって、そのまま書き続けて、気づいたら何時間かの時間が飛んでおり、目の前にはある程度形になった文章(一応、これが成果物)が存在するということが度々発生し、その結果の蓄積が今の私のnoteである。

私の文章は、別に小説ではないから、設定を練ったり、人物の性格やお互いの関係性、物語の筋、トリックなんかを綿密に考える必要はないし(できないし)、なんなら、小学校の国語で習うような「起承転結」すら意識できていない。完全に我流で思ったことをそのまま書いている。でも、それがウケないのだから、「やっぱ自分才能ねえな」というのをこの2ヶ月半でしっかりと理解した。

「才能がないのに、1円のお金も生めないのに、このnoteを続ける意味はあるのだろうか?」「私には他にもっとやるべきことがあるのではないか?」「早くお金を稼げるようにならないと生きていけないのに、こんなことやっていて良いのだろうか?」とnoteを書き続けることに対する負の疑問が次から次へと涌き出てくる。

一方で、「まだ、始めて2ヶ月半なのにもう挫折するのか?」「まだ、35記事くらいしかアップロードしていないのにもうやめても良いんだろうか?」「見切るのが早すぎないか?」という気持ちもあって、両者の間で日々ウジウジしている。煮え切らない野郎だ。しかし、私はこういう性格である。すぐには直らない。

2ヶ月半なのか3ヶ月なのかわからないが、その程度の期間でやめてしまう(今すぐやめると決めたわけではない)ということは、その程度の能力しかなかったということだ。それはそれで悔しい。数少ない私にもできそうなことを選んで、それを一度頑張ろうと決めたわけだから、色々やり方を試行錯誤して、まだ続けた方が良いのかもしれないと思うこともある。それもサンクコスト(主に時間、あとは、多少の手間)に縛られた考え方に過ぎないのだろうか?早く見切って別のことを始めた方が良いのだろうか?

「たった2ヶ月半で…」とか「たった35記事で…」とは言うが、今のPV数やスキ数の推移を見ていると、私がよっぽど何か読者に訴求する記事を書いて、バズらない限りは、現状は変わらないだろう。noteを含めたブログを初心者が始めるに当たって、挫折する最初の壁が30記事の投稿だと言われているが、それはもうすでにクリアした。特段、ムリをしているという感じもしないし、「ただ書くだけ」なら、まだ続けられそうだ。現に私は、まだアップロードしていない(もう完成していてあとはアップロードするだけの)記事のストックをすでに10件以上保持している。ストックをあまり消費しないように、新しい記事を書くことも今のところできている。

noteを始めた当初の目的に戻ってみよう。「私の中で比較的マシな『文章を書く能力』を使って、将来の細い収入の枝(の1本)にしよう」「そのために、文章を書く訓練(練習)をしよう」そう思って始めたはずだ。「35記事は私には才能がないということを理解するためには充分な記事数だったが、文章を書く『訓練』としては数が少なすぎるのではないか?」「だいたい、どこの誰ともわからない一般人のブログなんて、そんなにすぐにPV数は伸びないし、お金を生み出せるようになるにはもっと時間がかかるのが普通なのではないか?私は才人ではない。凡人以下なのだから、そんなの当たり前だ

今のままではダメなのは確かだと思う。凡庸な表現しかできないのがまた"アレ"だが、色んな人の文章を読んで、色んなことを考えて、たくさんネタを仕入れて、文章を書く訓練を積んで、自分の文章に「人の心に引っかけるフック」のようなものを作らねばならないだろう。人に訴求する文章が書けるようになりたい。「お金にこだわらない」というつもりで始めたnoteだが、それはある意味ではマネタイズという現実から逃げているということでもある。たぶん、「文章でお金を取ろう」と意識して、文章を書かない限りは、人から一生お金は取れない。それに、文筆家でも作詞家でも作曲家でもイラストレーターでも何でも、芸術(創作)に対する一番の評価は、創作者の作品をお金を出して買ってあげることだ。当然ながら「無料ならまあ読んでやっても良いかな」ということと「お金を払ってでも読みたい」ということの間には大きな溝がある。「その溝を飛び越えてまで、こちらにやって来てくれる人が出てくるくらい、人に訴求する文章が書けるようにならないといけない」みたいな気持ちは少しだが芽生えてきた。しかし、ここで気持ちが折れていてはそんなものは到底実現できない。

自分が磨けば光るダイヤの原石でないことはもう充分わかった。磨いても光らないただの石ころだ。父のような文才も芸もない。先ほども言ったが、最近、「いつこのnoteをやめようかな」と考えていて、それについて2本記事を書いた。同じようなテイストの記事で、もう1本ストックがある。先に書いておくが、ハッキリ言って皆様が読んでおもしろい記事だとは私は思わない。まあ、でも、読んでおもろいか/おもろくないかを判断するのは私ではなくて、読者の皆様だ。評価は皆様に任せる。

結局、今日言いたかったのは、私には、「文章を書く才能がない」ということと「お金を稼ぐ才能がない」ということが2ヶ月半かけて35記事くらい書いて、やっとしっかり理解できたということ(あまりに遅い)、そしてこの2点(あとは、他のnoteの著者の方との比較)に起因して、「もうnote書くのやめて他のことしようかな。その方が有意義かな」とわりと本気で悩んでいたということである(「誰も頼んでねえんだから、勝手にやめろ!」という非難の声が聴こえてくる)。結論としては、(鍛練のために)一応続ける。しかし、いつやめるかはわからない。みたいな感じだ。

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