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【音楽】ドラマー(仮)の物語

※この記事ではドラムの技術的な話はほぼ一切しない。ドラマーとしての私は箸にも棒にもかからず、といった感じで他のドラマーの参考になるところが少ないと思ったからである。今回はそれより、ドラマー(仮)としての活動を経て私が得たものについて語っていきたい。というわけで、ドラマー(仮)の物語を始めることとする。

ドラムをはじめた経緯

実は、私、大学の3回生くらいのころから、約3年に渡ってドラムを叩いていた経験がある。普通は大学の軽音楽部や軽音サークルなんかに入ってバンドを組んだり、ライブで自分の練習成果を発表する等するのが、真っ当な道だと思うのだが、私にはそんな度胸はなかった。

高校生時分に洋楽のロックにハマった時期があったり、父に連れられてジャズのライブに行ったりして、生でプロのプレイヤーの演奏を聴いて、「自分もこういう演奏ができたら楽しいだろうなあ……」という憧れのようなものはあった。だが、大学入学当初の私は、中学時代に受けた激しいイジメの影響もあって、ほぼ対人恐怖症という状態(たしか、社会人になってから、はじめて精神科にかかったときの病名の一つが『社交不安障害(一昔前の"対人恐怖症")』)であり、軽音楽部や軽音サークルに入って仲間と一緒に音楽をやるなんて勇気は一切湧かなかった。

そういう事情もあり、私の大学生活の特に前半(1回生~2回生)は、ただ、大学から与えられた課題をこなすだけで、サークルにすら入れない(勇気がなくて)、アルバイトもできない(人と関わるのが恐くて)、友達の1人も作れない、ただ自宅と大学を往復するだけという、主体性の欠片もない生活を送っていた。(いわゆる"ノンバイサー"であった)

ところが、大学3回生にもなり、そろそろ就職活動も意識するようになったときに、私は面接の場で自分の言葉で語れる経験が何一つないことに大きな危機感を覚えた。それで、何かをしなければならないという焦りや不安に駆られ、何かしようと思い立った結果が、1人でドラム教室に通い、ドラムを頑張ろうということだった。この時点でなんかズレている。(だって、ドラムなんて、基本的に趣味でやることなんだから、就活でアピールになるような活動ではないことに普通の賢い大学生なら気づくだろう。今となってはこの可笑しさはちゃんとわかっているが、当時は何でもいいから何かしなきゃ……という思いであった)。同時に、ドラムなら、音階がまったくわからない私でも演奏できそうという"舐めた"気持ちもあった(実際に、ジャズミュージシャンの間では、ドラムは楽器と見なされていない傾向がある。あるミュージシャン曰く「サルでもできる」とのこと)。まあ、そもそも、教室に通って誰かに習うという行為じたいが受け身であり、何ら主体性を発揮できていないのだが、当時の私としては「何でもいいから何か始めなければ。どうせ何かやるなら、自分の好きな音楽をやろう」という心持ちであった。

私のドラムの師匠(先生)について

そういった経緯で、私は『ヤマハ大人の音楽教室』の門を叩いた。私を担当してくれることになったのは、私の通っていた教室で一番人気の先生で、教えるのが上手だった。たとえば、楽譜が読めない私のような受講生に対して、リズムを伝えるときに、「このリズムは"伏見稲荷(ふしみいなり)"と同じリズムだよ」といって、リズムを卑近な言葉で例えて説明してくれたり、レッスン中になかなかうまく叩けないフレーズがあったりすると、複雑なフレーズを構成する単純な要素1つずつに分けて、まずその基本的な要素を叩けるようにしてから、その組み合わせで難しいリズムを叩けるようにと、段階を踏んで教えてくれたりした。受講生とのコミュニケーションもフランクで気兼ねなく普段の雑談なんかもよくした。私が大学で研究に携わっていたこともあり、ドラムの師匠(先生)は私のことを「師匠」という渾名で呼んだ。奇妙だなと思ったが、受け入れた。ある程度、打ち解けてからは、たまにレッスン後に飯を食いに行ったりもした。

私のドラマーとしてのセンスと集団レッスンゆえの悩み

人気があるだけあって、かなり良い先生だと思って、毎週レッスンに通うのを楽しみにしていたのだが、私にあまりドラムのセンスがなかったためか、上達がかなり遅く、集団レッスンで一緒に受講していた方たちの足を引っ張ってしまい、何度か心苦しい思いもした。他の受講生がグングン上達していく中で、私だけ明らかに上達が遅い。基本的に集団レッスンは、習熟度が同じくらいのメンバーで、同じ曲をマスターできるように、同じくらいの進行度でレッスンが進行していくのだが、私だけついていけずに、他の受講者だけ曲の先の部分の練習に進むということが少なくなかった。

最初にレッスンを始めたころは、一緒に受講していたメンバーが私より年下の中学生と高校を卒業したばかりの大学1年生というメンバーで私がいちばんの年長者であった。その癖、もっともセンスが悪く、上達も遅かったため、年少者の2人が次から次へとレッスンを進めていくのに対して私だけなかなか上達せず、置いてきぼりを食らうという非常に情けない年長者であった。たぶん、私がなかなか上達しないのを見て、一緒に受講していた2人は「コイツなかなか上達せんなあ……他のクラスに変えてえな」と思っていたに違いない。大学生の子の方は、ピアノの素養があって、ドラムのセンスもかなりあったのだが、私とレッスンを受けるのがあまり楽しくなかったのか、あるいは、レッスンを受けているがなかなか上達しない私の姿を見て、ドラムをやることに限界を感じてしまった(私の上達が遅すぎて、先生の教え方が悪く映ってしまった可能性がある)のか、それとも別の理由なのかわからないが、数ヶ月でレッスンを受けるのをやめてしまった。その子にとってのはじめてのドラム体験が私と一緒で申し訳ないなという気持ちにもなった。

おじさんとの出会い

その後、私が大学4回生になり、研究室に配属されたことにより、生活リズムが大きく変わったことで、レッスンの日時を変更することになった。そこで、一緒になったのが、たぶん40歳そこそこの大企業に勤めるおじさんだった。一昔前のロックバンドが好きで自分もバンドを組んでみたいという思いがあったが、学生時代にそれは叶わずといった経緯があったようで、ドラムを始めたらしかった。その方は、私と同じく、どちらかというと、不器用な方で上達もそんなに早くなかった。だから、私としてはあまりプレッシャーを感じずに気楽にレッスンに参加することができた。

このおじさんが、非常におもしろい人で、旅行が趣味らしく、休暇を取る度に国内/国外問わず、色んなところに旅をしてきて、その話や豆知識のような小話を私たちに面白おかしくしてくれていた。人生経験も豊富な方のようで、あまり多くを明かさなかったため、謎に包まれた存在であったが、人生の先達として、これから社会人になろうとする私に様々なアドバイスを授けてくれた。私がレッスンで指導されたことをうまく実践できずに落ち込んでいたときには、「一回の失敗で挫けちゃダメよ、一早く立ち直るのが大事。"悩む"のは基本的には時間のムダよ。"柳に風"のようなしなやかさをもたないと」とアドバイスされたのを覚えている。その頃から私の中で"柳に風"というのは一つの目標というか、そうありたいなという言葉のひとつになっている。今でも大好きな言葉だ。

一方、おじさんのプレイは柳のようなしなやかさはないが、とにかくパワフルだった。一打一打を全力で叩く。綺麗に"スパァーンッ"と響く音というよりは、少し硬めの音がぎこちないリズムで鳴るという感じの演奏で決して巧いというわけではなかったが、とにかくパワーがあって、おじさんのクソ真面目な性格が出ている"味"のあるプレイだった。少しくらいの失敗は持ち前のパワーで吹き飛ばしてしまえというような力強いプレイであった。基本的にマイペースな人であり、私が演奏しているときも、人の演奏などお構いなしに、ひたすら自分の課題に集中して練習するという人であったが(普通の人は、他人が近くで演奏しているとそれが気になって、少し耳を傾けたり、注意がそちらに持っていかれたりするものだがおじさんは違った)、時折、おじさんは私の演奏中、私のプレイをめちゃくちゃ真剣な眼差しで観察してくる。そしてプレイが終わると私にニコッと笑顔を向けてくる。「私のプレイに何か参考になるところがあったのかな?」と思っていると、いつもと変わらず、不器用だがパワフルなプレイをしてくる。「これが俺のスタイルだ!」と言わんばかりに。もともと、柔軟に人に合わせて自分のスタイルを変えるような人ではないが(笑)。

対して、私のプレイはどちらかというと、柔らかくしなやかなスティックさばきであるが、若干パワーに欠けるところがあり、最大の欠点としては、私の完璧主義な性格が災いして、一度ミスをすると、頭の中が真っ白になってプレイがストップしてしまうというところであった。なんでこうなるのだろう?一度失敗すると立て直せない。先生には何度も注意された。「君はしなやかで綺麗なドラムを叩く(特にスネアの響かせ方とバスドラムの足さばきが上手い)のに、一度失敗すると、演奏が止まってしまう。これは演奏を支えるリズム隊としては致命的だよ。失敗しても演奏を続けることが大事だ」と。しかし、これは、ドラムのレッスンを卒業するまで直らなかった。

発表会(小ライブ)で大恥をかいた話

ドラム教室では、年に数回、練習の成果を発表する発表会(小さなライブ)みたいな催しがあったのだが、先生からは盛んに「Kakknくん、これだけ練習したんだから、一回みんなの前で披露してみようよ!その方が絶対楽しいよ!」と発表会へ参加するように促されていたのだが、私は「ちょっと忙しいから」とか、何か言い訳を作ってはそこから逃げていた。前述の一度ミスをすると頭の中が真っ白になって、演奏がストップしてしまうという欠点を抱えたまま、発表会に出ると確実に恥をかくと思っていたからだ。そして、丁度その頃、大学の研究室の活動も盛んになっており、練習時間を確保するのがなかなか難しくなってきており、レッスンを欠席することも多くなっていた。だから、いざ発表会に出るとなったときにそのための練習時間を確保できるか非常に不安に思っていた。

しかし、そう思って発表会への出場を避け続けていては、「私はせっかくドラムをはじめたのに、何にもチャレンジしていない。これでは以前の私と何も変わりがないではないか。せっかくの機会だから、チャレンジのひとつとして、発表会にプレイヤーとして参加してみよう」そう思って発表会に参加を決めた。

結果から言うと、大恥をかいた。一応、研究室の活動と並行して、教室には毎回通い、それだけでは練習時間が足りないと思い、レッスンのない日にはスタジオを借りて練習もした。そして、私の技量にしては簡単な曲(余裕をもって演奏できそうな曲)を発表曲として選択した。

それでも、発表会の当日、約100人の聴衆を前にして、私の頭は真っ白になってしまった。発表直前に発表者の紹介があり、そこで一言コメント(意気込みのようなもの)を言ってから、演奏するのだが、一通り司会者に私の紹介(「大学で研究を頑張っている子で、めっちゃ素直でええ子なんすよ!」みたいな当たり障りのない紹介だった気がする)をしてもらった後、司会者にコメントを振られた時点で私の頭は真っ白だった。「どうしよう……練習してきたことがまったく思い出せない。」コメントも大したことが思いつかず「一生懸命、頑張ります!」みたいな何の面白みもないコメントしかできなかった。

事前のイメージの中で雄弁にコメントし、聴衆からひとウケ取っている私はそこにはいなかった。演奏もその微妙な空気感を引きずったまま、固い動きに終始した。先生から言われていた私の良さであるしなやかさが本番ではまったく失われていた。サビに入る前のところでひとつ大きなミスをしてしまった。そこで私の演奏は止まった。BGMだけが流れ続けた。そこから挽回することもできなかった。

パフォーマンス後に司会者から求められたコメントで「醜態を晒してしまってすみません。次こそはリベンジします」というようなことを言った覚えがあるのだが、聴衆が私を見る目は何か可哀想なものを哀れんでいる目であった。「あの人、何も練習してこんかったのかなあ……めちゃくちゃ下手くそだなあ」というのは言われずとも伝わった。マジで悔しかった。練習はした。それでも結果を見ると不十分だったということだと思う。緊張状態でも頭が真っ白にならないくらい練習すべきだった。楽譜が頭に入っていなくても(実際には楽譜は穴が開くほど読んで完璧に覚えていた)、自動的に身体が動くくらい練習すべきだった。失敗した後のリカバリーができるように練習しておくべきだった。あとから悩んでも遅い。このようにして私は大勢の前で大恥をかいた。

でもこれは必要な経験だったと思う。この経験によって準備がいかに大切かということが身に沁みてわかった。研究室において発表するときも以前より入念に準備をするようになった。苦手なプレゼンも原稿をしっかり用意してそれがそらで言えるようになるくらいの準備をするようになった。仕事をするようになってからも入念に準備をするようになった。その結果として、避けられたミスは結構あったのではないかと思っている。あとは、大勢の前に立って、何かを発表するという緊張感のある舞台も経験できた。これもなかなか経験できることではないし、決してムダなことではない。研究活動をしていたときの学会での発表も、このときの経験が活きた(と私は思っている)。どこかで、「私は恥をかいたが100人の前で演奏をしたんだ」という思いが、同じようにプレッシャーのかかる場に立つときに私の支えとなった。結論として、私の人生全体(まだ20余年であるが)で見たとき、この失敗経験は意味のあるものだったと今なら言える。「人生で経験することでムダなことなんて何ひとつない。」これは、一緒にレッスンを受けていたおじさんからも言われた。その通りだと思う。

新たな仲間の加入

発表会が終わった後くらいに、おじさんに加えて、もう一人集団レッスンに新たなメンバーが加わるという話を先生から聞いた。30代の女性だそうだ。その女性を含めて、おじさんと私の3人でレッスンをする日がやってきた。新しく加わった女性は非常に快活で明るい方でコミュニケーション能力が非常に高い方だなと思った。

この女性が加わってから、この方が社交的な性格であることもあって、先生や練習仲間と飯に行ったり遊びに行ったりする機会が格段に増えた。この方個人とも練習を一緒にするうちに仲良くなり、サシで何度か飯にも連れていってもらったり、こちらから連れていったりもした。元々ホテルの受付で働いていた方らしく、その片鱗ははじめて一緒に食事に行ったときにすでに現れていた。所作のひとつひとつが極めて美しい。箸の持ち方から、口元を拭う仕草、そして食事のときに音を立てない。この人、相当訓練を積んできた人で、只者ではないなというのが、1発目の食事会でわかった。ドラムの腕前も非常にセンスがよく、私とおじさんよりはるかに上達が早かった。このお姉さん(おばさんというのは失礼なので…(笑))がまず一番はじめに曲をマスターし、それに我々2人が追随するという形になることが多かった。レッスンに加わって最初のころは腕前は似たり寄ったりという感じであったが、すぐに経験の差はひっくり返されてしまった。

ドラムは運動に近い

私が経験した感想だが、ドラムというのは、音楽的なセンスももちろん必要だが、あれは一種の運動に近い。楽譜を読んで、「その通りに自分の身体を制御できるか」というところが演奏技術に寄与するところが極めて大きい楽器だと思う。ゆえに、運動神経が悪いとドラムの上達は遅いという傾向が明確にあると思う。因みに、私は運動神経があまり良い方ではない。中学校を卒業するまでサッカーをやっていたが、あまり良いプレイヤーとは言えなかった。ただ、その経験もあって、バスドラム(ドラムセットのいちばん下にある足でペダルを踏んで鳴らす低音のドラム)のペダリングは足の動きがしなやかで非常に上手いと褒められたことがある。これはサッカーをやっていた経験が活きたのであろう。一方で、腕の動きを自分の思った通りに制御するのは私にとって極めて難しく、ここでかなり苦労をした。楽譜に書かれているリズムを感覚的にイメージとして思い浮かべて、それを実際に再現するということがなかなかできなかった。結果として、あまり良いドラマーにはなれなかった。

集団レッスンに参加したことで得た様々な人たちとの関わり

集団レッスンに参加したり、発表会に参加すると今まで関わりのなかった、色々な人との関わりができる。これは集団レッスンに参加している一つの大きなメリットである。レッスンには個人レッスンと集団レッスンの2つがあり、私はレッスン加入時に集団レッスンを選択した。その理由として、ひとつは、集団レッスンの方が個人レッスンより料金が安かったということ、もうひとつは、私はもともとドラム教室に通うにあたって、ドラムを上達させるだけではなく、「趣味を通して、普通に過ごしていれば関わることのない人たちとも関わりをもって、人生経験のひとつになれば良いな」という思いがあったことが大きい。

集団レッスンに参加してから、発表会に参加してから、特に年上のお姉さんと一緒に練習するようになってから、そのお姉さんが非常に社交的かつ明朗な性格であったこともあって色んな人と関わりをもつことができた。違うレッスンを受けている人や講師ともよく飯を食いに行ったり、休日にはROUND1に遊びに行ったりもした。大学の同級生とはほぼ関わりを持てていなかった私にとって、ここが人との交流の中心になっていた。今は私が病気をしてしまって、会うのも気まずくなってしまい、直接会ったりすることはなくなったが、私の味気ない大学生活の中で数少ない楽しかった交流の思い出である。

就職とともにレッスンの卒業へ

レッスンも通い始めてから3年ほどが経ち、私も大学院の2回生となり、就職活動の時期に入った。その間2ヶ月ほど休会し、就職先が決まってから、復帰することを講師に伝えた。復帰して最初のレッスンで講師とレッスン仲間の2人に「中部地方の企業に就職することが決まった。なので、私が大学院を修了するタイミングでこのレッスンをやめることになりました」ということを伝えた。3人とも無事就職が決まったことを祝ってくれた。特におじさんは自分のことのように喜んでくれた。レッスン中も終始顔がニヤニヤしていた。

私の送別会にて、おじさんとの最後の会話

おじさんは私が最後にレッスンに参加した日のレッスン後、「焼き肉をおごってやるよ!何でも好きなもん食え!」と言って、講師と一緒に私を焼肉屋に連れていってくれて、送別会を開いてくれた。普段、あまり社交的なところを見せたことがないおじさんだったから、意外だった。店に入って焼き肉を食いながら、将来の話をたくさんした。「どんな仕事をするの?」「将来どんな仕事をしたいの?」「どういう社会人になりたいと思ってる?」とか色々。焼き肉を貪る私を見ておじさんは終始ニコニコしていた。レッスンのときに私に時折向けてくる笑顔と似ているが、少し違うようにも見えた。

そして、おじさんから「君と一緒に2年ほどドラムができてよかった。君がいなくなると少し寂しいよ。私は私で頑張っていくから、君も新天地で頑張ってくれ」と言ってくれた。最後におじさんから「これから仕事をする上で、色々つらいことがあると思うけど、あんまり真に受けちゃダメだよ。反省はしなきゃダメだけど。どうやって立ち直るかの方がはるかに大事だよ」という言葉を頂いた。これは普段の私のプレイを見ていて感じた私の欠点を指摘するような言葉でもあった。おじさんは私のことをよく見ていた。週一のレッスンとはいえ、何しろ2年近い付き合いだから。残念ながら、おじさんのアドバイスは実践できず、私は仕事で心が折れてしまったけど、この言葉は非常に印象に残っている。

おじさんは今もドラムを続けているだろうか?たぶん続けていないと思う。最後におじさんと喋ったときに「私も長いことドラムやってるけど、なかなか上達しなくてねえ……(笑)。会社の同僚には恥ずかしくて趣味でドラムをやっているなんて、とてもじゃないけど言えないよ。私もいつまで続くかなあ……」みたいな弱気なことを言っていたから。なにせ、もう最後に会ってから、3年と10ヶ月が経とうとしているから。それだけの月日が経てば、人も環境も大きく変わる。おじさんだって、何か大きく変わっているはずだ。そうやって変わったおじさんとも、いつかどこかでまた会って、言葉を交わしてみたい。

ドラムを介して出会った色々な人との別れと私がドラマー(仮)として活動した3年間で得たモノ

最後の私の送別会には仕事の予定があるとかで、一緒にレッスンを受けていたお姉さんは来なかった。卒業するまで前にお姉さんとももう一度喋っておきたかったなあという思いがあった。送別会が終わった後、先生と別れるときに「新しい土地に行っても頑張ってね!お姉さんも交えてまたお話しようよ!いつでも連絡してね!」と(社交辞令も交えて)言ってくれたが、それから一度も連絡していない。

本当は一度くらい会って話したかったが、私も病気をするなどして色々と状況が変わってしまった。さすがに無職の今(しかもめちゃくちゃ期間が空いている状況で)、いきなり連絡してもまったく相手にされないだろう。先生が今もドラムの講師を続けているのかもわからないし、続けていたとしても、この3年10ヶ月の間に新たな関わりがたくさんできているはずだから。なので、ほぼ100%(私が再び先生の講座を受講することがなければ)、もう会うことはないと思う。そもそもからして、先生と私は金銭を介して繋がっている関係で、決して仲間でも友達でもない。当時の先生からすれば、私は3年も教室に通って、お金を払い続けてくれる太客だから、サービスして色々やってくれていただけだ。冷たい言葉で個人的にはあまり好きではないが、「金の切れ目が縁の切れ目」というやつだと思う。

けれども、ドラム教室で出会った仲間(と呼べるかはわからんが私はそう思っている人)たちは、そういう金銭の介在した関係性ではない。同じものが好きで集まったもの同士で、仲良くなった仲間である。残念ながら、彼らともこれからの人生で二度と会うことはない可能性が高い(私が病気をしたこともあってもう長らく連絡をとっておらず、疎遠になってしまったので)。それでも私にとっては、彼らとの関わりは青春時代の大きな思い出として心の中に刻まれている。

ドラマー(仮)として活動していた約3年間は、私の人生に少なくない影響を与えている。特に、講師、練習仲間含む、様々な人たちとの出会い。彼らには色んなことを教えてもらった。特に大人になるとは、「色んなことを諦めること」「色んなことを許せるようになること」というのは、彼らと社会人になってから出会った人々とうつ病(双極性障害)になったことから、体得した視点である。これは私の今の人間性に幅・深み(自分で言うな!でも、実際に学生時代とは良い意味で"別人"になったとは周囲からよく言われるようになった)を持たせることに繋がっている。ドラマー(仮)の物語はこれにて終了である。読者の皆様、このような拙文を読んでいただいたことに対して、心から感謝申し上げる。

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