【雑感】「無の境地」に至りたい
今日も今日とて駄文を生産しよう。今回は、本日(2/10)ポストしたツイートをまとめた文章である。結局のところ、人間はハイテンションな状態よりも、「無」すなわち「ゼロ」が理想的な心的状態ではないのか?という話。
私が抱えている「躁鬱病」には、感情の波(躁鬱の波)があって、波の高い部分を「躁」、低い部分を「鬱」と定義する。
一見、波の高い部分にあたる「躁」状態は、「元気があって良いことじゃないか!」と思われる方も多いかもしれないが、実はこの「躁」状態、かなり厄介である。
急に気が大きくなって、謎の万能感が発生し、とんでもない浪費を始めたり、著しく活動的になり多動・多弁になる。そこで、人様にご迷惑をおかけすることも少なくないし、「躁」で活動的になった反動で、数日間(ひどいと数週間)、まったく動けなくなるなんてことも頻発する。
これ以外にも、ものすごく怒りっぽくなり(易怒性という)、他者に対して暴言を吐いたり、時には暴力を振るったりすることもある。私も何度か経験がある。これまで、ご迷惑をおかけした方々、本当に申し訳ない。で、この後も反動でものすごく落ち込む(激しい鬱が来る)。この繰り返しが「躁鬱病」である。
躁の期間、鬱の期間は人によって様々であるが、私が罹患している「双極性障害Ⅱ型」においては(あくまで私の場合)、だいたい1ヶ月単位で「鬱」状態が続いた後、ひょこっと数日間「躁」状態になる。そのときに、だいたい何かをやらかして(最近では頻度こそ減ったが)、その反動で激しく落ち込むなんてことの繰り返しが「躁鬱病」である。因みに最近の私は、「躁」状態と「鬱」状態が混合ぎみで、1日の間に「躁」と「鬱」が出現するという非常に厄介な状態になっている。感情が著しく不安定だ。さっきまで多弁でペラペラ元気そうにお喋りしていたと思ったら、急に元気がなくなり、布団に潜り込んで自室から10何時間も出てこない……なんてことがザラにある。
こういった現状を改善するために、私は毎日「炭酸リチウム」という薬を飲んでいる。これは、先述した「躁鬱の波」の振幅を穏やかにするための薬である。
このような病歴もあって、私は人間の心的状態というのは、正にも負にも振りきれず、ゼロに近いところを小さな振幅で往き来する、仏教で言われるところの「無の境地」のような状態が理想なのではないか?と考えている。
それで、今回話したいのは、巷でよく言われている「楽しんでやれるヤツ>頑張ってやれるヤツ」という不等式は、本当に正しいのかな?というところである。結論から言うと、この不等式は正しいと思うのだが、「楽しんでやれるヤツ」のさらに上に「苦痛なく(呼吸をするように)やれるヤツ」というのが存在しうるというところに落ち着いた。
ただ、我々人間の中に「無の境地」に達しているような者、すなわち「悟りを開いた者」は、存在しないと考えられる(そんなヤツは「人間」という種には属さない笑)ので、「無の境地」というのは、あくまで理想論に過ぎず、現実的には「楽しんでやれるヤツ」がいちばん強い(競争に勝てる)といえる。ただし、「無の境地」に近づいた(近づきうる)人間は存在すると考えているので、私は前段で「楽しんでやれるヤツ」のさらに上に「苦痛なく(呼吸をするように)やれるヤツ」というのが、存在"しうる"と表現した。
私がこんなことを言い出したのは、ここ数日、「躁鬱」の「鬱期」に入り始めている実感があり、noteで文章を書くことすらしんどいなあ……と感じ始めたからである。ネタ切れとかそういう話ではない。気力が湧いてこないという話である。
「やはり、私は文章を書くことに向いていないのだな……」と思い悩んでいるところに、楽しそうにnoteで活動しておられる方々が次々と目に入ってきて、正直なところ、物凄く劣等感やイラつき(自分に対しても他者に対しても)、もどかしさ(文章が書きたいのに書けない)を感じてしまい、その感情を浄化させるために、Twitterで以下のような発言をしてしまったわけである。
このツイートを目にした方の中には、「これ、私のことかな?」と思われた方もいるだろうが、私は特定個人を非難する意図をもって、このようなツイートをしたわけではないことは、ご理解いただきたい。あくまで自分の中に生じた「負の感情の浄化」のためである。
以下、私のツイート。(一部改変)
*ここでいう「苦労も感じない」は、「文章を書くという作業」に対して、特段苦労を感じることはないという意味で、「文章を書くやる気を起こす」のに苦労することは度々ある。
「涅槃」の定義について、手元にある仏教書から、ちゃんと引っ張ってこようと思ったが、今はそんな元気もないので、Wikipediaの記述を借りる。以下、Wikipedia『涅槃』からの引用。
Wikipediaの概要部分からの引用という非常に粗いやり方だが、上記引用部分の太字で示した箇所に、『すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張している』(インド宗教における「涅槃」)、『仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる』(仏教における「涅槃」)と、インド宗教および仏教のどちらにおいても、「涅槃」は「最高の幸福状態」あるいは「究極的な実践目的」と最も幸福な状態であり、目指すべき所とされている。
つまり、煩悩を捨て去って、悟りを開いた、心的静寂の境地こそが最も幸福に近いのではないか(インド宗教や仏教的には)という話。先述のツイートで例に出した、三角関数のグラフでy=0の状態。実はこれが「何かに取り組む際にも、最も強い心的態度ではないかな」と私の直感は申している。
まあ、最初の話(今回のお題)は「何か物事(主に仕事や勉強)に取り組む際に、どのような心的態度でいるのが、最もパフォーマンスが出やすいか?」という話であり、「涅槃」の話は「どのような心的態度でいるのが、最も幸福か?」という話である。評価軸が全然ちがうので、最も幸福に近い「涅槃」が、仕事や勉強で最も高いパフォーマンスを発揮できる状態であるということには直結しないのだが、最初に述べた自身の「躁鬱病」のエピソードもあり、私としては、この2つの評価軸は重なる部分があるのではないかと思っている。
ツイートでも述べたとおり、「楽しい」状態がずっと続く人は、おそらく存在しない。上振れ状態(「楽しい!」)があれば、必ず下振れ状態(「楽しくない……(苦しい……)」)もあるのが、人間という生物である(と私は思っている)。持病により、その思想を強くした。この振幅を小さくして、「静寂」の状態にもっていくのが、物事を継続して何か事を成すのに大事なことなんじゃないか?今はそう思っている。そして、続くツイート。(一部改変)
というわけで、「無の境地」だの「涅槃」だの散々述べてきた割には、最終結論は「楽しんでやれるヤツ」が現状いちばん強いという結論になった笑。なぜなら、「無の境地」に達することのできる人間など、基本的にいないから(だが、「無の境地」に近づける人間はいると思う)。それでも、私は「無の境地」には達せずとも、近づいてみたい。そこに達したときにどのような世界が見えるだろうか?
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