【Vtuber】『家長むぎ』というVtuber. note読みましたか?皆さん?〈クソ長感想文〉

※約30,000字の文章になります。むぎさんの本文の引用も含めてですが……。むぎさんの本文に関しては、むぎさんの文章の美しさ・素晴らしさ、そこに込められた(であろう)想いなどについて詳細に書きたかったため、ほぼ全文を引用させて頂く形をとりました。もちろん、主になるのは私の文章です。途中、どうでもいい私の蘊蓄や体験談などが語られ、「読むのが鬱陶しいな……」と感じられる方もいらっしゃると思いますし、長文を一気に書いたため、表現として拙い部分が散見されると思いますが、これも私の『等身大』です。現在の『等身大』の私で『等身大』の『家長むぎ』について書きました。気になったところを「つまみ食い」という形でもいいので、お目通し頂ければ幸いです。

■ はじめに

ここ数日、完全に躁鬱の"鬱"モードのスイッチが入ってしまい、ほとんどVtuberの配信を観られていない状況が続いているのですが、最近『家長むぎ』さんのnoteを読む機会があって、読ませていただいたところ、感銘を受けました。言葉選び(ワードセンス)には、その人の人間性や思考(のクセ)が表れるもので、同じ意味の表現をするのにも、どのような単語をチョイスするのかに書き手の個性が表れてしまいます。Vtuberという存在は言葉選び(ワードセンス)が非常に重要な仕事だと思っています。同一の現象に対するリアクションひとつにしても、言葉選びひとつで配信をおもしろくすることもできるし、逆に炎上してしまうこともあります。家長むぎさんのnoteからは発信者として、非常に慎重に言葉選びをされる方だなという印象を受けました。実は、これまで私は彼女のYouTubeチャンネルは、チャンネル登録こそしていたものの、通知設定をオフにしており、まともに配信を観たことはありません。そして、Twitterアカウントに至ってはフォローすらしておりませんでした。今回、家長むぎさんのnoteを読んだことをきっかけに彼女に1人の書き手として興味が湧きましたし、動画による発信において、どのような表現をされているのか、非常に関心を持ちましたので、通知設定をオンにして、配信を観てみようと思いました。家長むぎさんは、これまで、noteに6つの記事を投稿(実は5つの記事が投稿された時点でこの文章を書き始めたのですが、6つめの記事が投稿され、それが大バズりしちゃった笑ので、私が紹介するまでもなく、すでに知っている人も多いと思います……。これだけ美しい文章を書かれる方だから、いずれは大バスりして皆に捕捉されるとは思っていました)されていますが、一応全部に(なんとか)目を通しましたので、1つずつ紹介と感想を述べていきたいと思います。

◼️「noteについて」2020/11/30

家長むぎさんは2020/11/30からnoteを始めておられます。こちらの記事に関しては、noteをはじめるに至った心境やこれからどんなことを書いていきたいか。「最低月に1回は更新したい」といった目標を掲げておられます。本文の冒頭ではnoteをはじめるにあたって次のような心境を述べられていました。

本日、noteをはじめました。「いつかはやろう」と意気込む自分と「ま〜たやる事増やしてどうするの、何でも続かないのに....」とチクチク背中を突く自分、2人いたのですが、今日は意気込む自分が強かったです.... 。

ジキルとハイドのように「『いつか書くぞ!』と意気込む自分」と「それを抑止するようにチクチク背中を突く自分」がいたそうですが、どうやら前者が勝ったようです。文章でしか表現できないことってありますからね。2つめの記事でもむぎさんご本人が述べられていますが、配信では即興で言葉を選ばなくてはならないため、どうしてもベストな言い回しや表現ができない一方で、文章では事前に伝えたいことを整える時間があるため、自分にとってベストな表現をしやすいという性質があると思います。言葉選びに対するこだわりも後々紹介する文章から伝わってきます。書く内容は、視聴者からのお悩み返答、日常生活のあれこれ(Vtuberとしてのこと)、ぼんやりとした思考の垂れ流し、幸せのお裾分け(美味しいものの話が多そう)、映画や本の記録など多岐に渡るようです。記事の最後はこのような意気込みで締め括られています。

むぎの書く文章で、みなさんの生活や自分の活動に少しでも彩りや前向きな変化を与えられたら嬉しいなと思っています。

むぎさんの狙い通りになっているのかはわかりませんが、少なくとも私はむぎさんに文章の書き手として影響を受けました。後に紹介する5つの記事を読んでいただければ、その意味がわかると思います。

◼️「喋ることと書くこと」2020/11/30

私はこの記事を読んでむぎさんは「良い表現者だな」と確信しました。むぎさんが投稿された6つの記事の中では、この文章がいちばん好きかもしれません(失礼しました。この記事を書いている間に6つめの記事が投稿され、それを読んだところ、6つめの記事がベストです。なので、この記事は次点)。記事冒頭、以下の一節から始まります。

以前、Twitterのフリートにて(24時間で消える呟きのやつです。)【お喋りは口から脳で行う表現、執筆は脳から脳、そして指先で行う表現】と呟きました。140字では到底説明など出来ませんので、noteに残しておきます。

太字にした部分、【お喋りは口から脳で行う表現、執筆は脳から脳、そして指先で行う表現】というのはどういうことだろう?一読してそう思いました。この表現にむぎさんの発信者(配信者)ならではの感性が秘められています。上記の表現について、むぎさんは以下のように説明されています。少し長いですが、引用します。

人間は、脳で考えた事を口にしてお喋りをします。何かを質問をされたら、『えーと....』と一旦頭で考えてから答えたり、お喋りをしながらも、頭では今口にしている話題から次の話題に繋げる為に様々な事を考えているはずです。

しかし、むぎは【脳から口】ではなく、【口から脳】のお喋りが多いのです。それは何故か、考えてみると答えは簡単で、『配信でしか日常会話をしないので、お喋りの時に頭を使っている暇が無い』からでした。(配信外は声を発することはほぼ無く、コンビニすらセルフレジなので......)

配信の時は、ゲームの内容やプレイ、時間配分、時間差でのコメントを読む、話題展開をする、というマルチタスクを行わなければなりません。そうなると、どうも脳のリソース不足のようで.......ついつい、脊髄反射で言葉を発してしまいます。そして、誰かと【会話】というよりかは【一方通行の話】をしていることが多い為、どうしても相手の投げ掛けに『えっとね、それは...』と考えて答える時間が少ないのでしょう。雑談配信の時も、常に次は何を話そうかな、と頭を使っているわけです。

そんなこんなで、脳から口ではなく、口から脳のお喋りをしてしまうむぎです。配信中に、思いがけない造語が出来たり、『え、今なんて?』と2秒前の自分に問い掛けるのもそのせいでしょう。まるで、口がボケ、脳がツッコミ......。

私は、お喋りは【脳から口】、【口から脳】の双方向で行われていると考えています(引用したコメントの冒頭でも述べられているとおり、むぎさんも同様に考えておられると思います)。脳で考えたこと・思いついたことを口に出す。そして、口に出したことを脳で認識し、認識した内容に触発されて、また脳から発想が浮かぶ。そして、それをまた口に出す……というような感じです。

ただ、むぎさんの場合、配信者ということもあり、その(双方向の)比率が【口から脳】に寄っているということなのでしょう。配信以外のお喋りでは、脳を使って何を話すか考えることがありますが、配信では、ゲームをしながら時間配分や構成を考えたり、コメントを拾ったりといったように、マルチタスクを行わなければならないため、脳で話す内容を組み立てている時間がないのです。よって、脳起点のお喋りより、口起点のお喋りが増えるということのようです。そして、これは(特に生配信の)配信者独特の感覚だと思うのですが、むぎさん曰く「誰かと【会話】というよりは、【一方通行の話】をしていることが多い」そうです。誰かの投げ掛けに対して「えっとね、それは…」と考えて答える時間が少ないのだろうとも述べられています。相手の言葉を受けて、それに対して考えて返答するというプロセスを辿るよりも、ある種の「独演会」状態になってしまうのですかね。。私はYouTubeなどでの動画プラットフォームで配信をした経験がないので、このあたりの感覚については正確にはわかりませんが、先日、友人とオンライン忘年会をしたときに、完全に私の「独演会」状態となっている時間帯がありました。自分で話の構成・流れを脳で組み立て、それを一方的に捲し立てるように喋り、相手からの言葉を受けて返答するという脳の使い方をしていない時間がありました。自分の言葉に触発されて自分の言葉が出てくる、これがエンドレスに繰り返されるような喋り。これが、むぎさんの言う【口から脳】のお喋りに近いのかなと思っています。【口から脳】というのは、むぎさん独特の表現ですが、決して喋ることに脳を使っていないという意味ではないでしょう。現に話の構成や流れを自分の頭で考えていますからね。脳のリソースが他の作業に割かれることによって、相手の言葉を受けて返すという、コミュニケーションの「双方向性」が失われた状態のことをむぎさんは【口から脳】のお喋りと表現しているのだと思います。最後に「口がボケ、脳がツッコミ」と仰っているように、自分の口から発した言葉を自分で認識して、それに対する応答として、次の言葉が出てくるみたいな感じなのかなとも思います。そういう意味では、たしかに配信者のお喋りは【口から脳】のお喋りと言えそうですね。

そして、【執筆は脳から脳、そして指先で行う表現】という、これまた独特の表現で書くことについてお話をされています。私は書くことに関しては、あまりキッチリ構成を練ってから書くタイプではなく、とりあえず指を動かしてから作業興奮で書くことが次から次へと思いついてくるタイプの人間(書いたことを後から整えるタイプ)なので、書くことは【脳から指】よりも【指から脳】の比率が多いと認識しています。むぎさんのおもしろいところは、書くことを【脳から脳】と表現されているところです。以下、本文からの引用です。

そのボロを出しにくい表現こそ、『書く』です。今この文章は、むぎの頭の中で思った事を指先から形にしていますが、【脳から手】の表現ではありません。【脳から脳、そして手】こそが『書く』というもの。脳で浮かんだ言葉を、より理想的に伝える為に整えます。この表現は伝わり易いかな、これだと例えが多いかな、文末表現は.... この言い換えは....と文章のパーツをあれこれ弄る工程。これこそが脳をもう一度経由するということだと思います。

ほう……。【脳から手】に至るまでに、もう一度脳を経由していますね。「脳で浮かんだ言葉を、より理想的に伝える為に整える」ことをむぎさんは【脳から脳】と呼んでいます。「この表現は伝わり易いかな、これだと例えが多いかな、文末表現は.... この言い換えは....と文章のパーツをあれこれ弄る工程。これこそが脳をもう一度経由するということ」というのは、私も文章を書くうえでやっていますが、それを特に【脳から脳】と意識してやったことはありません。無意識のうちに刷り込まれた作業としてやっていました。むぎさんは、書くという作業を私より細かく分割して捉えており、素晴らしく細やかな感性で世界を見られている方だなと思いました。むぎさん流に言えば、私は【指から脳、そして脳へ】という書き方をするタイプの書き手なのだなという新たな発見もありました。表現に対する素晴らしい解像度をお持ちですね、むぎさんは。

この文章の最後で、むぎさんは文章の独自性や文章という表現の美しさについても述べられています。以下、引用します。

用いる単語や比喩の一つで、文章の色、形、文字の固まりを遠くから眺めた時(まだ文章の単語単語を噛み砕く前)の曲線は大きく変わります。美しい文章、読みやすい文章というのは、きっと文章のみためが美しいのでしょう。

(中略)

文章にすると、感情が伝わりづらい。そんな事も言われてはいますが.....文字だって、感情は伝わるはずです。喋り声に、抑揚があり、リズムがあり、声音があるように、文章にだって、文字列の曲線(ひらがな、漢字、カタカナを選ぶだけでも文章の雰囲気はガラッと変わります。)、オノマトペのリズム、用いる例えの季節感や、品格による独自性があるのです。

文章は生産する工程に時間をかけられるだけ、その人の思考の奥深い部分が出てくるように思います。お喋りだと、ときに思ってもいないこと(本心からズレたこと)を口走ってしまうことがあったりしますが、文章ではそのような"事故"は起こりづらいです。したがって、お喋りよりもより思考の深層の部分が現れやすいのが文章だと私は考えています。また、時間をかけて単語ひとつひとつや、助詞や接続詞、論理展開などを考えるため、そこにその人の思考のクセ(これが文章の"味"につながると思っています)が現れる表現方法だと思います。また、むぎさんが文章の中で触れていますが、文章を近くで見たとき(単語ごとに分割してみたとき)と遠くから眺めたとき(文章を塊としてみたとき)では、これまた、文章のイメージが全然変わってきます。むぎさんは、おそらく単語のチョイスを塊として見たときの見え方(文字列の曲線)を、文章を遠くから見たときの「曲線」という表現を使って表現していますが、これは文章を視覚的に(および視覚から想起されるイメージとして)捉えたときの美しさのひとつなのかなと思います。同じ単語でもひらがなを使うか、漢字を使うか、カタカナを使うかで単語の与えるイメージは大きく異なりますし、その集合体としての文章はさらに多様なイメージを形成します。

文章においては、五感のうち主に視覚を使って文字列を認識します(最近ではオーディオブックもあるので聴覚でも文字列を認識できますね)。しかし、視覚や聴覚を使って、直接認知できるのは目で見た、あるいは耳で聴いた文字列のみで、そこから様々なことを想起・展開し、イメージや思考を膨らませていくことで、読者が様々な情報を得る。つまり、文字列という少ない情報量を読者自身の脳内で増幅させることで、補完する部分の多い、「間接的」な表現手法だと思います。主たる情報を視覚や聴覚で直接的に伝える表現ではないので、その分非言語的な(主に視覚や聴覚からダイレクトに入ってくる)情報が削ぎ落とされ「感情が伝わりにくい」という話はよく為されますが、一概にそうとは言い切れないと思います。有名な「メラビアンの法則」によれば、人がコミュニケーションを取るときに印象を決定するのは、55%が視覚情報(見た目、しぐさ、表情、視線)、38%が聴覚情報(声の質や大きさ、話す速さ、口調)で、言語情報(言葉そのものの意味、会話の内容)はわずか7%に過ぎないと言われています。それだけ、非言語的情報というのは相手の感情を読み取る上で、大きな要素となっているのですが、それゆえに(大きなパーセンテージを占めるがゆえに)、本心や感情がミスリーディングされてしまう(非言語から得た情報が実態からズレてしまう)ことって多々ありますよね。たとえば、一見ものすごく厳つい悪そうな見た目の人がものすごく親切だったり、すごく明るそうな人が実はものすごく繊細で気遣い屋さんだったり、話すのがゆっくりで鈍くさそうな人がすごく頭がキレたり……ということは少なくないと思います。人間は視覚や非言語による情報によって意思決定している部分が大きいとはいえ、その意思決定が正確なものかどうかというのはまた別の話だと思います。文章では、確かに対面での会話より伝えられる情報量は少ないかもしれませんが、むぎさんの仰るとおり、他の表現手段より時間をかけることができるので、より正確に自分の感情を表現することも可能だと考えています。むぎさんの言葉を借りれば、『喋り声に、抑揚があり、リズムがあり、声音があるように、文章にだって、文字列の曲線(ひらがな、漢字、カタカナを選ぶだけでも文章の雰囲気はガラッと変わります。)、オノマトペのリズム、用いる例えの季節感や、品格による独自性がある』のですから、様々な表現を使って、自分の感情を正確に相手(読み手)に伝える、そして複雑な感情を巧みに表現することが可能な表現手法だと思っています。

◼️「教え方のこつはね、ずばり」2020/12/04

これはむぎさんがインスタグラムで募集している『お悩み相談』から1つお悩みをピックアップして答えるという内容の記事になっています。そこで取り上げられたお悩み内容がこちら。

◼️お悩み内容
最近、人に教える立場になりました。分かりやすく教えるために意識することってありますか?

それに対するむぎさんの回答が以下になります。

◼️回答
『結論から述べること』が、教えるうえで意識すべきことだと思います。結論から述べてみました。その他にもいくつか意識することはありますが、(後述します)やはりこれが大切。日本語の文法構造的に、つい忘れてしまいがちですが、答えを聞かれたら、解法では無く答えを。

『早く知りたい!』と教えられる側は思っているハズですから、その人の気が逸れる前に、意識を引きつけるようにズバッと答えましょう。そしてそれから、『というのもね....』と手順を追ってそこにたどり着くまでのプロセスや、要因などを細々と伝えましょう。

しかし、『というのもね....』をする上でも、意識したい点は何点かありますので、以下に記します。

これに関しては、私はむぎさんの回答は半分納得できるが、半分(私とは)違うのかなと思っています(偉そうに……!)。私の場合、結論から言うと「人に合わせる」が正解だと思っています。というのも、人によって得意な理解(認知)の仕方というのが、異なるからです。これは、後々書く記事でも述べることになると思いますが、児童教育の分野でよく述べられることとして、「認知処理様式」といった考え方があります。これは、その人の得意な理解(認知)の仕方を示したもので、大きく分けて次の2パターンあります。①同時処理型、②経次処理型です。①の同時処理型というのは、まずは全体像(結論)から見せた上で、細部の枝葉を説明した方が理解が進みやすいというタイプです。こういうタイプの場合、たとえば「結論はAです。というのも、BやCといった理由があるからです」という教え方をした方が頭に入りやすいです。②の経次処理型というのは、時系列に物事を説明してもらった方が理解が進みやすいというタイプです。こういうタイプの場合、たとえば「まず、Aという前提があって、そこからBという結論が導きだされます。さらにそこからこういう論理展開をするとCという最終結論が得られます」という教え方をした方が頭に入りやすいです。はじめて訪れた土地で、地図を片手に道を進んでいけるのが①の同時処理型、目印となる建物やランドマークなどを示してもらい、道順を教えてもらった方が道を進んでいけるのが②の経次処理型です。この「認知処理様式(得意な理解の仕方)」と教え方がズレていると、教える方も教わる方も大変苦労します。「なんで伝わらないんだろう?」「なんでこの人の説明はこんなにわかりにくいんだろう?」ということが起こり得ます。したがって、教える立場としては、いくつか教え方のアプローチを変えてみて、その人の「認知処理様式」に合った教え方をするというのが最も理解が進みやすいと思います。むぎさんの勧める教え方はおそらく①の同時処理型の人に向けた教え方だと思われます。

あとは、このような留意点も述べられています。以下、むぎさんのコメントを引用します。

◼️無意味な横文字はやめておこ〜っと
『エビデンスはありますか?』『このアサインが...』『ジャストアイディアですが...』

カタカナ横文字を使わず、『証拠はありますか?』『この割り当てられた仕事が...』『思いつきなのですが....』と言うほうが分かりやすいです。特にビジネス横文字や、専門用語の横文字は知らない人は全く知らないので、言い換えましょう。

『それってどういう意味ですか?』と余計こんがらがるのは避けたいです。教え上手なほど、分からない人が分かるレベルの伝え方を想像できる(=教えられる人の立場に立つことができる)と思います。

これも、だいたいの物事には当てはまるという意味で良い教え方だと思いますが、問題の程度・複雑さ・難易度によりますね。一般的に問題が複雑になればなるほど、言葉の「多義性」をなくすということが重要になってくるからです。要するに、人によって解釈が分かれそうな言葉は極力使わないということですね。むぎさんが例に出されているように「エビデンス」や「アサイン」「ジャストアイディア」程度の言葉であれば、日本語で表現した方が伝わりやすい場合が多いと思いますが、専門的な話になればなるほど、言葉の「一義性」が求められるようになってきます(解釈がバラけると議論・コミュニケーションが円滑に進まないため)。専門用語というのは、言葉の「多義性」を排除して、正確に物事を伝えるために使われていることが多いです。たとえば、「エビデンス」という言葉、私が研究室に在籍していた当初はよく用いていました。それは、「エビデンス」の直訳である「証拠」という日本語を使うと、その証拠がどのような種類の証拠であるかがわかりにくくなってしまう場合があるからです。その証拠が、ネット媒体の情報によるものなのか、書籍や論文などの資料によるものなのか、生データによるものなのか等、若干ですが、ニュアンスがバラけてしまいます。私たちの研究室では「エビデンス」という言葉を使う場合は、主に生データによる証拠を指して使っていました(これに関しては所属する集団によって様々だと思います)。「エビデンス」といえば、何か裏付けとなる生データがあるのだなという風に解釈していました。まあ、研究者とか専門家の間で円滑に意志疎通を図るためのモノです。ああいう専門用語は。それを日常卑近な会話にまで持ち込む必要はないと思いますし、むぎさんの仰られているのもそういった意味だと思いますので、良い考え方だと思いますね。また、最後の「教え上手なほど、分からない人が分かるレベルの伝え方を想像できる(=教えられる人の立場に立つことができる)と思います」というのは、まさしくそのとおりだと思います。教える側の方が基本的に知識も経験も持っているのだから、教える側が教わる側にチューニングするべきです。逆はできないからです。むぎさんの仰るとおり、教え上手な人は、「分からない人が分かるレベルの伝え方を想像できる」そのような想像力を持っていると思います。

あと、もうひとつ、大事なことを仰っていました。なんだか、記事のほとんどを引用する形になってしまいましたが、そうしないと伝わらないと思うので、これも引用させていただきます。

■具体的に示そうっと!
『だいたいここをさっきみたいにやって、あとはいつも通りで大丈夫だよ〜』

ここ、あそこ、それなどの指示詞は使うのは控えるべきだと思います。なるべく早く物を習得してもらうには、繰り返し教えることが必要です。同じことを指していても、さっきの....とは言わずに、具体値や具体的な行程などを複数回伝えます。

そのうち、『ああ、もう分かってきました!』と教えられる側は言うはずです。同じことを何度も言われると、『もう分かったって、さっきも聞いたし...』と思いませんか ? おそらく、相手もそう思うのです。

加えて、『かわいい感じに』とか『程よく詰め込んで』など主観で左右される表現で教えるのもやめておきましょう。

『かわいい』→『もう少し、色味を赤系にして、白も増やしてください』『フォントを、丸みのあるものにしてください』

などの具体的な言葉に変更してみましょう。

これは、めちゃくちゃ納得です。「あれ・これ・それ等の指事語を使うな!」というのは、私も研究室時代、口を酸っぱくして言われてきました笑。人にモノをわかってもらうときに大事なのは、思考過程(思考の推移)をきっちり掴んでもらうということで、具体的な言葉を使うことで、思考過程をイメージ(トレース)してもらいやすくなります。

また、同じことを複数回繰り返して教えるというのも非常に大切で人間の頭は経験のないことを一度で覚えられるようにはできていません。学習効率の話で正確なところは忘れましたが、人間の記憶というのは忘却曲線にしたがって、時間の経過とともにある一定の時間に(たしか覚え始めから1日間で)急激に減衰するそうです。

「エビングハウスの忘却曲線」というのは、皆さんも聞いたことがあると思いますが、あれはモノを覚えさせられた時点を起点とした経過時間を横軸に、節約率を縦軸にとって表したグラフのことです。節約率というのは、「一度記憶した内容を再び完全に記憶し直すまでに必要な時間(または回数)をどれだけ節約できたかを率で表したもの」です。以下、忘却曲線のWikipediaからの引用です。

例えば、最初にritを覚えるまでに10分を要し、20分後に覚え直すと約4分を要したとする。この場合、覚え直すのに最初と比べ、6分節約したことになる。すると節約率は 6(節約された時間)÷10(最初に要した時間)=0.6= 60% となる。

また、最初にpekを覚えるのに40回の書き取りを要し、1時間後に覚え直すのに22回要したとする。この場合、最初に比べ、18回分節約したことになる。すると節約率は 18(節約された回数)÷40(最初に要した回数)=0.45= 45% となる。

つまり、節約率が高いほど、「再度覚え直すのに必要な試行回数が少なくて済む」という話です。このグラフ(下図参照)によれば、物事は記銘してから、1日の間に急激に忘却されるということですが(覚えてから20分で42%、1時間後に56%、1日後に74%、1週間後に77%、1ヶ月後に79%忘れるそうです。これは、「エビングハウスの忘却曲線」の縦軸を「節約率」ではなく、「記憶の維持率」として見た場合の話のようですが……。情報元:Atsueigoさんのブログより)、早いうちに復習することで節約率の高い(より簡単に思い出せる)状態で繰り返し、頭に叩き込むで、効率よく短期記憶から長期記憶に移行させることができると思われます。ただし、エビングハウスの実験で使用された記憶素材は「相互に関連をもたない無意味な音節」であり、「学問などの体系的な知識」では、記憶の減衰はより緩やかに起こるだろうと考えられています。

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引用元:Atsueigoブログ

※先ほど紹介したAtsueigoさんのブログでは「エビングハウスの忘却曲線」から、短期記憶から長期記憶に移行させるのにベストな復習タイミングは「1日後、4日後、7日後、11日後、15日後、20日後」と述べておられますので参考になれば。

というわけで、いろいろ理屈を捏ねましたが、むぎさんの仰ることは理に適っていると思います。具体的な言葉を使うことで、思考の過程をイメージ(トレース)しやすくし、頭に入りやすい形を作った上で、それを何度も繰り返し、短期記憶から長期記憶に移行させるということをやっているわけですね。

◼️「眠り展、備忘録」2020/12/15

この記事は、むぎさんが「眠り展:アートと生きること」という眠りに関する展示会に行かれたときの感想や考察を述べたものになっています。眠り展公式サイトによれば、「眠り展」とは、どのようなものか?このように説明されています。

「眠り」は、人々にとって生きていく上で欠かせないだけでなく、芸術家たちの創造を駆り立ててもきました。本展では、国立美術館所蔵の絵画、版画、素描、写真、立体、映像など、幅広いジャンルの作品約120点によって、「眠り」がいかに表現されてきたか、それが私たちに投げかけるものは何かを探ります。「眠り」をテーマに生み出されたアートは、起きている時とは異なる視点で、私たちの日常の迷いや悩みに対するヒントを与えてくれるでしょう。

引用:眠り展公式サイト

むぎさん曰く、

作者や表現方法、媒体も多種多様な芸術作品たちを「眠り」というひとつのテーマでまとめられた展覧会でした。新しい表現や、知識をインプットする時、こうやって「眠り」のような大きなテーマで様々な「解」を与えてくれる展覧会は素晴らしいなと思います。

とのことです。様々な作者による、絵画、版画、素描、写真、立体、映像などの様々な表現方法・媒体による作品を「眠り」という大きなテーマでまとめ、様々な「解(解釈)」を与えてくれるという趣旨の展覧会のようです。

ここからむぎさんの作品に対する感想や考察が述べられるのですが、むぎさんの美術に対する鋭敏な感性、豊穣な表現力がほとばしっています。以下、むぎさんの記事本文から引用。

■展示デザインが素敵

むぎは美術展にいどむとき、絵を飾る額縁や、展覧会場内のデザインを見るのも大好きです。「眠り展」は壁と同じ、仄かな灰色のカーテン布が仕切りになっていました。所々の壁にもカーテンのようなグラフィックが。また、各章の頭に設置されている説明書きの文字も、ぐにゃり.....と引き伸ばされたようなデザインで、まさに夢と現実の間を歩くような....覚醒しながらに夢を揺蕩うような、素敵なデザインでした。

このような展示デザインのおかげで、作品以外という夢・眠りに集中するためのノイズが少なく、本当に眠りの世界へ足を踏み入れたような心地がします。作品と、額縁と、展示室の全てによって、展示というものが成立するのだと学びを得ました。

しかし、本当の眠りと違う点は、自分の知らない眠りを「鑑賞する」という点。まるで作品の数だけ芸術家が寝転んでいて、その頭から夢や眠りが溢れ出しているよう。寝室とも喩えられる、静かで仄暗い展示室をゆっくり歩き、その溢れた眠りをじっと見つめるのが眠り展なのです。

この文章、本当に素晴らしくないですか?美術館や展覧会に行った経験があまりない私は、「どうやって、展示を見れば良いのだろう?」と考えてしまいますが、むぎさんは、まず展覧会場内のデザインに着目するようです。仕切りに使われるカーテンの布の色が仄かな灰色になっており、壁にもカーテンのようなグラフィックが施されていたり、説明書きの文字もぐにゃり‥‥と引き延ばされたようなデザインで、作品と一体化して、眠りの世界に没入できるようなデザインになっているのでしょう。このような展示デザインのおかげで作品への没入を阻害する「ノイズ」が少なく、本当に眠りの世界に足を踏み入れたような心地がするとのこと。作品だけでなく、それを取り巻く展示デザイン等も含めて、はじめて作品の世界に入っていくことができる完成された展示となるというのは、展示場のデザインも「作品」のひとつと見なす着眼点で非常におもしろいと思いました。やっぱり、展覧会に行くと、どうしても作品ばかりに目が行ってしまいますからね……。美術館や展覧会の新たな見方を提示されたような気持ちで新鮮な感想でした。

最後の一節もおもしろいですね。眠り展というのは「芸術家の頭の中から溢れだした『自分の知らない眠り』を静かで仄暗い展示室(寝室)でじっと見つめる(鑑賞する)」行為を行う場であり、その点が本当の眠りとは異なる。他者の眠り(『自分の知らない眠り』)を第三者的な視点から観測するという意味で、自分の眠りを作品に投影して作品を観るという行為とは異なってくるのでしょうね。自分の頭の中にある経験や知識をもとに芸術家の作品に想いを馳せるのとは異なり、芸術家の頭の中に入り込んで、一緒に『自分の知らない』様々な眠りの世界を体験できる。その点で他の展覧会とは一線を画しているということなのでしょうか?私はこの眠り展に行ったことがないので、推測しかできませんが、どういうことなのか非常に気になります。興味のある方は、一度眠り展の世界を覗いてみるのも良いかもしれません。この節の最後でむぎさんは、こう述べています。

眠りとは夢を見ること、幸せでふわふわとした物.....という考えが大きく変わるきっかけとなった眠り展。むぎの予想していた眠りを見ることができたのは、序章の2作品くらいだったかな、という印象です。

自分の眠りに対する予想が覆されたということのようですね。これはおもしろそう……。

むぎさんが予想していた眠りを観ることができたのは序章の2作品くらいだったそうで、そのうちのひとつがこちら。

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ペーテル・パウル・ルーベンス《眠る二人の子供》1612-13 年頃、国立西洋美術館蔵。
画像元:眠り展公式サイト

この絵画を観たむぎさんの感想がこちら。

(前略) 作者はバロック絵画を具現した至高の芸術家。ふたりの子供は作者の兄の子だと言われています。「眠りに落ちる、無防備な生を、愛おしく見つめる」という眠りへの向き合いかたに心惹かれました。

まず、「バロック絵画」についてよく知らなかったので、Wikipediaを使って調べてみたら、こんな記述がありました。

「バロック」という用語はもともと侮蔑的に使用され始め、作品の強調表現があまりに行き過ぎていて品位に欠けるいびつなものという意味が含まれていた。また、アリストテレスの三段論法についての著作の歴史的用語「バロコ (Baroco)」を語源とするという考えもある[11]。奇抜な強調表現、過剰なまでに描きこまれた細部表現を意味する用語で、ルネサンス芸術の特性である合理的で抑制された作風とは好対照をなすものとして用いられていた。

引用元:『バロック絵画』Wikipedia

たぶん、この絵を厳密に考察しようと思ったら、キリスト教的なバックグラウンドがないと厳しいと思うので、詳しくは述べられないですが、要は「バロック絵画」というのは、劇的な描写技法や豊かで深い色彩、そして強い明暗法で特徴づけられる、合理的で抑制された作風の「ルネサンス芸術」とは対照をなす、平たく言うと『派手な絵』という感じなのでしょうか。比較対象となる「ルネサンス絵画」として最も有名なのは、あのレオナルド・ダ・ヴィンチ作の『モナ・リザ』でしょう。以下に示します。

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『モナ・リザ』(1503年 - 1519年頃)、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルーヴル美術館(パリ)
画像元:『ルネサンス期のイタリア絵画』Wikipedia

そもそも題材としているテーマがまったく違うので、単純には比較できないとは思いますが、確かに上に描かれたルーベンスの『眠る二人の子供』に比べると『モナ・リザ』は全体的に明暗が強調されていない……というか、全体的に「暗い」印象を与えます。ルーベンスの作品の方がパアッと輝く明るい色彩で描かれており、「優しさ」や「柔らかさ」のようなものを感じます。むぎさんも仰っていたように「眠りに落ちる、無防備な生を、愛おしく見つめる」という眠りへの向き合いかたが、この明暗の強調された色彩の中に表現されているように思います。この絵からは包み込むような「優しさ」や「暖かさ」が感じられます。

さらに、むぎさんは、別の映像作品を観て、感想・考察を述べています。それがこちら。

■「正夢」という言葉
作品を見る中で、映像という形で眠りを見ることもできました。労働者である若年の男女が、夢から醒めて、見た夢を言葉の出るままに語り、また眠る。───それを、18人分。約1時間、ただそれだけが映される作品でした。3枚の吊りモニターがあり、各モニターに1人ずつが眠っていて、1人が夢を話す間、その周りの2人は眠っている.....のを椅子に座って観るという感じです。泣きながら夢を語る人、不思議な顔で語る人、様々。

先述した、《眠る二人の子供》の作者の眠りにつく無防備な生を愛おしむ時とは違う眼差しで、眠る男女を見つめます。
(中略)
何より労働者として余裕のない彼らの、睡眠を、芸術として眺める自分という存在に、張り詰めた雰囲気を感じました。

そんな中、淡々と流れていく眠りの中で気になった言葉がありました。
「正夢」です。本作品には英語字幕と日本語字幕が表示されていましたが、正夢という単語に当たる英語は「happen in real」だったのです。正夢という概念、英語圏では無いのか....。こんなところで、国毎による夢に関しての違いに気づくことになるとは、新たな発見です。

この文章に関しては、実際に作品がWeb等で観られないので、述べられることは少ないですが、この作品は絵画ではなく、映像ということで、先の作品に比べると、情報量が格段に増しています。その分、自分の想像で膨らます余地が少ない(と思われる)のでしょう。見たままの情報がダイレクトに入ってくる「リアル」なタイプの作品かなあ……と推察しました。むぎさん曰く「何より労働者として余裕のない彼らの、睡眠を、芸術として眺める自分という存在に、張り詰めた雰囲気を感じました」とのことで、労働者のもつ緊迫感や切羽詰まった感じをリアルに映し出すために、このような表現法にしたのですかね(それゆえ、むぎさんは「張り詰めた雰囲気を感じ取られたのかも……」)。。また、むぎさんは、労働という「エッセンシャル」な要素(作品内の労働者)と芸術という「ノンエッセンシャル」な要素(自分)を対比して、感想を述べられています。これが、自分(むぎさん)の当初想像していた「眠り」のイメージとは異なる、芸術家の脳内から漏れだした眠りを第三者からの視点で観測できるという「眠り展」の真髄なのだと、それを体験したむぎさんの口からリアルに感じ取ることができますね。

最後の段落は、「正夢」という概念の英語圏の国と日本との違いに着目した感想で締められています。たしかにむぎさんの仰るとおり、「正夢」に相当する英語は辞書には載っていないようです。強いて言うなら、フランス語由来の"déjà vu"(デジャヴ:既視感)という言葉が、「すでに見たものをもう一度見る」と言う意味で「正夢」に近い使われ方をされているようです。「夢と現実が分断されたものではなく、地続きになっている」というような感覚が英語圏の人にはあるのでしょうかね?あくまで予想ですが。。また、Web検索していて見つけたのですが、ノルウェー語(英語と同じ語族に属する)には、日本語の「正夢」に相当する、"Sanndrømt"という言葉があるそうです。言葉というのは、文化の反映でもありますから、英語圏の人と我々日本人との文化の違いを、こういう展覧会で見つけられるというのは、素晴らしいアンテナの感度だと感心してしまいますね。

この記事の最後は、《美わしき繭》という作品の紹介で締められています。私はこの記事の中では、この作品について書かれた文章がいちばん美しいと思いました。以下、引用します。

■「美わしき繭」

また、絵画からひとつご紹介したいのが、《美わしき繭》です。サイズが97.0×146.5(cm)なのでかなり大きめ。そして、展示作品の中でもかなり色が明るく、目を引かれました。特に絵画左側の繭ですね....実物と写真、色味が若干異なるので是非肉眼で見て欲しいです。破れた繭からは、紫の花と女性が1人、さらに空がちらりと伺えます。繭の外側よりも明るく、絵画チックな空。ぼやんと光る繭の中と外、どちらが夢でどちらが現実なのだろう....。というか、何故この作品が「眠り」なのでしょう。──それは、生を受け、繭を破る間の寝室こそが繭の中であるから、というのがむぎの解釈です。(寝室、と喩えるのは今現実に生きるむぎが、ここが現実だと思っているからです。母体にいた時の記憶があれば違うのかもしれない...)その繭が破れ、褪せた色の現実に着地したとき、眠りから醒めるのか、その逆か。「私はただ眠っているわけではない」という章題の中で展示された作品であることも考えると、解釈が様々浮かびます。

この文章、とにかく比喩が美しいです。特に以下の部分。

繭の外側よりも明るく、絵画チックな空。ぼやんと光る繭の中と外、どちらが夢でどちらが現実なのだろう....。というか、何故この作品が「眠り」なのでしょう。──それは、生を受け、繭を破る間の寝室こそが繭の中であるから、というのがむぎの解釈です。(寝室、と喩えるのは今現実に生きるむぎが、ここが現実だと思っているからです。母体にいた時の記憶があれば違うのかもしれない...)

私もこの絵を観た瞬間、「え……これが『眠り』なの??」って思ってしまいました。「眠り」ということは、どこからかが夢でどこからかが現実という線引きが為されているのだろうと予想しますが、その「境界線」はどこにあるのだろう?そもそも、「夢」と「現実」の境界線などなく、先ほど述べた英語圏の発想のように、地続きになっているのかもしれない?いや、この絵画の作者は日本人だからたぶんそれはない。。ものすごく単純に考えると「わかりやすく橙色に光っている繭」が「夢」と「現実」の境界線だと私は思うのです。繭というのは「胎内」の象徴で、その内側が生まれる前、外側が生まれた後だと私は考えます。つまり、繭の中=寝室=夢という、むぎさんの解釈とも一致します。あと、気になったのは、繭の中にいるお婆さんのような人影はいったい何を示しているのでしょうか?そして、紫の花(?)も。この花はまだ蕾のように見えますので、まだ生まれる前、つまり「繭の中はまだ夢の中の世界だよ」ということの暗喩かな?と思うなどしました。お婆さんは赤子の世話をする人のイメージがあり、これも繭の中にいるのは赤ん坊ということなのでしょうか?だとしても、どちらが「夢」でどちらが「現実」かを証明する根拠にはなり得ません。私は繭の内側が「夢」の世界だと思ってはいますが……。ここらへんのお婆さんと花の蕾(に見える)部分は解像度が粗く、あまり詳細にはわかりませんでした。そして、最後の()内の考察がむぎさんらしくて、非常に鋭い着眼点だなと思いました。私は当然のように、繭の中=寝室=夢と考えていたのですが、その逆もあり得るよと、つまり寝室こそが「現実」であるという解釈も成り立つよと。もし、母体(胎内)にいる状態を経験していれば、胎内の世界こそが胎児にとっては「現実」かもしれませんものね。。ここまで、鋭い考察ができるということは、むぎさんは相当な数の美術作品を観てきた経験があるのだと思います。ちょっと、美術に疎い私なんかは、この絵を観た瞬間、「ちょっと何のことやら……さっぱり……」という感じでしたので。作者の北脇昇は、日本のシュルレアリスムの代表的な画家の1人であるそうです。シュルレアリスムというのは、超現実主義とも訳され、現実を無視した世界を絵画や文学で描く芸術運動で、夢の中をのぞいているような独特の現実感と評されています。というわけで、この絵画全体が夢の中なんて解釈もあり得るのかもしれませんね。非常に興味深い絵画でした。

◼️「年末のご挨拶」2020/12/31

2020年の1年をその年の目標とともに振り返るという内容になっています。むぎさんは、2020年に「育」という目標を掲げておられたようでそれについて述べた冒頭での一節がこちら。

持論ですが「育」は、その進歩があなたの目や心にまで届いていないと完全では無いというか 何というか...。家長むぎはリスナーさんの応援もあって成り立っている、とむぎは思うので、自分の成長した部分は コンテンツとしてだったり、生き方としてだったり...とにかく活動の中で見て頂かないと、と念頭に置いて一年を過ごしました。

「育」というのは、そのまま自分自身を育てること・成長することと捉えました。むぎさんとしては、「その『育』=進歩が視聴者の目や心にまで届いていないと完全ではない。なぜなら、家長むぎはリスナーさん(視聴者さん)の応援もあって成り立っていると思うから」ということのようです。ライバーという活動をしている以上、いくら目に見えないところで進歩しても、それはリスナー(視聴者)に対して還元されるところが少ないから、視聴者にお返し(還元)して、はじめてこの「育」という目標が完結するといった考えをお持ちなのだと思います。「自分の成長はリスナーへの還元をもって完結する」「単なる自己満足では終わらない(終わらせない)。配信者として色んな方に観ていただいている以上、観ていただいているコンテンツ・生き方に自身の成長を反映させることで、リスナー(視聴者)へのお返しにもなる」そういうリスナー(視聴者)に対する真摯な向き合い方が見てとれます。

その後は、受験に対して必死になって、なんとか第一志望の学校に合格したものの、その後は無気力になって、半年くらいはボーッとしていたそうです。人間ずっと緊張の糸が張り詰めた状態を維持するのはムリですからね。どこかで緩ませることも必要です。緩急が大事なのです。私もひとつのことに身が入ると心身が壊れていることに気づかないほど集中してしまうことがあるので「アイドリングタイム(何もしない時間)」を意識的に設けています(「無職風情が何言ってんだ。バカ野郎!」と言われそうですが……)。この「アイドリングタイム」のおかげで、文章を書くときの良いアイデアが湧き出てきたり、勉強に対するやる気が湧いてきたりするので、私にとっては大切な時間となっています。むろん、むぎさんは配信者として忙しく活動されながら、受験生として勉強に勤しまなければならない環境に身を置かれていたため、そんな時間を取る暇なんてなく、連続稼働し続けたことで、疲れきってしまったのでしょう。その結果としての半年間の「無気力期間」だったのだと思います。本当にお疲れ様でした。しかし、「今も心にはその痕のような塞がらない隙があって、時折寂しさや不安が入り込んでくる」ようです。何かを必死になって頑張って、エネルギーが枯渇してしまった後は、何か心の中にポッカリとした穴のようなモノができた経験というのは私もあります。勤めていた会社を精神疾患で辞めて、無職になったときです。その頃は、たくさん時間がありました。でも、たくさん時間があるからといって、幸せというわけではないんですよね。。たくさん時間がある分だけ、余計なこともたくさん考えます。将来のこと(主にお金のこと)や家族との関係、どうやって生きていったら良いのか、死ぬべきかみたいな思いが次々湧いてきて、ポッカリ空いた心の穴(隙)に入り込んできます。特に夜中から明け方にかけて独りになって色々考えるときに、こういうことがしばしば起こります。今もです。むぎさんも似たような感情を抱えていたのでしょうか?そして、むぎさんはこうも記しています。

でも、あなたの存在や活動の忙しさ(本当にありがたいです。)で、隙を感じない程にしっかり楽しく過ごせました。寂しさや不安を抱えていない存在なんて稀有からね...また少し成長できたと思います。

「リスナーの存在や活動の忙しさが、隙を埋めてくれた。むぎさんは、配信活動という自分の心の隙を埋める術を見つけられた」というより、もとより続けていた配信活動を心の隙を埋める手段として「再発見」したという表現の方が実態に近いのかもしれませんね。心の隙に入り込んでくる寂しさや不安を配信活動によって昇華できるようになった。これが成長なのかなと思います。

そして、下半期には、動画制作に力を注いでいたようで、この活動が「育」の達成を確たるものにしているのだと思うということも述べておられます。以下、下半期に制作した3つの動画について述べています。

■幽霊東京 / Ayase 歌ってみた動画(7月)
視聴リンク(YouTube)

こちらは今年最初の動画。Aviutlを使用しました。不慣れながらに何とか作った記憶があります、制作時間は合計で20時間未満程の記憶。今なら5時間で作ることができそう...。初めてYABさんにMIXしていただいた物で、なぜか嘔吐しながら録音したのもいい思い出です。

私も無職になってから、一時期、「動画制作を稼ぎの1つにできればな…」という浅ましい動機で動画制作ソフトを弄っていた時期があります(他の動画クリエイターの方の作品を観たり、自分の制作物の生産性、業界の競争率など色々考えた結果、全然、センスがないな……と思って、途中で諦めてしまいましたが)。たしか、動画制作をはじめていちばん最初に使ったソフトがむぎさんと同じ「Aviutl」で、当初はたった5分の動画(しかも大した内容ではない)を作るのに、10時間もかけて作っていました(ホントセンスないですね……)。むぎさんも当時は制作に20時間程度かかった動画を今なら5時間程度で作れるだろうとのことで、凄まじい進歩ですね。私も頑張らないと……。

■恋愛フィロソフィア / 黒うさP 歌ってみた動画(11月)
視聴リンク(YouTube)

こちらは2つ目の動画。初めてのAfter Effectsでした。とにかく難しいうえに納期は5日後で、絶叫しながら制作しました。5日間は程狭い部屋でベットとPCの往復がほとんど。その距離約1m未満......。今思うとかなり追い込まれた状況でしたが、何か新しい物に取り組んで、成長していることが楽しくて仕方が無かったです。「あー!やばい!終わらない!楽しい!天才!」の繰り返しだったと思います、おかげでAe漬けの日々でもAeを嫌いにならなかった....何でも義務感が発生した瞬間に嫌になるタイプの人間なのですが、これだけは楽しくて辞められない....。そして、この動画は割とむぎにとっての動画制作に打ち込む転換点だと思います。

2作目は「After Effects」で制作されたようです。これもよく聞くソフトですね。私は使ったことがないですが……。納期が5日とかなりタイトなスケジュールだったようで、私も仕事をしていたときのことを思い出します。たしか、納期の前日の夜中に取引先から1通のメールが来て「仕様変更してほしい。とりあえず明日の午前中までに成果物を投げてくれ」という内容で、めちゃくちゃな焦燥感の中、死ぬ気で徹夜して朝までに成果物を仕上げた記憶があります。そのときの私は完全に義務感で仕事をやっていたので、「つらい……」という思いしかなかったのですが、この動画制作時のむぎさんは、そのような焦燥感も楽しめる次元にまで達していたそうで、こういう(良い意味で)濃密な時間の積み重ねが人間をいちばん成長させるのですよね。私も将来、奇跡的に文章を書いてお金をもらうようになったら(なれれば)、「納期」というものに必ず苦しめられることになると思うのですが、それを楽しめるくらいの書き手にはなりたいものです。私の父が言っていましたが、自分が講師の講義の前日に「まったく準備ができていない。さて、どうやって乗り切ろうか……。アドリブで乗り切るか!その場で何とかするってことの繰り返しが『実力』をつけるんやで!ワハハ笑」みたいなことを言っていました。私は、何事も事前準備をきっちりして臨まないと、不安で仕方がないタイプなので、この域に達するまでは相当時間がかかると思いますが、いずれ「どこからでも、何でもかかってこいや!納期が明日でもアドリブで何とかしたるで!」というくらいの自信はもてるようになりたいですね。そうそう、むぎさんが「今思うとかなり追い込まれた状況でしたが、何か新しい物に取り組んで、成長していることが楽しくて仕方がなかったです」と仰っていたのですが、素人の書き手である私も最近似たような(決して同じとは言いませんよ!)体験をしました。昨年(2020年)のクリスマスのときです。このとき、私は前日のクリスマス・イブに約16,000字の『シスター・クレア』の紹介記事を書き上げ、疲労困憊した中、クリスマスを迎えました。実は、クリスマスの翌日(12/26)には、あの『第3回マリオカートにじさんじ杯』が開催される予定であり、それにあわせて『本選予想記事』を上げる予定でした。当然ながら、『本選"予想"記事』なのですから、本選の行われる12/26までには、記事をアップロードしなければ、意味はありません。しかし、クリスマス当日(12/25)時点では、執筆文字数は0文字。しかも、クリスマス(12/25)とその翌日(12/26)には遠方への通院があり、なかなか執筆の時間がとれないという状況にありました。12/25の通院が終わって、家に着いたのが午後7時ごろ。そして、翌日の12/26の午前10時には家を出なければならないので、その間までに記事を書き上げないといけません(PCでないとできない作業があり、外にPCを持ち出せない状況だったので)。しかも、そのときにやろうとしていたことが「印象論ではない、定量的なマリカ大会予想」だったので、色々資料やデータを漁ったり、それを纏めたり、それらを使ってどうやって統計的に分析しようか、統計学の教科書まで引っ張りだしてきて色々やり方を模索していました。結果的には、統計学的に正しい手法を用いて、考察するというところまでは、至らなかったのですが、独自の指標まで作り、他の人とは少し違った時点で、本選予想(分析)ができたのではないかと自負しています。ある意味、私にとって、新しいことに、時間的制約のかなり厳しい中挑戦して、最終的にそれをなんとか形にできたという意味で非常に達成感というか、成長している感触がありました。この『本選予想記事』は、16,000字程度書きましたが、ボツになったモノも含めると、クリスマス・イブとクリスマスの2日間、実質、通院などの用事もあったので、もっと短い時間で、約40,000字の文章を書きました。プロの文筆家からすると、こんなのは全然大した数字ではないのですが、私としては「追い込まれた中、成長していることが楽しめた」思い出深い記事となりました。したがって、2020年のクリスマスの思い出は「文章を書いたこと」これだけしか残っていません笑。でも、非常に充実感のあるクリスマスでした。ですから、ここに書かれているむぎさんの仰ることも少しですが、わかります。

■バレリーコ / みきとP 歌ってみた
視聴リンク(YouTube)

こちらが3つ目の動画。2つ目の動画の完成から3日後には手を付けていたと思います。むぎの好きなイラストレーターさんの田中寛崇先生にイラストを描いていただいたものです。初めて好きになったイラストレーターさん、そしてその方を知るきっかけになった曲....とにかく思い入れが強く、今の自分にできる最高のものを作ろうと頑張りました。前作で悲鳴を上げながらもAeとの親愛度を高めた為、比較的迷うことなく制作できたと思います。お花のロゴなどは妹に作ってもらい、その他の動きなどは全てむぎが行いました。オマージュ作品ということで、完成度は中々高いのではないでしょうか。歌も動画も、自信を持って「これが一番最近の!成長したでしょ〜」と紹介できます。

前回の濃密な成長の時間を経て挑んだ3作品目のお話。むぎさん自身も前回の経験の結果、「比較的迷うことなく制作できた」と仰っているため、おそらくめちゃくちゃ成長されたんでしょうね。最後の一文には私も思うところがあって、人から「あなたの代表作(いちばん自信のある作品)は何ですか?」と聞かれたとき、「最新のやつです!!」と即答できるくらいにはなりたいです。日々自分をアップデートして、過去の自分を超えてきた結果として今の自分があるのだから、当然、今の自分が書く作品が最高傑作ですと胸を張って言えるようにならないとなあ……と思います。むぎさんの最後の一文、「歌も動画も、自信を持って『これが一番最近の!成長したでしょ〜』と紹介できます」こういうことが平然と、飄々と言えるようになりたいものです。

上記のように、動画制作に焦点を置いて「育」について語ってきたむぎさん。その最後にこのようなコメントを残しています。

(前略)
あなたにとって、一番 聡明で何でもできる、可愛い女の子でいることこそが夢であり、願いであり、目標です。これは活動当初からの変わらぬ想いです。(そして、常に等身大であることも....)

「あなたにとって、一番聡明で何でもできる、可愛い女の子でいることこそが、夢であり、願いであり目標です」しかし、常に等身大であり続けると。むぎさんの表現をお借りすると、私も、「読者にとって最も良い文章を書くのが私であり、格好いい生き様をしている男であることこそが、夢であり、願いであり、目標です」しかし、自分に嘘はつきたくないと思っています。本心・本音・至らない部分もさらけ出した上で、読者の方にそう思ってもらえれば、これ以上、幸せなことはないなと、尊大ながらも思っております。

そして、むぎさんは2020年、Instagramでのお悩み相談にも力を入れていたそうで。むぎさんは、こう述べます。

(前略)
みんなが、自分の思っているよりもずっと悩みを抱えていることを知り、普段支えてもらっている側のむぎが何とかお力添えができないかと言葉を振り絞りました。そんなこともあって、その言葉の引き出しを増やす為に読書にも精を出しました....引っ越してきた時は空っぽだったテレビ台の収納には、本がぎっしり並べられています。来年は本棚を置くくらいには読書に励みたいですし、その言葉を全て活かせるくらい、あなたに寄り添えたらと願います。歌や、ゲームはあまり自信のないむぎですが、側にいて何か力になる自信はありますからね....!!発信者として、正しい情報を、最善の言葉で伝えていきたいです。

この文章を読んで、なんだか「発信者として、視聴者の側にいて何か力になりたい。正しい情報を、最善の言葉で伝えていきたい」そういう思いもあって、このnoteという媒体を新たな発信場所として、選ばれたのだろうなと思いました。そして、視聴者からの悩みに答えるために、たくさん本を読まれたそうですが、その成果は、このnoteにもキッチリ現れていると私は思います。非常に豊かな表現力をお持ちの(つまり、「道具を扱う力」に長けている)むぎさんが、「語彙」や「新たな表現手法」、「様々な視座」(これらが「道具」である)を得られた際にどのような表現が飛び出してくるのか、それに救われる人がどれだけ出てくるのか、2021年のむぎさんの活動が大変楽しみです。

11月には3Dのお色直し、年末には歌の投稿、マリカ大会(予選は1位)、初めての凸待ち、動画制作、インスタ、note、めちゃくちゃ色んなことに挑戦していらっしゃるではないですか!Vtuberはバイタリティがないと務まらない仕事だとは思いますが、私も彼女に負けじと(せめて気持ちくらいは)、色々なことにチャレンジし、生きる道を模索していく1年にしていきたいです。まあ……精神が弱っちいので、すぐ心が折れたりしますが、折れるたびに立ち上がって、また何かに全力でぶつかっていく。その繰り返しで、自分の「実力」を着々とつけていきたいなという風に思っております。インプットの面は持病の性質もあって、私の最大の課題の1つではありますが、それも色々やり方を考えて、クリアできるよう道を模索していくことはやめないつもりですし、正攻法でインプットする(読む・観る・聴く)トレーニングも積みたいと思います。私のキャパシティの許す限り。

この記事の最後は以下の文章で締められています。

最後になりますが、今年も一年間、家長むぎを応援してくださってありがとうございました。本当に不束者で、等身大のむぎでした。そんなむぎを大切にしてくださるあなたのことがとても大好きです。来年も、一緒に歩いていきましょう。何度目の宣言かは分かりませんが、これからもあなたの手を握り返すことのできる存在でありたいです。

これは、ストレートなファン・視聴者に対する感謝の気持ちを綴った、「等身大」の家長むぎの言葉ですね。最後の言葉、「これからもあなたの手を握り返すことのできる存在でありたいです」は、むぎさんがたびたび仰っている言葉ですが、そこに込められた想いについては次の6つめの記事で明らかにされています。

◼️『麻痺』2021/01/07

さて、むぎさんの最新作ですね。最新作であり、最高傑作だと思います。先述したむぎさんの言葉どおりですね。今回はめずらしく、敬体(です・ます調)ではなく、常体(だ・である調)であり、いつもの敬体で読者に優しく語りかけるような口調とは異なっていますね。少しメタ的な視点になってしまいますが、Vtuber(キャラクター)としての『家長むぎ』ではなく、『家長むぎ』の中の人(本人)が、Vtuber活動を続けてきた上での本心を語るような記事になっています。だから、常体にして、読者(視聴者)との距離を敢えてとっているのでしょう。

冒頭の文章。鋭敏な感性から放たれる比喩表現が炸裂しています。

Vtuberとして活動を初めて、大分経つ。時の流れは早く、『もう今月も終わりか』を何回も繰り返してきた。歳を取るようになってから時間経過の体感速度はどんどんと上がるばかりで、砂時計のくびれは太くなっているようだ。刺繍糸のように、つうっと流れていた砂は頼りなかったが、今この瞬間の、毛糸くらいの太さで流れていく砂は安心感がある。程よくぬるい。

歳を取るとともに上がる時間経過の体感速度を砂時計のくびれの太さに喩えています。「刺繍糸のように、つうっと流れていた砂は頼りなかったが、今この瞬間の、毛糸くらいの太さで流れていく砂は安心感がある。程よくぬるい」これも、ある種の『麻痺』の結果によるものなのでしょう。ライバー活動に慣れてきたことによる安心感とそれに伴う時間経過の速さを示しているのだと思いました。なんでも、新しいものを始めた当初は、新しい刺激でいっぱいだし、不安でいっぱいで、時間の経過はゆっくりしているように思います(早くこの緊張感や不安感から解放してほしいという思いもあったり……)。仕事なんかは、その最たる例だと思います。入社して最初の出勤日なんか「初めて会う人ばかりだし、うまく溶け込めるだろうか?」とか「初めて体験する仕事をうまくこなせるだろうか?」とか色んなことを考えて、大した仕事もしていないのに、職場にいるだけでどっと疲れますよね。それが、だんだん仕事にも慣れてくると、当初のような緊張感や不安感は薄まり、1日の体感時間は徐々に短くなっていくのは、皆さんも感じるところだと思います。惰性で1日を乗り切ることもできるようになってきます。これは良い意味でも、悪い意味でも『麻痺』なのです。Vtuberという立場でも、これに近しいことが起こっているのでしょうか?

そして、むぎさんは様々な種類の『麻痺』について語ります。

配信で何度か口にした記憶があるが、Vtuberをしているうちに自分のなにかが『麻痺』した。
些細な言葉で傷付かなくなった。むぎのような子供にだって冷ややかな言葉を投げる存在がいることを知り、その言葉を正面から受け止め、傷付いていた。やがてその言葉に背を向けるようになり、さらに時間が経ち、気付けば正面から飛んできても、自分をするっとすり抜ける... 或いは、刺さらずに落下するようになっていた。『むぎ、こんなこと言われてるよ』と他人相手に心を傷める数少ない友人の、むぎを心配する声の方が今は痛い。

最初は真正面から受け止めていた「冷たい言葉」を、無視したりするようになり、今では受け流したり、或いは突き刺さった言葉の刺を自分で抜くこともできるようになったようです。これは、一対多数の発信を行う発信者としての「処世術」を身につけたということに他ならないのですが、ある種の『麻痺』でもあります。自分の痛みを知覚する感覚が鈍ってしまうと、どうしても他者の痛みを知覚する感覚も鈍ってしまう傾向にあると、私は思います(中には、自分の痛みに対する良い意味での「鈍感さ」を持ちつつも、他者の痛みに対して敏感に察知できるという方もいらっしゃいますが、少数派だと思います)。これは、5つめの記事の最後にむぎさんが述べておられた「視聴者に寄り添っていきたい」という考えをお持ちのむぎさんにとっては、ひょっとすると悪い意味も含む『麻痺』かもしれません。

次に別種の『麻痺』について、むぎさんは述べます。

人の存在を忘れるようになった。友人を増やすために配信を始め、少しずつ、友人といえるリスナーのみんなができた。その友人たちの顔ぶれは目に見える部分だけでも、少しずつ変わっていく。増えるだけではなく、同じ数でも顔ぶれが変わったり、減ったりもする。きっとこれからもそうだ。そしてたまに、久し振りに顔を見せる友達がいると『あ、この人いたなあ、忘れてた、この人は〇〇が好きで、〇〇配信からむぎを知ってくれて....』のような感じで、その人の事を思い出す。

これは、後の記述も含めて考えた方がむぎさんの想いが伝わりやすそうなので、続く文章を引用します。

『忘れた』と認識することは、その存在を薄らでも『思い出す』ことにある。───今までそんなことなかったのに『思い出した』を心の中で呟く回数が増えた。
『リスナー』という大きな生き物が代謝をするかのように少しずつ入れ替わっていく、という認識はしたくない。ぺりぺり、と皮膚が剥がれ落ちるように変わるのは嫌だ。むぎの目では、代謝の、細やかな息遣いは認識できない。ひとりひとり、友人として認識していたい。難しい事だがひとりひとりの手を握れたら良いな、と思う。そればかり言っている。言っているけれど、限界があるのだろう。自分が多くの人に囲まれた幸せに麻痺しているんだと思う。

『忘れた』と認識するのは、脳の中にある情報が消えた瞬間を認知するときだから、『忘れる』直前に忘れる対象(の存在)を認識していることになります。内容は詳しく思い出せなくとも存在があったことに対しては「あっ……今消えたな……」と。あるいは、『思い出した』瞬間に『忘れていた』ことに思いが至るのです(こちらの認識の方が、むぎさんの認識に近そう)。だから「『忘れた』と認識することは、その存在を薄らでも『思い出す』ことにある」という表現をしたのでしょう。そして、むぎさんは『思い出す』機会が増えたとも述べています。これは、活動を続けるうちにリスナー(視聴者)の数も増えていき、以前のようにリスナー(視聴者)1人1人を、「久し振りに顔を見せる友達がいると『あ、この人いたなあ、忘れてた、この人は〇〇が好きで、〇〇配信からむぎを知ってくれて....』のような感じで、その人の事を思い出す」ということが難しくなってきているのでしょう。リスナー(視聴者)を1人1人の個体としてではなく、その集合体の大きな塊(むぎさんの言葉を借りると『大きな生き物』)としてしか認識できなくなりつつある。だが、それに抗いたいのです。彼女は「難しい事だがひとりひとりの手を握れたら良いな」と思っているのです。これも多くのリスナー(視聴者)に囲まれていること(幸せ)によって生じたある種の『麻痺』だとむぎさんは述べています。

むぎさんは、幸せな『麻痺』について、さらにこう述べています。

誕生日には、何十人か合同の動画を貰う。ひとりひとり、として多くの人から言葉をもらう。絵を貰って、時にスパチャを頂く。季節の節目、活動の節目、それだけに留まらず常日頃から有形無形を問わない様々なものを頂く。一体、この人たちの何時間を頂いているのだろう。みんなから貰った時間を全部合わせたら、何年分になるのだろう。──むぎなら、むぎにこんなに時間を割ける?
幸せな麻痺をしている。普通の人間じゃ味わえない、温かくて満たされた麻痺。3年前、冷たくぽっかりと肝心なものが欠けていた自分はどこにいるのだろうかと思う。それこそ、代謝して消えてしまったのか。

「1人1人のリスナー(視聴者)が、自分に膨大な時間を割いて、有形無形問わず、様々な贈り物をくれる」これは一対多数の発信者であり、かつ人気がある(『にじさんじ』という大きな箱に所属していることも大きいでしょう……)一握りの人にしか経験できないことです。紛れもなく、幸せなことです。リスナー(視聴者)からの様々な贈り物によって、「(活動をはじめた3年前には)冷たくぽっかりと肝心なものが欠けていた自分はどこにいるのだろうかと思う。それこそ、代謝して消えてしまったのか」とむぎさんは述べています。

体にとって必要なものを取り入れ、それが不必要になったら、排出する生体機能。それが「代謝」むぎさんが活動をはじめた3年前のぽっかりと穴の空いた自分は、リスナー(視聴者)からのたくさんの贈り物によって満たされ、むぎさんにとっては、不要なモノとなって排出されていってしまったのでしょうか?それと同じように、今感じている「幸せに麻痺している」という感覚も、数年後にはむぎさんにとって不必要なモノとなり、「代謝」されていくのでしょうか?諸行無常を感じます。なんとなくですが、むぎさんはそれ(幸せに麻痺して過去の満たされていなかった自分を「代謝」していくこと)を「良し」とは捉えていないような気がします。ほぼ確信に近い感覚でそう思います。文章からそれが滲み出ています。

さらにこう続きます。

誰かからこれ程に好かれる事、時間を惜しまずに捧げてくれる事、涙を流してくれる事。ありがたいな、と一言呟いても、脳はそのありがたいを認識しづらくなっている。麻痺だ。『失ったら気づくもの』を抱き抱えている。あまりにも大きく、むぎのまわりを揺蕩って、じわりと身体に染み込んでいて、失ったら、多分むぎは何も残らない。何か残ったとしても、みんなに色付けられた家長むぎだから、その色が抜け落ちていたら、むぎじゃ無い。それなのに、3年前には戻れない。代謝しているし、麻痺している。少し辛いと思うけれど、とても幸せな麻痺。贅沢な人間になったものだ。

「幸せに麻痺するのは、普通の人間では体験できないこと。でも、麻痺した結果、みんなから頂いた有形無形のありがたい『資産』によって、色づけられた自分の色が『代謝』によって抜けていくのは嫌だ。それに抗いたい。幸せな麻痺に対して抗いたいなんて贅沢な悩みを抱えるほど、今の自分は幸せになってしまった」私なりにむぎさんの言葉を翻訳するとこういう感じになります。「リスナー(視聴者)のみんなは私に色んなモノを注いでくれて、幸せに色づけてくれるけれど、それに対して『ありがたい』と思う感度は決して鈍らせたくないし、視聴者を『大きな生き物』が代謝していくように『消えたけどそれに気づかない、増えたけどそれに気づかない』というような大雑把な捉え方はしたくない。視聴者1人1人の息遣いをしっかりと捉え、1人1人からもらったモノをきちんと1人1人にお返ししたい。『1人1人の手を握り返したい』」むぎさんはそういうことを我々に伝えたい、だからこのような文章を書いたのでしょう。

この記事の最後は、次の一節で締め括られている。

これからもずっと大切にしたい。節目節目で、しつこいくらいに『みんなの手を握り返したい、ひとりひとりを大切にしていきたい』と口にするのは、その麻痺した自分を叩き起こす為。代謝を続けながらに、麻痺し切らないようにする。そんな自分を叩き起こす『自分』は3年前からのむぎだ。代謝しても、自己の確たる部分は残るのだと気づく。

第一段落の前半については先ほど述べたとおり。最後の三文について。一文目は「代謝は不可避なモノだが、決して麻痺しきらないようにしたい。視聴者の方がこれから入れ替わり立ち替わりしていくことだろう。だけど、それを『なんか自分の皮膚が剥がれ落ちたな』と捉えるのではなく、『自分の皮膚の今まで◯◯という役割を果たしてくれていた、この細胞が今排出されたんだな』というような捉え方(少し大袈裟にいえばこうなる)をしていきたい」そういう解釈をしました。そして、二文目と三文目は「麻痺しきらないように自分を叩き起こす『自分』は3年前のぽっかりと穴の空いたむぎさん自身だ。ここだけは、自分の核として、残り続ける。他の色々なモノが代謝されたとしても、当時の色々なモノに渇望していたむぎさんは残り続け、自分を麻痺の沼から引き摺りだす役割をこれからも果たし続ける」こういう解釈を私はします。三文目に「代謝しても自分の確たる部分は残るのだと気づく」とあるように、自分の失ってはならない核に自覚的であるのは、ファンを想う配信者の鑑であると思います。「むぎさんが良いファンをもったように、むぎさんのファンも良いライバーを推せている」むぎさんのファンはそう感じていると思います。

そして、第二段落、この記事の最後の一文。

痺れた爪先で歩くと痛がゆい。まだ、麻痺しきっていない。

むぎさんは、まだ『麻痺』しきっていないようです。

◼️ 最後に

むぎさんの文章の素晴らしいと思う点は、いろいろありますが、やはり一番は「比喩表現が美しい」という点。芸術作品を数多く鑑賞してきたであろうことは、文章からも伺えますが、その経験の蓄積によって、育まれたとても瑞々しい感性で、私には到底できないような比喩表現をされています。似て非なるモノ(比喩そのもの≠比喩の対象)に共通点を見出だし、的確な言葉をあてること。これが比喩なのですが、むぎさんの比喩は非常に的確かつ叙情性があり、何より美しいです。これだけでこの人の文章を読む価値があるというものです。特に美しいモノに対する感受性(アンテナ)が素晴らしいと思います。彼女は、色々な美しいモノを目にし、それを常人ならば、1から1感じ取るところを、1から10とか、1から20感じられるだけの感受性をお持ちだと思います。それゆえ、美しいモノを例えるときに、豊かな比喩表現が生み出せるのでしょう。

そして、むぎさんの文章の良さを支えるのに、重要な役割を果たしているものがもうひとつあります。『複眼的思考』です。物事を考えるときには複眼的に思考するということが大事で、要するにいろんな立場からモノを考えた上でそれを比較検討して答えを出した方がより正確に答えを出しやすいと私は思っています。むぎさんの場合、おそらく自分の中に複数人の自分が居て(しかも、かなり厳密な性格の"自分"が複数人おられる)、各々が喧々諤々と議論を交わしているという状況で、それにより複数の視点からの意見を擦り合わせ、より深遠な思考が可能となり、より正確に真に近い答えが導き出せるのだと思っています。

〈追記:2021/01/09 0:19〉
この記事を書き終えた後、むぎさんのnoteをチェックしにいったら、新たにもうひとつ記事が追加されていて、冒頭に私が述べていたのとは異なり、合計7つの記事が掲載されています。新しい記事は「『自己認識』について、『鏡に映る自分』を例にとって展開された哲学的なこれまたおもしろい文章(というより『論考』みたいなモノ)だった」のですが、本記事では、まとまりを考慮し、6つめの記事『麻痺』までの紹介に留めておきたいと思います。新しい記事を冒頭少しだけ覗いて思ったことですが、むぎさんは私よりもはるかに『論理の段差』の1段分が大きいです。私から見ると、一瞬「これは少し論理が飛躍しているのではないか?」と思われるところでも、何回も読んで考えると、しっかり辻褄があっています。頭の良い人の文章の書き方ですね。私は頭があまり良くないので、むぎさんとは違って『スモールステップ』で自分の思考過程を1段1段丁寧に解説するように文章を書きます。たぶん、どこかに『思考の飛躍』が含まれている方が文章の密度は高くなります。それだけ、多くの情報量を短い文章に込めることになるから。

あとは、むぎさんの文章は恐ろしく美しいですが、いわゆる「読みやすい文章」かと言われると決してそうではないと思います。多用される比喩やときに省略される主語や文章、そして大きな論理の段差など、読みやすさとは相反する要素がそれなりに含まれた文章ではあります。以前の記事でも述べたように、文章の密度と可読性は基本的にはトレードオフの関係にあり、むぎさんの文章は可読性よりも密度に振った文章だと思います(独特の美しい比喩、ときに省略される主語や文章、先述した『論理の段差』の大きさ等)。もっと、読みやすい・わかりやすい文章を書こうとすると、可読性を上げることになりますが、それは同時にむぎさんの比喩の美しさを削ぎ落とす(比喩というのは、直接的に説明することでわかりやすくはなりますが、その分美しさは減少する)ことにもなるので、私は今のまま、密度の濃い、美しい比喩等を用いた文章を書き続けてもらった方が、むぎさんの文章の最大の長所をスポイルすることがないので、良いのではないかと思っています。

※加えて、少し戦略的な卑しいことも言っておくと(本当はもっと素直な感想で終わらせたほうが良いと思うのだけれど)、可読性に比重を置いた文章を書く必要があるのは、私のような無名のどこの馬の骨とも知れない一般人です。私のような無名の一般人が文章でお金を得ようとする場合、読みにくい文章を書くと、多くの人はまず目を通してくれさえしないでしょう。だから、私は可読性に比重を置いた文章を書いています。(そもそも、密度の濃い文章が書けるだけの脳ミソがないという適性の問題もありますが……)
一方、むぎさんの場合は、すでにかなりの人気を獲得されているのですから、多少読みにくい文章であっても、ファンの方は一生懸命読み解こうとしてくれるはずです。だったら、可読性よりも密度に比重を置いた文章で、自分の強みを活かした方が(文章を売ることを考えた場合)、良いのではないかと私は考えます。
あと、Twitterで「むぎさんのエッセイが読みたい」と仰っていた方を数名お見受けしたのですが、私が上記の6つの文章を読んだ率直な感想としては、むぎさんの場合、エッセイよりも詩や論考という形で文章を書いた方が結果的に質の高いモノが出来上がると思います(売れるかどうかはわかりません。上述したTwitterでコメントされた方のように、エッセイを読みたいという方のほうが多く、そちらの方が売れる可能性は十分にあります。必ずしも質の高いモノが売れる世界ではないので……)。完全にそちら向きの文体・思考をお持ちだと私は見ました。先に述べたように、むぎさんの文章の最大の強みは、比喩表現の美しさと複眼思考からもたらされる深い論考です(少なくとも私はそう思います)。ですから、私個人の希望としては、むぎさんの詩や論考、芸術に関する文章等が読みたいです。もちろん、エッセイでも美しい比喩表現や鋭い複眼思考は活かせるとは思いますので、何個か試しに書いて頂けたら、うれしいなという思いはあります。ただ、何となく、詩や論考のような文章に非常に高い適性をお持ちの方なのかなと私の第六感は申しております。完全なる素人意見です。下世話な話でした。偉そうにスミマセン。。(むぎさんご本人およびむぎさんのファンの方々に対して。私はむぎさんのマネージャーでもなんでもないのにね……)

まあ、むぎさんは恐ろしい感性・思考力をもった書き手です。私もこれから彼女の文章を四苦八苦して読ませてもらって(実は私、あまり深いところまでむぎさんの文章を理解できていないんですよねー笑)、いろいろ勉強させてもらうつもりです。いやー、Vtuberうんぬんというより「これはすごい書き手が出てきたなあ……」という感じで、むぎさんという才能が飛躍していく様をこれから眺めさせてもらうとしましょう。1人の観測者として。

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