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【今日の読書】『もの食う人びと』辺見庸

この地球に誕生した生命である以上、食わねばならないのは我々の業であります。ことさら「ひとはなぜ食うのか」と考えることに意味はありません。
食わなきゃ生きていられないからです。地球上の生命に例外はありません。

最貧国であろうと紛争地域であろうと絶対に間違いなく言えることは、そこにも必ず食う人々がいるということ。
そんな地域のふつうの人たちを食事の観点から取り上げたのが、辺見庸の『もの食う人びと』というルポルタージュです。

辺見庸はただ取り上げるだけでなく、現地の人たちと一緒に同じものを口にします。

ダッカでは残飯を食らい、豚も乗り込んでいるハノイ発ホーチミン行きの車中で車内売りの弁当を食い、ポーランドの移動サーカス団とともに食う。エチオピアでは口に皿をはめ込んだスーリー族を求めてコーヒーを飲む。
共産主義崩壊後のロシア軍で飯食う、原発事故のチェルノブイリでも、ソマリアでも、韓国の従軍慰安婦ともに、とにかく食う。食う。

残飯や放射物質にまみれたボルシチはまだ人が食べるものですが、理論的には食べることができても倫理的に食べてはいけないものが人の世にはあります。
ムスリムの豚、ヒンズーの牛とは全く違うレベルで食べてはいけないもの。

それは隠されてはおらず、知っている人は知っていること。
しかしその忌まわしさで口にすることが避けられていることです。

それはミンダナオ島で残留日本兵によって行われました。
圧倒的な食のタブー。その部分を引用します。

村人たちは口々に言ったのだ。
「母も妹も食われました」
「私の祖父も日本兵に食われてしまいました」
「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました」
「食われた」。この受け身の動詞が、私のメモ帳にたちまち十個も並んだ。
村民たちは泣き叫んではいない。声を荒げてもいない。押し殺した静かな声だった。

この本が出版されてから25年以上が過ぎていますが、書かれている地域の問題や事柄は完全に解消されてはいません。

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