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どいつもこいつも「夢」の押し付けばかり

とある小学校の脇をよく通るのだが、そのフェンスに大きく掲げられているフレーズが気になった。いや、何てことのない言葉なのだ。

「夢チャレンジ 〇〇っ子」

〇〇には地名(学校名)が入る。なかなか未来に向かう子供の学び舎にふさわしいキャッチフレーズじゃないか・・・。とは、ひねくれ者のじじいにはならなかった。
「また夢かよ」この血の通わないテンプレ屋さんなフレーズはきっと、やる気のある単細胞か、やる気のない無責任男が作ったんだろう(児童が作ったかも知れないが、選んでいるのはオトナだ)。明るく楽しい学校生活ならいいが、毎朝重い荷を背負い「夢に挑戦する」という強制労働に通わされていなければいいのじゃが・・・。

そもそも世間が夢、夢うるさくなったのは(古くからの牧歌的な「夢」ではなく)、そうした明るい将来が容易に描けなくなってからだろう。複雑分化する社会のヒエラルキー、価値の多様化。「夕陽に向かって走れる」ようなわかりやすい目標を提示できなくなったオトナたちが見つけ出した実態のない口当たりのいい言葉。宇宙飛行士なんて、夢の頂点に立った人として、こんな時代の「夢の伝道師」に都合よく使われてるような気もしてくる。

ところがこいつが、子供たちの心を縛っているとしたら、ほってはおけない。近頃じゃ「ドリームハラスメント」なんて言葉もあるそうじゃないかい(なんでもハラハラすりゃいいとは思わないが)。だいたい今のご時世「生きていていいんだ」って思える事すら簡単じゃあなくなって来ている。子供の世界だって同じだろう。「生きていていいんだ」って子供が思えれば、自分の「居場所」(「逃げ場所」とセットだ)だって出来てくるし、そのうち手離したくないものだって見つけられるようになるさ。ここまでだってかなり難しいことだと思うんだが。ましてや「子供に夢を与えたい」なんて、軽々に言っちゃあいけない。「与えたい」なんて言った時点で、そりゃあもう「オトナの目線」なんだから。





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