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3.11を思い出してみる

神奈川に住んでる自分に3.11は直接の当事者ではやはりなかったのかもしれない。
当事者ではなかったかもしれない自分にもインパクトありすぎの出来事だったけど、いま漠然とあの日とその周辺を振り返ってみようと思った。

日記でしかないものになってしまうかもしれませんが書いてみようと思います。


仕事先のスーパーに近いところにあるホームセンターに、収納BOXを買いにいった帰りのことだった。

両手でBOXを抱え、駅へ向かう途中、身体が少しふらついた。

貧血気味かな……やれやれ

右前方にある3階建ての家電店の照明が落ちていて、客を含む沢山の人がどっと入口から出てきた。

こんな明らかにおかしいことがおこっても、鈍感な自分は、何か合同避難訓練でもやってるのかなと、そこを素通りした。

さらに行くと、小さめのハンバーガーショップの照明がやはり落ちていいて、店員を含む人が誰もいないのを目撃した。

これでも、鈍感な自分はまだ事態を飲み込めていなかった。

そのころはまだガラケーで、いまみたくスマホで、緊急サイレンみたいのが突然「ウ~、ウ~」っとうるさく鳴ることはまだなかったからだ。

その先の大通りでは、巡査が交通整理をしていた。

何か事故でもあったのかな……

絶望的に鈍感な自分も、その交差点からもう少し先の光景を見て、やっと何かを悟る。

電車が陸橋の上で立ち往生している……

こんな光景は人生で1度も見たことがなかった。

住宅沿いの家々から人が沢山外に出ていて、しゃがんで、あるいは立って何かをはなしている。

やっと、事態がのみこめた自分は、ガラケーのウェザーニュースにアクセスする。

震度7の地震で、宮城・福島に大津波警報が出ているということだった。

「津波はおそろしいから、絶対に逃げなければいけない」
父か誰かからそんなことを耳にしていた自分は、宮城・福島が対象だったにもかかわらず、
「標高の高いところへ行かねば!」と思い
坂を上がって、随分先のほうにある市民公園のような場所へ行った。
海沿いのスーパーで働いてる仲間たちが気にはなったが、ここはまず海から離れることだと思った。

自分のいたところは、いわゆる沿岸で、標高は3メートル前後だった。

標高20メートルはある場所にあるその公園にはほとんど人がいなかった。

そこまでやってるのはどうやら自分ひとりのようだった。

ガラケーで、いまみたくYouTubeもないので、これといった情報にはアクセスできない。

いや、あんな光景をYouTubeとかでリアルタイムで見れなくてよかったと思う。

2時間くらいして、ようやく家に帰ることにした。

途中何人かの、勤め先のスーパー勤務の人に出会って、大袈裟な避難をしてる自分を笑われたりした。

それはともかく、電車がスットプしてるので、歩いて帰るしかなかった。

少し、重いBOXを持ってるのが呪わしかったが、職場の人と途中まで世間話をしながら帰途についた。

比較的仲のよい人としか出会わなかったのも幸いした。

途中で陽が完全に落ちてしまい、停電で信号機がいっさいついていない異様な光景の中、それでも車はヘッドライトをつけて、何故か事故もおこさず走ってる。

家の近くまで来ると異様さは際立った。

街燈も家の電気もいっさいついておらず、車もほとんど走っていないので、江戸時代とかにはこんな暗さだったのではというくらいの異様な真っ暗闇が眼前に広がっている。

家に着いて、父が持っていた、ろうそくが活躍した。

やはり父が持っていたトランジスタラジオは、衝撃の事実をうるさく伝えていた。
津波の死者は、現時点で確認するかぎり300人以上になるということだった。

ろうそくだけがついてる団地の部屋の中で、ラジオがつたえる情報は、戦慄といってもいいものだった。

背筋が凍りつくようなはなしだったが、翌朝の新聞などで伝えられた死者の数は300人どころでなかった。

翌日、職場のモール大型スーパーでは、冷凍・冷蔵の生ものを全員で廃棄処分にした。
普段は24時間営業なのに、その日はわずか1時間の営業で、カップラーメンくらいしか新規の納品がない状態が数日続いた。

営業時間がもとにもどるにの2週間はかかったと記憶してる。

その後、メディアが伝える、震災の数々の被害や後遺症を耳にするにつれ、僕は、自分がどちらかといえば部外者だったのだと感じた。

いや、同じ地震列島に住んでるんだから部外者といっても、安堵を伴う呑気なものではなかったけれど

月収が15万円に満たない自分は、当然、宮城・福島に直接かけつけるわけでも、募金援助するわけでも、救援物資を送ったわけでもない。

その数年後始まったアベノミクスという政策は、どうやら自分たちは、その直接の恩恵にはあずかれない層だと気づいた。

苦しいときは「宮城・福島の人はもっと苦しいだろう、いや、もっと苦しい人は、自分の住んでる市内だけでも沢山いるだろう」式で乗り切ることが増えた。

震災のもたらした意味ってのは、鈍感な自分にははっきり分からなかったりする。

でも、もしかすると、「原発、まだやるんですか?こんなになっても?」みたいなこともあるのかもしれない。

でも、火力とかその他の発電もいろいろ牽制を受けてるとか、旧式の利権構造とかいろいろあるのかもしれない。

以上、「3.11を思い出してみる」でした。


(あとがき)
同じ地震列島に住んでるんだから、決して他人事とは言えないにせよ、3.11をやや部外者として過ごしてしまった自分には、いろいろな重たいはなしに衝撃は受けましたが、人生を直接形で大きく変えたというはなしでもなかったようです。
というより、僕は僕の日常を守るだけで背一杯なのかもしれません。

3.11って、当事者の方々とかあとはそれがドラマティックな転機を迎えた人以外はそれを語ってはいけないムードがどこかにあったように思うんです。
何かすごくバズって多くの人に読まれるものを書けるのでなければ、それについて言及すべきではないような気がしていましたが、さすがに干支ひとまわりして、そんな呪縛も弱まり、物書きのひとりとして、そのあたりを書いてみようと思いました。
当時であれば何も書けなかったに決まってますから。

あれから12年という歳月が経ちましたが、経験の大小にかかわらず、あの日がさまざまな人によって語られるべきなのかもなんて思うこともあります。

思い出話のようなものを読んでいただきありがとうございます。

書いたあと、来年か再来年に出そうかみたいな駆け引きを一瞬してしまったんですが、今年出すことにしました。

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