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ある諦観を打ち破ろうとするひとつの手段としての投稿

ちょっとシリアスで肩の力が入ったタイトルになってしまいましたが、みな様にとっての投稿とは何でしょう?

いや、大上段に構えすぎたようです。

もっと柔らかく聞きましょう。

みな様の投稿ライフはどんな感じでしょうか?

楽しく書けてるとかでしょうか?

どんどん書くことが出てくるとかですか?

そうであれば羨ましいですね。

人生が煮詰まることはありますか?

投稿生活が行き詰まることとかはありますか?

これを読んでる人が若い方であれば、もし行き詰まっても「どうにかなる」と楽観的になったり、その一方で「どうしようもない」という絶望とまでいかなくても悲観や諦観に落ち込んでしまうこともあるかもしれません。

僕のように若くなくても(40代後半です)こういったことは続くんです。
もちろん個人差が大きいかもしれません。

とくに近頃ですと、若い方も経済市場に自己を放り投げたとき、または経済市場に自己を問うたとき、自分の力がそれほどではないことに当面して、何か諦観にちかいものにこころを覆われるかもしれません。

僕はいろいろあって、こんな年齢で派遣のバイトなんかをやっておりまして、作業現場で必死こいて手や足を動かしてますと、年齢のせいもあるのか、情けないはなしですが正直つらくなってくることもままあります。

まぁ投稿生活が行き詰まりますと、逆に一般労働に救われることもじつはあるんですが、派遣の仕事の忍耐って諦観や悲観を払拭するにはちょっと足りないことも多いんです。
給料が振り込まれると、すこし安堵することはありますが、派遣バイトの仕事ってどこまでいっても手と足を動かすだけなんで、それをいくら重ねても悲観や諦観を払拭するには足りないと感じることも多いんです。

で、そこで僕は思ったんですけど、自分にとって投稿とは(noteに限らず)ある諦観を払拭する試みでもあるといえるんじゃないかと思ったんです。

僕の投稿のいくつかは諦観を払拭しようとする試みだったのかもしれないと。(諦観をまんまだらしなく書いてしまっている投稿もありますが)

諦観を払拭するために投稿という行為に向かっているんじゃないかと。

すくなくともそういう時もあると。

えっ?

わたし(あるいは僕)の場合は投稿こそがむしろ諦観の源泉だけどって?

確かに、僕も投稿してから10時間たってもスキが一個も入らないと、しくじったか!という気持ちになりますし(多いか少ないかはよくわかりませんが、今日現在までスキゼロは2記事あります)10PV(スキ数ではなくPVがですよ)に届くのにかなり日数がかかると、もうダメか!と思うこともあります。
また、すくなくとも近日中には収入にはつながりそうにないことや、フォロワー数やスキ数で景気のいい数字をはじき出してる人や記事を見たとき、自分には到底書けそうにない素晴らしい記事をみたとき、誰それさんがスキをくれないとかあるいはくれたとか、自分のしたコメントやスキが向こうからは煙たがられてる、あるいは迷惑に思われてるのに勘づいたとき、記事によって誰かを傷つけてしまったとき、またディスられたり炎上で落ち込んだ時、プロみたいな人やサクセスしてる人みたくはやはりなれないと思えるとき…その他。
こう考えると、投稿にまつわる諸々のことも諦観につながりそうなことはいっぱいあります。
自分は才能と人気の両方を兼ね備えたインフルエンサーとかでは全然ないからです。

にもかかわらず、なぜ、少なくとも今のところは1円にもならない投稿を続けようとするのだろうと考えると、投稿というのはきっと、諦観や絶望を払拭しようとする試みだからだと思えてきました。

諦観や絶望を一時的にでも払拭したわたしたちに勝利や約束の地はもたらされるのか?

僕たちは誰もナポレオンではないのだから、どこまでも勝利の行軍を続けることはおそらくできないだろう(あたりまえか)

若い人達には遠い先かもしれないが個人の人生が死でおわるなら、ほとんど誰の先にも待ってるのは終局的に勝利ではないのだろう。

明治のはじめに、福沢諭吉は慶応義塾を、新島襄は同志社を創立しました。
そういったものは100年、あるいはそれ以上先を照らすことを考えて築かれたのでしょう。

僕たちがやってる投稿の照らせる先は、もしかすると10メートル先くらいでしかないのかもしれません。

諦観や絶望によって投稿が滞ることもあるでしょう。

僕も先月は2記事がやっとだったのです。

自分も、面白い(と自分が思える)アイデアや画期的(と自分が思える)アイデアが浮かんで張り切って投稿するときもあります。

しかしそれによってもたらされた結果がシラケたものであれば、やはり諦観に支配されるかもしれません。

でも何で投稿を嫌になったりしても結局続けるのかというと、ひとつはそれによって諦観や絶望を払拭しようとしてるのだからではないかと思えてきました。

これを読んでるあなたにとっての投稿とは何でしょう?


(追記)いや、諦観を払拭するために投稿(パソコン)に向かうというより、諦観と格闘した結果、その諦観を払拭できそうな予感・気配・光明などが微かにでも見えたり感じられたりしたとき投稿しようとするというか、つまり諦観と格闘した成果や結果が投稿なのかもしれません。
それは明日にでも壊れてしまうかもしれない錯覚に近い楽観にすぎない場合も多いかもしれないけど、その楽観をも否定してしまえるほどには人間の多くは強くないのではないでしょうか…
だから投稿をする人の多くは、現実でしかないものにうなだれつつ、しかしどこかに光明を探している。その小さな抗いのひとつの現われが投稿なのだろうと。
すこし難しいいいまわしをしてしまったかもしれませんが、わたしは今のところ投稿という営為をそう捉えています。

(さらに追記)諦観を投稿で払拭しようというのも、でもそれは投稿という行為自体が不可能にはなっていないのが条件であるとは思います。

御一読ありがとうございました。

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