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カオスを部分的にせよ治める

ユーチューブのタイムラインを1日3回はスクロールしてしまう。

すごいカオスだ。

「後で見る」をついタップする。


カオスによいイメージを持っていたこともある。


岡本太郎の芸術論には御多聞に漏れず僕も影響を受けた。

生前の「芸術は爆発だ!」というテレビCMにも影響された。


カオスこそが生成だ!

カオスこそがエキサイティングだ!

そう信じてる部分があった。


アラフィフの僕が高校生だったころ、音楽雑誌をよく読んでいた。

いま考えると、ユーチューブのタイムラインよりは情報が整理されていた。


地球上は60億の人間がひしめくカオスだ。

異論はない。

しかし、あまりにひどいカオスは、たとえば濃霧であたりが見えず

身動きがとれないのに似ている。


人為の力やテク(ノロジー)をどこまで信じていいのかわからないが、

展開するカオスに完全ギブアップでは、雨ごいをする人のような無為を続けるしか手がないような気もする。


カオスを完全にではなくとも

部分的にでも治めようとするのが人間の目指す方向じゃないか?


カオスはたとえば

目の前に美女がたくさんいるハーレムを思わせる。


あら、楽しいじゃない?


いや、このカオスにケリがつかないと

きたないはなしかもしれないが

男性は膣内に射精ができないのだ。


カオスをカオスのままにしておくのは、そんな不都合を生む。

だから、究極論として、地球上がカオスだったとしても

部分的にせよカオスを治める方向に動くのが人間の営みではないか?


カオス生成論は

芸術論とか、宇宙誕生論としては魅力的かもしれないが

それこそが人生だと思ってると

生活が崩壊してしまい

雨ごいをする人に似たような状況ができあがってしまうのではないか。


カオスをカオスのまま生きる。

いや、これだけ文明が進むとそれは難しいし

第一、心身に負担がかかるだろう。


カオスを部分的にでも治める。


活動はカオスを拡大する方向へ動くことが多い。

しかし、そこで生じたカオスは適当なタイミングで整理されないと

今日、何をやっていいのかお手上げな状況も考えられる。


焼土がもたらす焦燥の中で

ある無力感を伴うイライラを握って

そんなことを考えていた。



ある種の暴力は、目の前に広がるカオスに押しつぶされそうになった挙句の絶望的抵抗だ。

人間の内なるカオスとは個人史でもあるから

一気にそれをどうにかする手立ては少ない場合が多いだろう。



今日も一日が始まる。


(あとがき)
いつも読んでくれてる人には、唐突感のある文章だったかもしれません。
メモかはしり書きの類いのものになりました。
目の前にカオスが広がってはいない人にはあまり意味のない文章だったかもしれません。
論考の類いでもなく
詩に近いものかもしれません。

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