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3次元へのこだわりは軋轢を生みやすいが3次元的なつながりが縁である

あなたがたとえば国宝級の鎌倉彫師だったとしよう。

鎌倉彫みたいなことは、ある意味3次元への徹底的なこだわりによってその価値が生じている。

もしあなたが国宝級の鎌倉彫師で、その3次元的なこだわりを捨てることは、ある意味自己破産であり、それは引退を意味するだろう。

金閣寺が美しいのは、それをつくった人々が徹底的に3次元にこだわったからである。

いや竜安寺の石庭でもよい。

ぼくたちは渋谷のヒカリエをそれほど美しいとは思わないかもしれない。

設計者には失礼な言い方になってしまうかもしれないが、それはそれが、金閣寺や竜安寺の石庭ほどには3次元にこだわってないからかもしれない。

あるいは周囲の建造物が雑多にすぎて、ヒカリエだけで美しく存在するのには限界があるのかもしれない。

あるいはヒカリエの基本デザインコンセプトに「美しい」はそもそもふくまれてないからかもしれない(この辺の感じ方はかなり個人バイアスがかかってるかもしれませんが、でもヒカリエが金閣寺や竜安寺の石庭みたいに、その外観だけを見物しに遠くから沢山の人が訪れることは、やっぱり考えにくいのではないでしょうか)

3次元へのこだわりは、忙しい現代人には難しいところもある。

3次元へどの程度こだわりがある人なのかの見当は簡単につくかもしれない。

コーヒーを豆を買ってきて、自分で挽いて淹れるタイプであれば3次元へのこだわりは強めかもしれないし、

コーヒーがインスタントで、お酒もスーパーで200円しないチューハイとかばかり飲んでるのであれば、3次元へのこだわりはそんなに強くないタイプかもしれない(絶対そうだとまでは言えませんけど)

女性も40過ぎて白髪染めに頑張るタイプと、ほとんどやらないタイプにわかれることが多いかもしれない。

後者の人にはなしを聞くと、もとがそんなにいいわけじゃないから、頑張ってもつかれるだけというような意見だった。

3次元へのこだわりは、成功すれば、素晴らしい鎌倉彫、竜安寺の石庭、おいしい料理やコーヒー、素晴らしい靴や洋服、などなどといった形に結実する。

しかし、3次元へこだわることは、忙しい現代人には難しいことが多いし、相容れない3次元へのこだわりは、ただ対人軋轢のもとにしかならないことも多い。

ほとんどの対人間軋轢は、最低ふたりの人間の相容れない3次元へのこだわりを両者が手放せないことから生じると思われる。

言い換えれば、相容れない3次元への執着はただ、争いと失望のもとである場合もある。

親子や夫婦という最小単位のかなりが、もうこれだけで、相当ぎくしゃくしてるのが現代の一般風景であり、親子や夫婦がうまくいってれば、これはもう現代の奇跡かもしれない。

「お前は、そこでどうしてそうなんだ!」という御立腹は、そこで3次元へのこだわりが決裂してることを指し示している。

わたしたちの傷つくことのかなり多くが、3次元へのこだわりが相容れないことと関係してると思う。

そこで、その傷を金を稼ぐことで慰めようとしてできたのが経済社会なのかもしれない。

しかし、その経済社会で稼ぐという慰めも、結果の平等が崩れるのは無論のこと、チャンスの平等という建前すら崩れてきているのが現代である。

たとえば、スティーブジョブスやマークザッカーバーグのような資本主義社会の勝利者と、コンビニでバカッター騒ぎを起こして罰を受ける青年の対比を考えれば、今日の社会はチャンスの平等という建前が機能してるとは考え難い。

そこで、挫折組の何割かは、お金やそれを稼ぐという3次元へのこだわりを放棄(部分的にせよ)またはこれを相対化し始めた。

お金やそれを稼ぐことを相対化できないと、ただ傷口のみが広がる層は激増している。

チャンスの平等という建前が崩れている社会では、金を稼ぐという次元で勝利しても、それを社会還元に回せないと(全額ではなかったとしても)落ち着かない人もでてくるだろう。

格差社会とはある意味、お金(を稼ぐこと)にこだわることが軋轢を拡大する可能性が大きくなってる社会を意味する。

無意味に傷が拡大するだけだ、という予感が増した個人は「もうお金にこだわるのはやめようか」という方向へシフトし始めた。

稼いでイコール勝利というカタルシスは90年代以降(バブル崩壊以降)だんだん機能しにくくなってきた。

はなしがそれてしまったが

3次元へのこだわりは、うまくいけば、鎌倉彫の作品その他、素晴らしいものに結実する。

しかしうまくいかなかった場合はただただ傷と軋轢のみが拡大する。

だが、そこで3次元へのこだわりを存命中に捨て去るのは自殺か世捨てだから(刑務所から出てこれない境遇とかも世捨てにかなり近いだろう)完全にこれを捨て去るのは難しいだろう。


さて、3次元への執着の失敗が各種軋轢のもとというはなしはこれくらいにして、つぎは「縁」というはなしだ。

現世的な「縁」というのは、3次元で接点があることによってしか、あるいは接点があるうちしか機能しにくいだろう。

Facebookで過去人脈からの友達申請を受諾するのは、これは過去において接点(肯定的な)があったからだろう。

しかし、個人差はあるかもしれないが、まったく知らない人からの友達申請は考え込む場合が多いだろう。

接点がどこにあるか分からないからだ。

親子、家族、親戚などの血縁

学校のクラスメート

職場で一緒になった人

趣味が一緒の人

合コンで意気投合した人

ネットで知り合った人

全部3次元での接点があるから、相互認識が生まれ「縁」が生じる。

相互認識には至らない場合、たとえばインフルエンサーとそのフォロワーみたいな関係だと、これは片認識であることが多く、相互認識と呼ぶには足りない。

片認識も程度によっては「縁」になり得る。

たとえば、キリスト(故人)がこころの支えになってるとかだ。

「縁」というのは多く、接点、つまり3次元の媒介を必要とする。

20歳過ぎだと、職場の「縁」が一番わかりやすいかもしれない(職場にはまったくはなせる人がいないというケースも多いだろうけど)

仕事という媒介があり

同じ会社という媒介があり

チームという媒介があり

肉体的に顔を合わせて、同じ空間を共有している(これも大きい)

もちろんそれらのすべてが自己にマイナスにしか作用してなければ、会社を辞めたくなるだろう。

ネットでも「縁」ができるが

ネットの「縁」はしばし、自分の都合を優先したがる(特に収入に直結してはいない場合)

ぼくは今アラフィフで、J-POPのミスターチルドレンと同学年(のハズ)なのだけれど、ミスターチルドレンはいまアラフィフの僕が23歳くらいのころブレイクして、いまだに当時の4人でやってる。

これは結構驚くべきはなしだ。

僕は23歳のころからカウントすると、日払いの職場を含めれば驚くほど職場を変えている。

同じ職場に10年以上いたこともあるが、驚くほど沢山の職場に関わってる(それも下層の労働者としてでしかないが)

ミスターチルドレンはその期間ひとつだけなのだ。

これは何を意味するかと言うと、おそらくだが

人生で自分の都合を最優先すると、離合集散が激しいものになりやすく
「縁」も長続きしにくいのかもしれない。

ネットの「縁」というのは、どちらも自分の都合を最優先させたいもの同士でできる「縁」が多いだろうから長続きするのかどうか分からない。

ミスターチルドレンみたいな長い関係を、長い棒にたとえれば、離合集散の激しい人の「縁」は「円」または「点」のようになりやすいだろう。

ネット上の自己は多くの人が、会社などでの自己より、より自分の都合を前面にだしてるケースが多いだろう。

それが、同時に他者の都合も大きく満たしてる限りにおいて関係は続くだろう。

「縁」が長続きしさえすればよいものなのかは何ともいえない

人の数だけ感じ方があるのかもしれない。

長い棒を好む人もいれば、円のようなサークル(還暦がめぐって、また会いましたみたいな)や点でしかないような関係を好む人も多い(点を好む人(その場限りの関係を好む人)は他人に気安くはなせないことを多く抱えてる人に多いかもしれない)

どっちがよいのかは、その人の肉体状況にもよる。

さて、ちょっと結論感に乏しいはなしになってしまいましたが、3次元へのこだわり(というか執着)は失敗すると対人軋轢のもとになることが多く、また「縁」というものは3次元での接点がないと生じ得ない、また一旦生じた「縁」も自分の都合を最優先させて、相手のニーズを満たしてない場合は長続きしにくいか、または「片縁」っぽいものになりやすいだろうというはなしでした。
このテーマはもう少し掘り下げられそうな気もするんですが、これ以上だと長くなりそうなんで、今日はここで

長い文、ここまで御一読どうもでした。


(製作データー)
書き始め:2021年3月24日午前10時55分

(あとがき)
今日は派遣のバイトが休みなんで考え事をしてました。
noteで使えそうな気がしたので出すことにしました。
明日のバイトの応募も既に3つ不採用で、明日もひょっとすると考え事かなぁ~
考え事も孤独だなぁ……なんてグチはやめましょう。

二度くらいは読む価値があることを書いたつもりですが、どうでしょう。

それまでになかった視点をちょっとでも与え得たらさいわい。

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