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【読書】科学と宗教と霊的なものとその他諸々がある世界で『精神科医の悪魔祓い』

『精神科医の悪魔祓い デーモンと闘いつづけた医学者の手記』リチャード・ギャラガー著(国書刊行会、2021)

助かることは、容易ではない

精神科医リチャード・ギャラガー氏が医学者として「悪魔祓い」に携わってきた経緯と経験、知見を綴ったこの書は、オカルトとも違うし似非科学批判でもない。医学専門書でもないが冒険譚でもない。悪魔に苦しめられている(憑依されている)人が、その苦しみから逃れたい、脱したいときに何ができるのか。「悪魔」という存在がどうしてもキリスト教の中にあるため、キリスト教の聖職者が宗教的に救おうとする。科学が発展した現在で「それは病気なのか」を厳しく見分ける。家庭や人間関係の問題や個人の資質、体感、経験を掘り下げても解決しても、(キリスト教的には)悪魔は存在する。

けれども、悪魔に立ち向かう手段は一つに絞りきれず、「誰か」「何か」が劇的に解決できない。しかし、そのセンセーショナルさゆえに食い物にもなる。誰かのパワーを誇示する道具に、エンターテインメントに、何かのキャンペーンに、法をかいくぐる手段にもなってしまうし、苦しむ本人が逃れることを諦める(悪魔にのっとられる)ことにも至る…読んでいてやるせない気持ちになるのは、相手が悪魔でなくても似たような事象を知っているからだろう。苦しむ人が助かろうとするのも、その人を助けようとするのも容易ではないことが一番大きなテーマだと思う。

西洋と科学の土台と宗教

私はキリスト教について詳しくはないけれど、やはり西洋(西欧)文化圏の話となればキリスト教が切り離せない。生活から学問まで何もかも切り離せない。信じていないと思っている人にも悪魔(キリスト教世界の)が憑依してしまうのだから、「信じるか信じないか、あなた次第です」にならない! 信じていなくても根ざしている、というのは大きいことなんだな…と改めて思う。違う土台を持っている地域の人間からすると、やっぱりどこか理解しきれない部分はあるけれど、根ざしているもの(価値観だとか罪の意識とか、アウトサイダーであるとか)はあるんだなと納得する。

日本にどうしても仏教的な、神道的なものが根ざしているのと同じなのだろうけれど、西洋のキリスト教土台は科学の土台でもあるので、そこがややこしい。本書でも精神医学や人類学などが出てきて「そこも絡んでるんかーい!」が頻出するので、いやはや土台が違うというのは「あああ、今ひとつ根っこがわかんないよ(;´Д`)」となる…。映画「ミッドサマー」を見て、そのホラー加減がよくわからないのと似ているのかも。また西洋といってもアメリカなのが、ややこしさを増す…たくさんの宗派やら地域の特色やらテレビ伝道師やら、なんとなく知ってはいるけど、それも書籍や映画などメディアを通してのものでしかないし。“わかってる風”で読み進めるのがなかなか不安でもあり難しくもある。

チーム戦

そんなふうに多様な土台が混ざり合う現代だからこそ、そしてグローバル化や人の流入の多いアメリカだからこそ、著者のギャラガー氏は学際的であることの重要性を強調する。科学者も宗教者も人文学者も互いに智慧を混ざり合わせ、互いの可能性を排除することなく俯瞰すること。

当事者本人にしても悪魔による(とされた)苦しみが何なのか、与えられるのではなく内から探り出すことは辛く厳しい。思い当たる節が人生にはありすぎる。何人ものエピソードで貧困、虐待、薬物などが絡んでいるけれども、そこで「はい、問題はコレ」と打ち切りにせずに苦しみを見据えるのは、本人のちからが不可欠だという。助ける側の宗教者や医者も、間接的には福祉など行政や法律家、もちろん家族など関係者も長い時間をいとわず、けして排他的になることなく向き合うことが必要になる。。

身体や精神の病気と同様、憑依や苛虐の被害者は「魔法の弾丸」や「即効薬」を欲しがる。つまり自分は何も努力しないで何もかも上手くいくような術式である。これは人間の自然な願いではあるが、近視眼的なものだ。慢性病の患者が瞬時に全快するということはない。ほとんどの病気には回復のための時間と努力が必要なのだ。悪魔の攻撃も同じことである。
(256ページ)

誰にとっても信じがたい、理解を超えた「なにか」。ここでは悪魔だけれど、国や文化圏が違えば別の「なにか」がいて人を苦しめる時に、1つの方法1人の治療家ではなく、当事者を含めたチームこそが立ち向かえるということなのかなと考える。ドラクエのパーティーみたいなやつ。だけど、ラスボスを倒して終わりにならなくて、ゴジラ的に追い出すことに成功したとしても、また戻ってくる可能性はじゅうぶんにあるやつ…と考えると、これたぶん西洋的な世界観と違うやつや😅。だからアメリカでは困難さがあるんだろうなあ。

ギャラガー氏はメディアの影響にも言及している。よりセンセーショナルに、よりわかりやすく、より求められるものを提供するメディア「ではない」ことは、何ができるだろうか。悪魔に苦しめられている人は、その苦しみの理由をわかりたくて、そこから逃れたくてさまざまな情報にアクセスし、頼れそうな人、理由や治療法を探すわけだが、メディアは助けになることもあれば逆もある…苦しみの原因が悪魔でなくても、そうなっている。著者も最後に述べているように、公正に扱い、熱心に問うことに尽きるんだろう。メディアは、チームに入っているような入れないような微妙な立場になる。が、直接の助けにならないけれど関わっていることが肝要なのかもしれない。

とっちらかった読書感想文だけれど、なかなかにハードな読書だったので記録。

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