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ノアールの夢 #1「BAR aquarium」


扉を開けると、暗いチューブのような空間がまっすぐにのびていた。
光の粒のような照明が床に埋め込まれ、進むべき方向を示すように闇にぽつぽつと輝きを灯す。やがて、目が暗闇に慣れてくると、両側の円く湾曲した壁が水槽になっていることに、聡子はようやく気付いた。小さな熱帯魚が闇に鮮やかな色をこぼしながら泳いでいる。

 これはどういうことだろう。
 たしか、さっきまでいつもの河原に智樹といたはずだ。

智樹とは高校2年から付き合って5年になる。いつも人の輪の中心にいて、気さくなところがまぶしかった。少しでも近づきたくて、智樹が所属しているバスケ部のマネージャーになった。バスケのことなんて、ほとんど知らなかったけれど。雑誌の『月刊バスケットボール』やルールブックを読み漁った。だから、付き合えるようになったとき、聡子は一生分の幸せを使い果たしたんじゃないかと思った。

部活後に連れだって帰る途中、いつも自販機でジュースを買って、河原の土手に座って飲んだ。聡子はグレープルーツジュース、智樹はコーラ。寒くなると、聡子はミルクティー、智樹は缶コーヒーが多かった。

智樹が土手の草に寝転がる。青い草のにおいに智樹の汗がまじって、熱気に蒸されゆらりと立ち昇る。フェロモンって、これのことをいうのかな。そのにおいが鼻に届くと、胸の奥がぎゅっと収縮して下腹部が熱くなる。

デートはいつもこの河原だった。それがデートと言えるのかどうか。でも、高校生のころは毎日いっしょに帰れるだけでうれしくて、河原で過ごす時間は宝物のようだった。


混乱したまま茫然と立ちつくしている聡子の左肩を、がっしりとした手がぐいとつかんで抱き寄せる。驚いて顔をあげると、暗く幻想的なライトに彩られた背の高い智樹の顎が見えた。

 けれど、いつもと何かが違う。

ああ、そうか。服装がちがうのだ。
いつもはTシャツかポロシャツ、よくてラガーシャツに穴のあいたよれよれのジーンズを無造作に履いている智樹が、パリッとした白シャツにジレを羽織り細身のブラックジーンズを着こなしている。こんなお洒落な智樹を見たことがない。

聡子の肩を抱いたまま、智樹はもう何度も来たことがあるかのように、すたすたと歩きだした。
思わずつまずきそうになって、聡子はピンヒールを履いていることに気づいた。おまけに買ったおぼえもない、薄いシフォン地の裾がふわりと広がったワンピースを着ている。駅前のモールに入っているブティックのウインドウにディスプレイされていて、前を通るたびに眺めていたワンピースだ。

細いチューブを抜けると、丸いドームのようなひらけた空間に出た。周りをぐるりと大きな水槽が取り囲んでいて、大小さまざまな艶やかな熱帯の魚たちが泳いでいる。まるでサンゴ礁の海にいるようだった。テーブルの周りも小さな水槽に囲まれていて、ブースのようになっている。それが広い空間に星のように点在していた。

その一つに案内された。
席に着くと、智樹が慣れた感じで次々に注文していく。

 いつもと、全然、違う。

そもそも普段は、「お洒落な店は苦手や」といって、居酒屋かファミレスしか行かないのに。だいたい、デートはいつも、あの河原なのに。

ざらざらとした違和感が、聡子を居心地悪くさせていた。


「こんなの、違う」
そうつぶやいた途端、まわりのすべてが聡子だけを残してフリーズした。


「あれ? お気に召しませんでしたか」

目の前のテーブルに、いつ現れたのか、タキシードに身をつつみ山高帽とステッキを手にした小さな黒猫が立っていた。2本の脚ですくっと格好よく立っているが、その背の高さはどうみてもビールのジョッキほどしかない。

聡子は目を瞠(みは)った。

 (何が起こっているの?)
 (夢? 夢よね、これは)
 (夢ならば、かなりいい部類の夢かもしれない)
 (現実ならば、かなりやばい)
 (早く目を覚まさなくっちゃ)

聡子は頭を激しく振ったが、何も起こらない。
タキシードの黒猫がにやにやしながら聡子を見つめている。


(to be continued)

(2)はこちらから。


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