大河ファンタジー小説『月獅』47 第3幕:第12章「忘れられた王子」(5)
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第3幕「迷宮」
第12章「忘れられた王子」(5)
兄は妹の自由闊達な心を守り、妹は兄のままならぬ自由を補おうとした。
成長するにつれカヤは宮から出られぬカイルの代わりに、兄の目になろうと決心したふしがある。後宮から出ることはかなわぬが、後宮内を女童の恰好をして歩き回り、噂話や見聞きしたことをカイルに語って聞かせた。いっぽう鷲のハヤテは、外廷はむろん王都リンピアのようすや、時には海上まで遠征し鳥瞰でとらえたさまざまを伝えた。カイルは翡翠宮の奥に居ながらにして、後宮の隅々やゴーダ・ハン国の灌漑工事のことも、セラーノ・ソル国の王がセリダという小柄な女王であることも知っていた。
カヤが女童に身をやつしてうろついていると注進が入ると、さすがにエスミは「姫様にはきつくお灸を据えねばなりません」と眉をつりあげた。とりなしたのはサユラだった。
「舞や竪琴の稽古などはさぼっておらぬのであろう」
「ええ、それはまあ。姫様は器用というか、なにごとも飲み込みが早く、すぐにおできになられます。ただし人並みにでございます。それ以上、上達しようとはなさりません」
エスミには忸怩たる思いがある。
「姫のたしなみとしては、それで十分ではないかえ」
「そうではございますが。それと、女童の姿で徘徊されるのとは別にございます」
「のうエスミ、カヤは兄想いであると思わぬか」
サユラは椅子から立ちあがり、鎧戸をあけて窓から庭園を眺める。
池に張りだした四阿でカイルが画を描いている。カヤは隣に座してしきりに兄になにかを語っている。
「姫様の戯れは、カイル様のためと」
サユラは春風のように微笑む。
「妾は何も見ようとせず、知ろうともせず、覚悟もなく入内した。カヤは、王妃様のようにいずれは国を背負うて他国に嫁がねばならぬ。敵国に人質として嫁ぐこともあろう。ひとりで考えて、ひとりで対処せねばならぬようになる。危険に曝されることも多かろう。遠からず、ひとりで運命を切り拓いていかねばならなくなる。女童に身をやつして見聞を広げることは、あの子を助けることもあるやもしれぬ」
池をわたる風にでも説くようにサユラは語る。
「妾が愚かであったがために、吾子たちには過酷な運命を強いることとなってしもうた」
エスミもまた、サユラ妃とお子様たちの苦悩を思って嘆息した。王族とはなんと忍従を強いられる運命であるかと。
十五歳を迎え成人の儀である冠賀礼を済ませると、王子は後宮に住まうことは許されない。外廷に独立して宮を持つことになる。カイルは藍宮を賜った。
立宮に際し、近侍としてギンズバーグ侯爵家からも三名の推挙があったが、父上や兄上の息のかかっている若者を受け入れるわけにはいかない。丁重に断ると「童子はおろか、近侍までしりぞけるとは。後ろ盾もなしに立宮させるのか」と激怒したと聞く。エスミの弟のナユタを近侍頭とし、他に三名、カイルが生涯無冠のまま権力とは一線を画することを心得たものをつけた。
カイルは立宮前に臣籍降下を父王に願いでたが、沙汰が下りる前に王太子のアランが事故で急逝した。ひと月後に控えていたカイルの冠賀礼は王太子の服喪中であるため中止となり、藍宮への引っ越しだけがひそりと行われ、臣籍降下の請願もうやむやになった。冠賀礼が取りやめになったことを翡翠宮のものたちはたいそう口惜しがったが、「目立たなくてよかったではないか」とサユラもカイルも笑って取り合わなかった。
サユラとエスミは、一本ずつあらぬ懸念の棘を抜くようにして慎重にカイルを玉座から遠ざけ守ってきた。
それがあろうことか、今、王宮を二分する権力闘争に巻き込まれようとしている。
王妃が三人目のキリト王子を無事にご出産なされたとき、サユラは心底、胸を撫でおろした。たとえアラン殿が儚くなられようとも、カイルを王太子にともくろむ勢力はこれでもう生まれないであろうと。まさかラムザ殿まで相次いで身罷られるとは思いもしなかった。
いくらカイルには玉座を欲する気持ちはないとサユラが訴えても、外戚であるギンズバーグ侯爵は取り合ってはくれぬ。カイルが後宮を出て二年、もはや守ってやる手は届かぬ。これまでの歳月はなんであったのだろうか。争いに巻き込まれることは避けようがないのか。このような将来になるとわかっておれば、護身術だけではなく、剣や弓も兵法学も望むだけさせてやれば良かった。
王太后様も五年前に薨去された。
「のう、エスミ。何ゆえ、王妃様はキリト様の立太子を据え置かれているのであろう。大きな渦を止めることは、もはや叶わぬのかのう。『天は朱の海に漂う』との星夜見があったそうじゃ。天卵の禍いであろうか」
庭園にたわわに実る香橙の梢から、レイブンカラスが一羽音もなく飛び立った。
(第12章「忘れられた王子」了)
第13章「藍宮」第48話に続く。
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