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約束のエール

 ヒースロー空港に降り立つと、由梨は税関の長い列に苛立ち、危うく走り回る子どもを蹴り倒しそうになった。乾燥した機内の空気で、喉も体も、乾季をさまようサバンナの動物のようにからからに干からびていた。

 でも、それだけが理由でないことは、由梨がいちばんよくわかっていた。

 鳩尾が内側からぎゅっと摘ままれ、心臓がきりきりと締めあげられる。喉元が熱く灼けつくようだ。早く、早くと喘ぐ。

 ターミナル駅からヒースローエクスプレスに飛び乗った。パディントンでの乗り換えは面倒だが、とにかくロンドン市街への一番早い移動手段を選んだ。
 ベイカー・ストリートで地下鉄を降りると、由梨はトレンチコートの襟を立てて、路地を曲がった。イギリスの十一月はすでに十分に寒い。風にコートの裾が巻き上げられる。ヒールの細い脚が石畳の隙間に嵌って、時折まろびそうになる。ヒールなんて履いてくるんじゃなかった。気持ちは逸るのに、ちっとも前に進んでいない気がした。

 二つめの角に、石造りの小さなパブがある。扉の横から張り出ている真鍮の竿に何やら紋章のような旗が掛かっているのと、申し訳程度の看板と、扉の擦りガラスに店名が描かれている以外、そこがパブだと主張するものは何もなかった。

 カラン、カラン。蝶番が錆びついている扉は重く、ドアベルが鈍い音を立てる。カウンターにいるマスターがちらりと視線をよこす。カウンターのほかにテーブルが三卓だけの狭く細い店内を素早く見渡したが、まだパブがざわめくには早い時間だけあって、客は誰もいなかった。
 そのことに、由梨は半ばほっとし、そして少し落胆した。カウンターの端の入口の扉がよく見える場所に腰かけた。

「ペールエールをハーフパイントで」

 サーバーのタップがすっと下げられ、飴色の液体が注がれる。白くクリーミーな泡を薄くかぶった一杯を、そっと喉に流し込んだ。

 ああ、このぬるさだ。

 イギリスではビールは冷やさない、と聞いてはいた。
 だが、半年前にはじめてぬるいビールを口にしたときは、正直、がっかりした。その日は五月にしては汗ばむほどの陽気で、ロンドン市内をあちこち歩き回って喉が渇ききっていた。知っていたはずだったのだが、ビールはキンキンに冷えているものだという先入観をうっかり外し切れていなかった。 きっとあからさまに顔をしかめたのだろう。

「ぬるいビールは、はじめてですか」

 声をかけられたのにも驚いたが、日本語だったことに、もっと驚いた。
それが田坂との出会いだった。シルバーグレーの髪をきちんとオールバックにした五十過ぎぐらいに見える紳士が立っていた。


 一杯目で喉の渇きと心の落ち着きを取り戻した由梨は、二杯目のエールとサンドイッチを注文した。マスターはサンドイッチを由梨の前に置きながら、扉の方をちらちらと眺めている由梨に、

「彼をお待ちですか」

 と話しかけてきた。驚いて顔を戻すと、「ミスター・タサカでしょう?」という。覚えていますよ、とでも言いたげな顔でうなずいている。

 そうか。三晩も続けて日本人の男女が通えば、記憶に残っていても不思議ではない。それに、田坂はこの店の常連だった。あの日、田坂に声を掛けられてから二人で遅くまで飲んだ。

 イギリスのビールはなぜぬるいのか、からはじまって、エールとラガーの違いやその種類と奥深さなどビールの蘊蓄を語る田坂のバリトンの響きに、由梨は酔っていた。田坂に勧められるままに、さまざまなエールを味わった。グラスを重ねるごとに、最初、あれほど違和感のあった「ぬるいビール」がしだいに喉に体になじみ、心地よさが増幅していくのがわかった。

 それはたぶん田坂との会話が楽しかったことも関係していた。
 田坂はギャラリーを経営しているというだけあって、芸術全般への造詣も深く、話題は多岐にわたった。

 三十八歳というのは微妙な年齢だと、由梨は思うことが多くなった。気持ちの上では二十代のままなのに、髪は染めなければいけないし、油断していると口角もさがる。見た目のゆるやかな衰えに気持ちがついていかず、いつも何かに追い立てられているような不安があった。学生時代の女友達と集まっても、話題はもっぱら子育てのことで、独身の由梨には相槌を打つくらいしかできなかった。かといって、会社の後輩たちと飲みにいっても、妙な気を遣われてそれはそれで疲れる。同僚の男性や上司とは、一度、不倫の噂が立って以来、あえて飲みに行かないようにしている。

 だから、久しぶりだったのだ。会話に酔いしれるのは。
 気づくと、日付が変わろうかという時刻になっていた。

「ごめんなさい。楽しくて、こんな時間になってしまって。奥様が心配されていますよね」
「いや。妻が亡くなって、もう、五年になります」
「僕のほうこそ、女性をこんな時間まで付き合わせてしまった。ホテルはどこです。送りますよ」

 夫人が亡くなっていることと、外国だということの、どちらが由梨の気持ちを軽くしたのだろうか。たぶん両方だったのだろう。
「明日、ロンドンを案内しましょう」
 という田坂の申し出を、二つ返事で受けていた。

 いつもの由梨なら、平日で仕事もあるだろうとか、そこまで甘えてもいいのだろうかとか、余計な気を回し考えを巡らせすぎて、相手の好意をすなおに受け入れることがことができず、辞退することが多かった。
 でも、このときはそんなためらいが頭をもたげることはなく、「お願いします」と即座に返したことに、後になってじぶんでも驚いたくらいだ。

 翌日だけでなく、翌々日も、そして由梨が帰国するフライトまで田坂は付き合ってくれた。美術に興味があるという由梨を連れ、ロンドン市街に点在するアート・ギャラリーを周った後で、観光客がめったに訪れないような公園や街角に案内してくれた。そこは、先にギャラリーで見た絵画に描かれていた場所だった。途中で、田坂のギャラリーにも立ち寄った。
 二十八歳で渡英してからギャラリーを開くまでのことなどを、絵や塑像の解説のあいまに語る田坂のきれいに伸びた背を見つめながら、由梨は日本にいては知り合うことのなかった田坂との出会いの不思議を思っていた。

 三日三晩つづけて通ったパブでの最後の夜、互いの話が尽きることはなかったが、気づくとパブの客もほとんど帰ってしまっていた。
「名残り惜しいけど、これを最後の一杯にしましょう」
 そう言って田坂が注文したエールを、由梨がゆっくりと喉に流し込んでいたときだ。おもむろに田坂が切り出した。

「この三日間、由梨さんといて、こんなに楽しかったことはなかった。妻を亡くしてからはじめてと言っていい。はじめは、久しぶりに日本語で話しているからか、とも思ったりしたのだが。いや、そうじゃない。何だろう。波長?……そう、波長が合うと言えばいいのかな。まったく同じ波長というのではなくて、お互いが共鳴しあって、別の音楽を奏でるような」

 そこまでカウンター内を眺めながらゆったりと語っていた田坂が、突然、体をひねって、隣の由梨に視線をむけた。
 じっと由梨の目を見つめている。そして、意を決したように。

「唐突だとは思うけど、私との結婚を考えてくれませんか」

 一瞬の、そして永遠につづくかと思うような間があった。
 由梨は何が起こったのかわからず、エールのグラスを口元で傾けたまま固まった。

「びっくりするのは、わかる。僕だって、じぶんでびっくりしているくらいだから。結婚詐欺かと思われかねないことも、十分すぎるくらいわかっています。妻を亡くしてから、周りからはずいぶん再婚を勧められた。だが、そんな気にはなれなかった。このまま歳月に身をゆだねて老いていくのもいいじゃないか、と思っていました」
「けれど、二日前にあなたに出会った。あの晩、じぶんでも不思議なくらい離れがたかった。翌日、あなたがカフェにやって来るのを待っている間、気づいたんです。心の奥底でとっくに眠りについていた、ときめき、というのでしょうか。若い頃にはいつも傍らにあった感情が、不意にめざめた気がした。この二日間で、それは確信にかわりました」

「返事は今でなくていい。三ヶ月、いや半年待ちましょう。本当はあなたのことを考えれば、1年は待つべきなのかもしれません。でも、僕はもう若くない。時間が永遠にあると思いあがっていた傲慢な、あの頃とはちがう。叶うならば、一日でも多くあなたとの時間を積み重ねたい。だから」

「もし、この僕の勝手な申し出を受け入れてくれるならば、半年後の今日、そう11月22日にこのパブに来て欲しい。ノーならば、来る必要はありません。それが、あなたの意思だと受け入れます」

 由梨は、これは夢か幻かと思った。ニンフの国だから、カウンターの後ろの棚あたりにいたずら好きの妖精でもいて、クスクス笑っているんじゃないかと思った。でも、目の前にあるのは、誠実で真剣な田坂のまなざしだった。

 別れ際の空港で、田坂から名刺を渡された。
「聞きたいことがたくさんあるでしょう。そのアドレスに遠慮なさらずに、いつでもメールしてください。ただし、プロポーズの返事だけは、メールではしないで。断りの文言を無味乾燥なテキストで見るのはショックだし、もしもオーケーなら、直接、あのパブで聞きたいから」

 そう言って手渡された名刺を、由梨は三杯目のエールを飲みながら愛おしそうに眺めていた。

 イギリスから帰って二週間ほどは、夢の中を彷徨っているような感覚だった。あれは現実だったのか。結婚願望はもうとっくにお蔵入りさせていたはずだが、潜在意識のうちにひそんでいて、あんな茶番劇を見せたのだろうか。けれども、パスポートには出入国のスタンプが押されている。スマホには田坂と撮った写真が残っている。

 ひと月を前にして、ようやく由梨は田坂に質問のメールを出した。
 奥様とのなれそめ、亡くなられた経緯、ギャラリーの経営のことなど。中には掘り返されたくない質問もあったことだろう。だが、そのどれにも丁寧な返信があった。田坂の人柄が立ち昇ってくるような文章だった。

 三杯目を飲み終えると、また、きりきりと胸がきしみだした。

 帰国して三ヶ月を迎える頃には、もうとっくに心は決まっていた。一刻も早く田坂に会いたいという気持ちが、しだいに波のように由梨を襲うようになっていた。だから。
 なぜ、あのとき「三ヶ月」という田坂の言葉に顔をこわばらせ、彼に「半年」と言わせてしまったのか。その後悔が日ごとに募っていった。事務的な質問だけでなく、他愛ない日々の感想のようなメールも重ねた。
 でも、「返事はメールでしないで」という一言が引っかかって、会いたいという切ない気持ちを伝えることをためらわせていた。

 あとひと月という頃から、焦燥感が由梨の身を締めあげるようになった。メールを出そうにも、あるのは「会いたい」という想いだけ。それ以外の何を書けばよいのかわからなくなって、メールを出したくても出せなくなっていた。田坂も、由梨からのメールにはすぐに丁寧な返信をくれていたが、彼から自発的にメールが届くことはなかった。それは男としての矜持だったのだろうか。いや、今思えば、田坂の優しさだったのかもしれない。不用意な言葉を投げかけて、由梨の気持ちを縛ってしまってはいけないという。

 このパブに来れば、すぐに会えると思っていた。その期待だけを抱えて飛行機に乗った。ここで待ってくれていると思っていた。
 だが、まもなく20時になろうかというのに、田坂は姿を見せない。

 やっぱりね。
 こんなお伽話、現実にあるわけないもの。
 あぁあ、また、だまされちゃった。
 ふふ。嘘みたいな話を信じて、イギリスまでやって来るなんて。
 バカみたい。私ったら、いくつになったら成長できるんだろう。

 田坂に会うことしか考えず、銀座にショッピングにでも行くような気軽さで飛行機に飛び乗ったものだから、由梨はホテルもとっていなかった。

 そろそろ今晩泊まるところを、探さなきゃ。

 ざわめきがBGMとなって流れている店で、カウンターの後ろの電話が鳴った。コール音が喧噪にリズムを添える。マスターが電話を終えたらお勘定をお願いしよう。そう思っていた。

 受話器を置いたマスターがグラスにビールをついでいる。声をかけようとした矢先に、すっと由梨の前に注ぎたてのペールエールのグラスが置かれた。

 えっ、と声をあげるのを軽く手でいなされ、由梨の隣の席にもう一つグラスを置いた。

「祝杯がいるでしょう?」といってウインクする。

 ガラン、ガラン。乱暴に扉が押し開けられる音がした。
 驚いて振り返ると、田坂が肩で息をしながら立っていた。

「待たせて、ごめん。仕事でトラブルがあって」
 息が荒い。開いた扉から冷気が滑り込んでくる。それなのに、田坂の額は汗ばんでいた。いつもきちんと整えられていたオールバックの髪も汗にまみれ、乱れている。

 不意に、由梨の両のまなじりから涙がつーっとふた筋の線を引いて流れた。悲しみとはちがう。心は先ほどまでより、ずっと冷静でしんと落ち着いている。なのに。涙だけが、後から後から、溢れでて、由梨の意思を無視して止まらない。頭は冴えていて、瞳も見開いているのに、涙だけがさらさらと、ただ流れている。こんなことは、はじめてだった。涙を止められないことに、由梨自身がいちばん驚いていた。

「ごめん、不安だったよね」
 頬をつたって落ちる涙を、田坂が手の甲でぬぐってくれた。

 琥珀色に輝くエールのグラスを、田坂が由梨の顔の前で持ち上げた。

「Will you marry me?」

 由梨も慌てて、グラスを持ち上げる。
「Sure!」

 ふたつのグラスが、誓いの音を鳴らせた。


(完)



























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