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掌小説「彼岸花ゆれて」#2 予兆

前回までの話は、こちらから、どうぞ。
(登場人物)主人公:柚
       母 :絹
       妹 :葵

(2)予兆

 一週間ほど前からかなり大型の台風が紀伊半島から本州に上陸すると新聞やラジオが報じていた。

 旧高野街道がいよいよ紀州に入るというとば口に紀見峠とよばれる峠がある。まだ鉄道の通っていなかったひと昔前までは、高野山へと詣でる巡礼の旅人はこの峠に立って、はるか足下に広がる冬でも明るい紀伊国の広々と拓けた田野を見渡し、いよいよ道中もあとわずかであることを喜んだという。その峠の登り口に天見村はある。よく名づけたもので、峠の向こうとはまるでちがい、三方を葛城、金剛山系に囲まれた狭隘な谷間にひそむ袋小路のような村は、間近に迫る山のほかには天しか見渡すものがない。山裾に張りつくようにして段々畑が石垣に守られてある。旅人の興をそそるようなものは何もなく、石垣や土手や田の畦でゆれている南天の多いことにわずかに目をとめて、ここが南天の里と呼ばれていることを思い出すくらいである。

 天見の南天は実が大きく、赤々として冴えていると、古くから大阪の料亭や漢方薬店でもてはやされていた。かなり実入りのいい副収入になるため、わずかの空き地にも植えられ、穫り入れ時の師走ともなると近在の村から雇われてくる人もある。堺あたりから買い付けに来た商人が、街道脇のそこここで大八車に赤い実を山と積んで戻ると、入れ替わりに正月がやって来る。たいていの旅人はひとつ手前の古くから栄えた宿場町の三日市で宿をとる。なかにはここで草鞋を脱ぐ人も少なくなかったそうだが、明治の末に峠の下をくぐるトンネルができ、街道に沿って鉄道が通ってからは、わざわざ足を休める人もなくなり、今では村に一軒残った宿が往時を偲ばせるばかりである。とはいっても、この村が和歌山と、紀見峠を稜線にして背中合わせであることに変わりはなく、台風が紀伊半島から本州に抜けるということは、村を直撃すると予告されているに等しかった。

 予報は誤報にならず、二十五日は朝から雨まじりのざわついた風が吹き、学校も早々にしまいになった。正午を過ぎたあたりから時間を追うごとに雨は風に、風は雨にせっつかれるようにひどくなる。頼まれれば大工仕事もする父が前の日に板を打ちつけておいた雨戸が、内に外にと大きくふくらんだりたわんだりしはじめた。そこかしこの隙間という隙間に目張りをした家のうちは不気味に暗く、屋根を戸を叩き打つ雨の雄叫びが耳を襲う。たすきがけで裾をはしょり立ち働く母のうしろを勝手から土間、土間から奥の間へと娘ふたりは、あひるの子が親あひるの尻を追っかけ歩くように、離れているのがこわくてついて回っていた。ラジオも次第に雑音ばかりがうるさくなる。容赦なく叩きつける雨と風は屋根までかっさらっていきそうな勢いである。このうえ停電になってはやっかいだからと夕飯は早めにすませた。

 「このぶんやと、おとうちゃん、あしたの朝まで帰って来れんなあ」
 電鉄会社の保線工をしている父は、台風だ、大雨だ、雪だというと泊まり込みになる。今夜のような嵐でなくても注意報が出たというだけで帰って来ない。もう慣れっこになっているとはいえ、女ばかり三人では気を強くもっても、こういうとき父がいればと誰からともなしに思ってしまう。いつもは楽しい夕餉の膳もみな黙りがちで、おこうこを噛む音と茶粥をすする音ばかりが響いていた。娘ふたりはそれでもまだのんきであったが、気丈にふるまいながらも絹は夫の不在がなんとも心細く、忙しく動き回ることでごまかそうとしていた。

(続く)

#3嵐 に続く

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