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#6「ボルシチとピロシキと名画座」

 毎日新聞大阪本社が今の場所に移転する前のこと。
 その地下には、「大毎地下劇場」という、いわゆる名画座があった。

 大阪市営地下鉄四つ橋線を終点、西梅田のひとつ手前の肥後橋駅で降りると、すぐ上に朝日新聞大阪本社ビルがあった。今では建て替えられて、中之島フェスティバルタワーウエストになっている。
 その前に流れる堂島川に架かる渡辺橋をわたった対岸を堂島浜と呼ぶ。
 30年ぐらい前までは、堂島浜には毎日新聞社をはじめ、電通大阪支社や産経新聞社などがあり、あたり一帯はマスコミ村だった。

 私がはじめて勤めた小さな広告代理店も堂島浜にあった。そこには大学4年生のころからアルバイトで通っていたのだが、大学4年時には卒論のためのゼミの授業しかなかったので、とにかく時間がたっぷりとあった。バイトで堂島浜界隈をうろうろするようになって、すぐに「大毎地下劇場」を見つけた。

 中之島から渡辺橋をわたったすぐ先の右手に、毎日新聞大阪本社ビルが南北に2棟並んで建っていた。その南側のビルのいちばん南端の地下に「大毎地下劇場」があった。

 記憶がもう随分おぼろなのだが。地下に続く階段を下りると、小さな窓のついた受付があり、そこで友の会の会員証を見せると、確か700円か1000円ぐらいでリバイバル映画を2本見ることができた。比較的新しいリバイバルの時は2本立てだったが、ヒッチコックとか古い名作映画のときは3本立てのときもあったように記憶している。平日の昼間に映画を2本も続けて鑑賞する人はまれだったから、劇場はいつも空いていた。後ろから3列目あたりの中央が、私の定位置だった。

 明るい午前中に映画館に入って、3本見終えて外に出ると、あたりは黄昏の淡い光をヴェールのように纏いはじめている。黄昏は「誰そ彼」から来ているというが、その由来を思い起こさせるごとく、残照をあびてシルエットだけが透けて見える人びとが足早に行きかう。それまで観ていた陰翳のかかったセピアの世界との境界がわからなくなり、心が昂ったままふらふらと渡辺橋を肥後橋駅へと向かう。橋の欄干から見下ろす堂島川が黄金色に波立ち、ビル群が墨を流したような翳を落としていた。

 『ローマの休日』も、『シェルブールの雨傘』も、『理由なき反抗』も、『太陽がいっぱい』も。みんなここで観た。古典の名作だけでなく、新作映画も2ヶ月ほど待てば上映してくれていたから、たいていは、ここで観た。それまでさほど映画への興味がなかった私に、映画への扉を開いてくれたのが、「大毎地下劇場」だった。当時むさぼるように観た名画の場面が、今でも時折、無秩序にフラッシュバックすることがある。


 劇場の隣に大毎地下街という飲食街があった。さすがマスコミ村の飲食街だけあって、今では伝説の名店がいくつか入っていた。

 日本で初めてポットで紅茶をサーブしたといわれる「ティーハウス ムジカ」の支店も、ここにあった。名店といってもビルの地下街だから、どの店も広くはなかった。ちゃんこ鍋店もあって、ここだけは広い座敷があったように記憶している。会社の忘年会は、いつも、このちゃんこ鍋屋だった。

 その中のひとつに、ロシア料理をうたった洋食屋があり、ボルシチとピロシキを売りにしていた。もちろん、当時の私は、ボルシチもピロシキも食べたことがないだけでなく、そんな料理があることすら知らなかった。今から思えば、本場のボルシチとは似ても似つかないものだったけれど。ビーツが入っていたわけでもなく、よく煮込まれてキャベツがくたくたになった、ただの野菜スープだったように思う。それでも、昼どきには、たいてい行列ができていた。昼前の比較的すいている時間に、ときどき、映画館に入る前にここでピロシキとボルシチを食べた。

 それがどんな味だったかは、はっきりとは覚えていない。ただ、これから観る異国の映画への期待や憧れと相まって、凍てつくシベリアの平原へと勝手に想像の翼を広げながら、温かなボルシチで心を満たしていた。

 その店は、毎日新聞ビルが取り壊された後、その跡地にできた「堂島アバンザ」というビルに入っていたと噂に聞いたのは、ずいぶん経ってからで、今ではもうそこも閉店してしまった。最後にもう一度、味わっておけばよかったと、少し後悔している。

 世の中がバブル景気に浮足だっていた時代に、ほの暗い映画館で静かに名画に浸りきっていたあの一年は、何ものにも替えがたい珠玉の時間だった。今でも耳を澄ますと、後方からジジジッとフィルムの回る、時間を閉じ込めた音が聞こえてくる気がする。


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